ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権155~ナショナリズムと愛国心

2015-05-28 08:51:19 | 人権
●ナショナリズムと愛国心

 ナショナリズム及びナショナル・アイデンティティと深く関係するものに、愛国心がある。
 ゲルナーの項目で、ゲルナーのナショナリズム論は、産業革命以後の段階について述べたものだと書いた。近代化しさらに産業化する社会において、多数の人々が共通語や標準化された知的・技術的能力を習得するには、大規模な教育制度が必要である。その教育制度を整備し得るのは、政府以外にない。政府は産業社会の要請に従って、教育制度を整え、共通の言語や基礎的な知的・技術的能力を人々に身に付けさせた。教育の発達がさらに産業化を推し進め、社会の流動性を高めた。政府はまた強力な軍隊をつくろうとして国民皆兵制を敷いた。ゲルナーは、近代的な軍隊が産業社会におけると同じように、人々を集権的に教育し、文化的に同質化したとも説いている。
 私見を述べると、工場も軍隊も、一定の目的の下に人々を組織し、合理的に動かす集団である。そのような集団の構成員は、指示・命令を理解し、互いに意思を疎通し、決められた作業を同じようにできなければならない。それには、共通語の読み書きと基礎的な計算能力を身に付け、集団的行動の訓練ができていなければならない。学校や軍事教練場は、そのような構成員を養成する機関である。
 問題は、産業革命以後の段階において、近代的・合理的な組織人を養成し、集団の能力を高めることと、ナショナリズムとの関係である。私は、ここで重要なのは、学校で愛国心を教え、軍隊で国防に従事することだと考える。愛国心の涵養と国防への従事が、国民意識を高め、ナショナリズムを発達させた。もし工場労働者に愛国心を教えなければ国家に無関心であり、また国防に従事させなければ国防に無関心だろう。
 愛国心は、パトリオティズム(patriotism)の訳語である。祖国愛とも訳す。パトリオティズムは、もともと郷土(ラテン語のpatria パトリア)への愛情である。ナチオが「生まれ」「同郷の集団」を意味するのに対し、それへの愛着や忠誠を表す。郷土愛、愛郷心である。郷土愛、愛郷心としてのパトリオティズムは、近代以前から存在し、近代以後も存在している。パトリオティズムは、ナショナリズムにおける前近代的かつエスニックな要素の一つである。このどの時代どの地域にも見られる郷土愛・愛郷心に対して、ナショナリズムは、個人の忠誠心を近代的なネイションに向けることによって成立する政治的な意識と行動である。
 人は自分の帰属する集団に対して、愛着、誇り、一体感を抱くと、忠誠心を以て行動する。この感情と意思が向かう対象には、家族・氏族・部族・結社・団体・民族等から、国民全体が住む国家までの広がりがある。また、内容には、懐かしさ、親近感、郷愁のような淡い感情から、対象との一体感、熱烈な献身までの幅がある。これらのうち、郷土に向かうものが郷土愛・愛郷心である。ここでいう郷土には、生まれ育った土地だけでなく、故郷に住む人々、その先祖を含む。郷土愛・愛郷心は、地域の生活環境の中で育まれる感情や意識であり、自分の属している地域集団が外から侵害された時は、集団を防衛しようとする意思と行動となって現れる。
 ネイションの形成の過程で、社会集団の規模が拡大し、郷土愛の対象が祖国に一致したものが、祖国愛・愛国心である。ナショナリズムは、祖国愛・愛国心の意味で使われる場合もある。領域内の諸地域を統合しながらネイションが形成される過程で、パトリオティズムはナショナリズムに発展し得る。対象が郷土から、祖国へと拡大される。それによって郷土愛が祖国愛に発展し、もともとの郷土愛に加えて、祖国愛が成立する。それゆえ、本来、祖国愛は郷土愛を否定するものではない。国民という上位集団への愛情と郷土という下位集団への愛情は、相互に排斥するのではなく、相補的であり得る。また祖国愛は、源泉としての郷土愛に根付き、またそれに裏付けられてこそ、強固なものとなる。ここで祖国愛を愛国心、郷土愛を愛郷心と置き換えても同じものである。

 次回に続く。

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