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「竹下村誌稿」を読む 136 質侶庄 23

(新緑の静岡城北公園)

午後の駿河古文書会。少し早く出て、南部生涯学習センターに、第一回の解読資料を届けた。お昼は、心地好い天気の下、城北公園のベンチで、昼食に持参のおむすびを食べた。城北公園のヒトツバタゴも、5月初旬の花期も終り、新緑の季節に突入している。

50年前、ここは大学の構内で、古い学舎で日々講義を受けたはずだが、ほとんど記憶に残っていない。覚えているのは、具がほとんど入っていない、しょっぱいだけの味噌汁が、どんぶりによそわれて出た、学生食堂のことや、その食堂二階の畳敷の大部屋に入り浸り、日夜、碁を打っていたことぐらいであろうか。

図書館で、金谷宿大学の歴史の教授、ST先生に会う。早速、関口隆吉の歌の解読を頼まれた。デジカメに納めて持ち帰る。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

按ずるに、法昌院記に、開基法昌院殿補安宗忠大居士、明応五年(1496)九月十日とあるを見るも、河井氏が同院を開基したりし如くなれば、或るは同氏が大代に居住せしと云うことも、強(あなが)ち架空の説にも非ざるが如し。兎に角、この砦は今川氏に領属せしものなるべければ、武田氏乱入の際、火を放ちてこれを攻め陥したりと云う。今は白山神社の社域となりて、面影を存せずといえども、砦の礎石は依然として存し、三百五十年の昔を物語るものなり。

その付近に厩平と云う地名あるは、この時軍馬を繋ぎたる跡なりと云う。この砦は八光山の中腹にありて、大代に属し、その背面は高熊、福用に接続す。掛川誌福用村の条に、
※ 厩平(うまだいら)- 八高山の中腹に現在「馬王平(まおうだいら)」という場所があるが、そのことか。

八光山或るは白光、八高、また八講、に作る。村の西北にあり。峰に至る六十町。榛原、佐野両郡に跨(またが)り、粟岳、大悲山より稍(やや)高くして大なり。この山、半面は高熊村に属す。編年集成云う、安倍家伝に、大蔵光真を神君より遠駿の界に砦を設けて籠り置かれしが、甲州方の八講山の砦を抜きてこれに移るとあり。この砦の跡詳らかならず。
※ 粟岳、大悲山 - 粟ヶ岳(海抜532m)と大尾山(海抜661m)。ちなみに八高山は海抜832メートルである。

とありて、砦のこと詳らかならずといえども、思うに同書は専ら掛川領内の事を書きたるものなれば、他領なる大代に亘らざりしものなるべしといえども、八光、八向、国音同じければ、或るは思い当たる節なきに非ず。
※ 国音(こくおん)- 日本独特の漢字のよみ。和訓。
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