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「竹下村誌稿」を読む 132 質侶庄 19

(裏の畑のアルストロメリア)

朝から梅雨にでも入ったような天気である。(奄美は梅雨入りだとか)季節が移るのが早くなったと思う。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

されど明応の頃(1492~1501)には、鶴見栄寿、本庄横岡に居城したれば、その間、或るはその(今川氏の)配下に属したりしやも、また測り難し。鶴見氏、その系譜を詳らかにせずといえども、栄寿は因幡守を名乗り、縫殿之助と称し、栄寿の子を大蔵と云えり。鶴見氏、初め掛川に居城し、のち横岡に移住せしものなり。掛川誌掛川城の条に、

郭中、中西と云う所に、鶴見氏の屋敷跡と呼ぶ所あり。相伝う、昔遠州に三十六人衆と云う士あり。その内、鶴見因幡守栄寿と云う人、父子三代五十余年、ここに居りしと云う。また栄寿の城趾、榛原郡質侶の横岡にあり。この人、明徳五年(1394)、倉真松葉の城主、河井宗忠を襲討し、宗忠また死す。この事、奥野長松院の記、及び松堂録に載(の)りたり。然れば、鶴見氏の掛川に住せしは、(掛川城)築城已前の事なり。
※ 郭中(かくちゅう)- 仕切られた地区の内。城・遊里などの囲いの内。

按ずるに、掛川の築城は明応・文亀年間(1492~1504)にありとす。或るは永正の初め(1504~)、今川氏親の臣、朝比奈泰熙の経営せしものなりとも云う。兎に角、築城前五十余年間、鶴見氏が掛川に居住したりとすれば、この間に於いて、横岡に移住せしものなるべし。かくて明応五年(1496)、鶴見氏が横岡に在りて、松葉城を襲討したれば、同氏が横岡に移りし年代は勿論、それより以前のことにして、文明・延徳の頃(1469~1942)には非ずやとも推考せらる。

この時代は天下大いに乱れ、党を結び国を争い、本州は今川、斯波の両党に分かれ、今川氏は東遠を領し、斯波氏は西遠を有し、州内の豪族両党に分属して、戦争止まず。而して鶴見氏は、土豪横地、勝間田諸族と皆な斯波氏に属し、今川に反抗せしものゝ如し。鶴見氏の城趾として、同書(掛川誌)横岡村の条に、

鶴見氏城趾 観勝寺の東にあり。鶴見因幡守栄寿居る。明応五年(1496)九月十日、佐野郡倉真村松葉の城を襲いて、城主河井蔵人成信がために討たる。鶴見氏世系を詳らかにせず。
※ 世系(せいけい)- 祖先から代々受け継いだ系統。ちすじ。血統。

とあり。然るに遠記伝、長松院記、松堂録、皆反対の記事あり。成信、戦いに敗れて自殺したりとありて、ほとんどその真相を知るに苦しむといえども、成信戦死のことは疑いを容れざるべし。或るは、前記、河井蔵人成信がために討たるとあるは、河井蔵人成信「之れ」がために討たるの、二字を誤脱せしには非ざるかと云えり。
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