●正義の善に対する優先
ロールズは、正義と善の区別を提唱し、正義の善に対する優先を主張した。正義は社会の基本構造に対応し、善は個人の生き方に対応する。正義と善の関係については、本章の始めに書いたが、近代以前の西欧は、アリストテレスの思想の大きな影響下にあった。アリストテレスは、人間をポリス的な動物ととらえ、政治的共同体をつくる目的は、公共善の実現にあるとした。その思想では、正義とは「善い生き方」にふさわしいありかたを示すものであり、善が正義によりも優先された。
これに対し、近代西欧では、公的な善を正義とする考え方に代わって、私的な善を優先する考え方が支配的になった。私的な善を優先する場合、善は個人的な価値となり、私的な善の追求を保障する社会的な枠組みが正義となる。私的な善の優先は、さらに善を正義より優先するか、逆に正義を善より優先するかで考え方が分れる。功利主義は、公的な善より私的な善を優先し、かつ善を正義より優先する。カントは公的な善より私的な善を優先するが、正義を善より優先する、とロールズは理解する。またそこに正義と善をめぐる功利主義とカント哲学の違いと対立があるとする。
正義と善の区別は、公と私、あるいは公益と私益の区別に置き換えることができるだろう。だが、ロールズは、あえて正義と善という対概念を選び、それによって自らの正義論と功利主義の違いを際立たせた。
功利主義は、正義から独立に善を規定し、その善の最大化を目標とする理論である。その正義観は、社会を構成する個人の満足の合計が最大となるように社会制度が編成されている場合に、その社会は正義に適っているとする。ロールズは、功利主義を、正義を善に還元して正義と善の区別を認めない思想として批判した。
正義と善の関係について、ロールズはカントの考え方を継承する。カントは人間が自由であるのは、道徳的な存在であるからだと考える。道徳的な存在であるとは、理性によって自らの道徳法則を自由に定めることができることである。それゆえ、カントの正義論では、道徳的な義務はいかなる善の概念にも左右されない。そこでは正義が善に対して優先される、とロールズは理解する。
ロールズの「公正としての正義」は、彼の理解するカントにならって、正義が善に対して優先される。ロールズにおける正義が善より優先されるということには、二つの意味がある。第一に、個人の権利は集団全体の善のために犠牲にされてはならないこと。第二に、権利の枠組みを定める正義の原理は、個々人の「善い生き方」に関する特定の見解を前提にしてはならないこと。この二つである。
ロールズは、『正義論』に次のように書いた。「一人ひとりが正義に基づく不可侵性を持っているため、社会全体の幸福ですら、それを踏みつけることはできない。正義によって確保された権利は政治的取引や社会的利益の計算には左右されない」と。
ここにおける正義の善に対する優先は、近代西欧の個人主義的自由主義の思想である。個人主義的自由主義においては、共同体の共通目的としての公的な善は設定されておらず、各人がそれぞれ自分の人生における私的な善を、政府や他者から干渉されることなく追及することを以て、自由としている。ロールズの「公正としての正義」は、個人の自由を確保するための社会的な枠組みを正義とし、その社会において、人々がどういう善を目指すかについては論じることがない。これは、21世紀の今日の個人主義的自由主義が、価値を相対的なものとし、自由を個人の選好ととらえるのと同じ姿勢である。
次回に続く。
ロールズは、正義と善の区別を提唱し、正義の善に対する優先を主張した。正義は社会の基本構造に対応し、善は個人の生き方に対応する。正義と善の関係については、本章の始めに書いたが、近代以前の西欧は、アリストテレスの思想の大きな影響下にあった。アリストテレスは、人間をポリス的な動物ととらえ、政治的共同体をつくる目的は、公共善の実現にあるとした。その思想では、正義とは「善い生き方」にふさわしいありかたを示すものであり、善が正義によりも優先された。
これに対し、近代西欧では、公的な善を正義とする考え方に代わって、私的な善を優先する考え方が支配的になった。私的な善を優先する場合、善は個人的な価値となり、私的な善の追求を保障する社会的な枠組みが正義となる。私的な善の優先は、さらに善を正義より優先するか、逆に正義を善より優先するかで考え方が分れる。功利主義は、公的な善より私的な善を優先し、かつ善を正義より優先する。カントは公的な善より私的な善を優先するが、正義を善より優先する、とロールズは理解する。またそこに正義と善をめぐる功利主義とカント哲学の違いと対立があるとする。
正義と善の区別は、公と私、あるいは公益と私益の区別に置き換えることができるだろう。だが、ロールズは、あえて正義と善という対概念を選び、それによって自らの正義論と功利主義の違いを際立たせた。
功利主義は、正義から独立に善を規定し、その善の最大化を目標とする理論である。その正義観は、社会を構成する個人の満足の合計が最大となるように社会制度が編成されている場合に、その社会は正義に適っているとする。ロールズは、功利主義を、正義を善に還元して正義と善の区別を認めない思想として批判した。
正義と善の関係について、ロールズはカントの考え方を継承する。カントは人間が自由であるのは、道徳的な存在であるからだと考える。道徳的な存在であるとは、理性によって自らの道徳法則を自由に定めることができることである。それゆえ、カントの正義論では、道徳的な義務はいかなる善の概念にも左右されない。そこでは正義が善に対して優先される、とロールズは理解する。
ロールズの「公正としての正義」は、彼の理解するカントにならって、正義が善に対して優先される。ロールズにおける正義が善より優先されるということには、二つの意味がある。第一に、個人の権利は集団全体の善のために犠牲にされてはならないこと。第二に、権利の枠組みを定める正義の原理は、個々人の「善い生き方」に関する特定の見解を前提にしてはならないこと。この二つである。
ロールズは、『正義論』に次のように書いた。「一人ひとりが正義に基づく不可侵性を持っているため、社会全体の幸福ですら、それを踏みつけることはできない。正義によって確保された権利は政治的取引や社会的利益の計算には左右されない」と。
ここにおける正義の善に対する優先は、近代西欧の個人主義的自由主義の思想である。個人主義的自由主義においては、共同体の共通目的としての公的な善は設定されておらず、各人がそれぞれ自分の人生における私的な善を、政府や他者から干渉されることなく追及することを以て、自由としている。ロールズの「公正としての正義」は、個人の自由を確保するための社会的な枠組みを正義とし、その社会において、人々がどういう善を目指すかについては論じることがない。これは、21世紀の今日の個人主義的自由主義が、価値を相対的なものとし、自由を個人の選好ととらえるのと同じ姿勢である。
次回に続く。
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