ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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仏教71~元の時代と明の時代

2020-10-21 10:19:38 | 心と宗教
●元の時代

 13世紀初頭、チンギス・ハンがモンゴル高原からユーラシア大陸各地へ侵攻し、東ヨーロッパ、ロシア、中東、チベットに渡る広大なモンゴル帝国を樹立した。シナでは、フビライ・ハンが1234年に金を滅ぼし、1271年に国号を元とし、1279年に南宋を滅ぼし、シナ全土を征服・支配した。元は、さらに満州・チベットを併有し、高麗を属国とし、東アジア大陸部をほぼ勢力下に収めた。
 政治機構は、広大な領土を支配するために、直轄地を支配する中書省の出先として、自治的な機能をもつ行省を設けた。民族間の身分制を設け、支配民族のモンゴル人、色目人 (西方人)、被支配民族の漢人、南人 (南宋人) の順位とし、官庁の長は前二者が占めた。シナ伝統の政治を担ってきた士大夫は、冷遇されたため、文学の創作に活動の場を見出した。
 モンゴル帝国では、帝国全土の交易路や駅伝制度を整備したり、紙幣を発行して法貨とするなどして、交通・通商の円滑化を図ったので、東西交渉が繁栄した。だが、この史上空前の大帝国の栄華は長続きしなかった。元では、クビライの死後、帝位が安定せず、帝位を巡る紛争が頻発し、権臣の悪政によって政治が乱れた。また、14世紀の初頭から、世界的に気候が寒冷化し、シナでは洪水や疫病等の天災が相次いだ。大規模な治水工事で政府の支出が増大し、塩の専売や紙幣の濫発で経済が悪化し、庶民の生活は困窮した。各地で反乱が発生する中で、1351年に紅巾の乱が勃発し、た。その中で頭角を現した朱元璋によって、元はシナから駆逐された。

◆元代の仏教
 モンゴル族は、チベット仏教を信奉していた。元もチベット仏教を保護したが、他の宗教や仏教の他宗派も許容した。元代にシナ土着の宗派の中で最も勢力を強めたのは、浄土信仰を基礎とする白蓮教だった。白蓮教は、モンゴル人支配に不満を持つ知識層や民衆の間に信者を増やした。元代の末期には、黄河と淮河の流域を中心に各地に拡大した。その白蓮教徒が中心となって起こしたのが、紅巾の乱である。紅巾の乱は、元帝国に衰亡をもたらした。

◆元代の道教
 南宋時代にシナ北部に現れた全真教は、王重陽の弟子の丘処機がチンギス・ハンからモンゴルにおける道教の総取締りに任じられた。元朝の庇護を受けた全真教は、シナ北部全域に広まり、江南にも勢力を伸ばした。江南では、五斗米道の系統の天師道が活動していた。元の初代世祖であるフビライ・ハンは、天師道の公称を正一教と定め、江南地域の道教を掌握させた。全真教は道教・儒教・仏教の三教が融合した新道教であり、正一教は伝統的な道教である。これら道教の新旧二つの潮流をなす教団が道教界を二分する状態が、清代末期まで続いた。

●明の時代

 紅巾の乱の中から頭角を現したのが、貧農出身の朱元璋だった。朱元璋は、白蓮教を排して地主勢力と結び付いて勢力を拡大し、1368年に明を建国し、太祖・洪武帝となった。同年、元の都である大都を攻め落とし、元の政府をモンゴル高原へ撤退せしめた。その後の元を北元と呼ぶ。明と北元の争いは、その後も続いた。
 洪武帝は、金陵(南京)に都を置き、漢民族の統治を復興した。シナの伝統に基づく官制・律令を行って内政を改革し、一世一元制を敷いて皇帝独裁制を確立した。対外的には、海外渡航や海外貿易に禁圧を加える海禁政策を取った。
 洪武帝の死後、孫の建文帝が即位すると、叔父の朱棣が「君側の奸を除き、難を靖んず」と唱え、靖難の変を起こして永楽帝となった。永楽帝は、都を北京に移し、北元を攻撃したり、海禁の例外として国営貿易を行ったり、鄭和を南海に遠征させるなど、積極的な対外政策を行った。
 だが、永楽帝の死後、北元が再び勢力を強め、1449年には正統帝が捕虜となる土木の変が起きた。また、15世紀後半から倭寇が活発になり、シナの南部は頻繁に襲撃を受けた。北のモンゴルと南の倭寇による北虜南倭に、明は苦しみ、財政も窮迫した。
 宗教・思想の面では、明代は儒教が発達し、キリスト教の宣教が行われた時代だった。仏教は概して低調だった。洪武帝は、朱子学を儒教の正統と定め、永楽帝は、朱熹の著書を編纂し、科挙受験者の必読書とした。明代の中期末頃には、王陽明が朱子学を批判して陽明学を樹立した。明代後期には、それが主流の思想となった。16世紀末にマテオ・リッチが渡来し、キリスト教の伝道をはじめた。彼らイエズス会宣教師は、ヨーロッパの思想や暦学・天文・地理・数学・砲術等を伝え、シナ人に知識や技術の進歩をもたらした。その点では歓迎されたものの、布教の成果はあがらなかった。
 明は皇帝独裁制だったため、皇帝次第で政治が大きく左右された。宦官が側近の大多数を占めるようになって国政は腐敗した。過酷な徴税で民生は崩壊し、農民による反乱が相次いだ。その反乱の指導者である李自成が1644年に北京を占領し、明は滅亡した。だが、わずかその40日後、満州女真人が北京を奪い、清がシナを支配することになった。

 次回に続く。

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