ほそかわ・かずひこの BLOG

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人権8~人権の狭義と広義

2012-08-26 08:53:03 | 人権
●狭義の人権と広義の人権

 今日人権と呼ばれる権利は、実際は普遍的な権利ではなく、特殊的な権利である。だが、世界の現状は、その区別なく人権といい、権利一般の拡大が目指されている。現実からはるかに遠い理想・目標も、職業・性別・年齢等に限定する特殊的権利も含めて、人権と呼んでいる。だから、逆に人権といえば非常に特殊な権利の主張も、人権として普遍的に実現されるべきものという主張がされ、そうすべきであるかのような錯覚を生み出す。その典型がわが国における定住外国人への参政権付与や人権侵害救済機関の設置の動きである。「人権」と言われると、多くの人は反論ができなくなってしまう。錯覚のためである。その錯覚を打ち破るには、人権の意義を狭義と広義に区別する必要がある。
 人権は、狭義では、国籍や資格、性別、年齢等に関わりなく、人間であれば誰しも持つ権利という概念である。世界人権宣言は、人間は生まれながらに平等の権利を持つことを定め、宣言という形で発表してその実現を助長・奨励している。これに、わが国をはじめ多数の国々が参加している。だが、このような意味での人権は、実際には実現していない。理想・目標にとどまっている。現実とは大きな開きがある。
 一方、人権は、広義では、国民や集団の成員、性別・年齢等に限定される特殊的な権利を含む権利一般である。そのため、広義の人権は「人間が人間として生まれながらに平等に持っている権利」「国家権力によっても侵されることのない基本的な諸権利」という普遍的・生得的な基本的な権利という一般的な理解と矛盾する。
 人権は、狭義の場合は「普遍的でありたい権利」「普遍的であるべき権利」であり、広義の場合は特殊的な権利を含む権利一般である。そして、歴史的・社会的・文化的に発達してきた権利が実態であるのに、これらに同じく人権という言葉を充てて乱用するため、解釈や議論に混乱を生じている。
 人権を狭義と広義に分けて考えると、世界人権宣言、国際人権規約、一連の国際人権保障条約、またわが国の現行憲法における人権という概念は、定義が不十分で、徹底的に検討がされていないことが明らかになる。
 国際連合の世界人権宣言は「宣言」であって、憲法ではない。各国の憲法は、政府がその規定に反する行為を行ったときは、その責任が問われる。しかし、国際連合は、「宣言」を発することにより理想・目標を示しているにすぎない。国際連合の加盟国は、「宣言」の理念に基づきつつ、自国の憲法により、国民に対して、その権利を保障する。国民は、その権利に伴う義務を負う。これに対し、世界人権宣言は直接、各国の国民個人に義務を課すものではない。加盟国に対しても、勧告はしても罰則を与えるものではない。そこに国家という機関と国際組織という機関の根本的な違いがある。国際社会は基本的には主権国家を単位として構成されており、国際組織は主権国家間の共同や連携のための機関であって、地球政府ではない。
 だが、世界の大多数の国々は、上記のような矛盾をはらんだ思想を受け入れ、それを批判することなく、その上に自国の憲法や法律で人権について規定している。また国際機関による人権の保障がされ、実現が促進されてもいる。国際人権規約に基づく自由権規約委員会・社会権規約委員会の総括所見は、法的拘束力はないが、勧告的な効果を持っている。平成18年(2006)に国連総会で設立された国連人権理事会は、以前経済社会理事会の下にあった人権委員会より、強い影響力を振るっている。定義が不十分のまま、各種の条約が結ばれ、実行がされないと、実行が促されるという仕組みが出来上がっている。
 私は、普遍的と特殊的の権利を区別し、また人権の狭義と広義を区別したうえで、世界人権宣言・国際人権規約等を改定し、それに従って国際人権機関の制度や運用を改める必要があると思う。またわが国においては、憲法の改正において、現行憲法の「基本的人権」という概念を再検討し、条文の改定をなすべきである。憲法改正案については、後項で述べる。

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