ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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インド70~ガンディーの非暴力・不服従運動(続き)

2020-04-16 10:06:57 | 心と宗教
●ガンディーの非暴力・不服従運動(続き)

 1929年に、インド総督は、インドの自治について協議するためにロンドンで英印円卓会議を開催することを表明した。インド人との妥協点を見出すためである。この年、米国発の世界恐慌が起こり、インドも経済的な打撃を受け、農村の貧困化は一層深刻になった。こうした状況で、国民会議派の主導権は、ジャワハルラール・ネルーなどの若い急進派に移った。彼らは、単なる自治ではなく「完全な独立(プルーナ=スワラージ)」を要求することを決議し、要求が容れられなければ円卓会議に参加しないことを宣言した。
 ガンディーは、1930年に再び運動を開始し、イギリスによる塩の専売制に反対して「塩の行進」を行った。自分たちの手で海水から塩を作るため、海岸までの約380キロメートルの距離を行進した。これが第2次非暴力・不服従運動である。
 運動の高揚を恐れたイギリスが塩の製造を許可したので、ガンディーは運動を中止し、英印円卓会議に参加し、インドの完全自治を訴えた。だが、イスラーム教徒の代表者等はこれに同調せず、ガンディーは孤立した。帰国後、運動の再開を決定すると、またも逮捕された。
 イギリスは、英印円卓会議で、不可触に対して州議会選挙の特別枠を作ることを提案した。特別枠とは、不可触だけが立候補できる選挙区である。宗教やカーストの違いによる集団間の対立を分割統治に利用するものだった。不可触に一定の議席を与えて、国民会議派の議席をその分だけ減らすことを狙っていた。
 ガンディーは、もともとカースト制度をヒンドゥー教の根本的な制度として肯定していた。生まれによって身分を区別するヴァルナを遺伝によるものと認識し、出自による職業の世襲は人生の幸福と深い宗教的生活を保証するものと考えていた。しかし、その誤りに気づくようになり、カースト制による社会的差別に反対する姿勢に転じた。イギリスの選挙特別枠の提案に対し、ガンディーは、不可触に特別枠を作ることはカースト制の差別を法的に固定化することになると強く反対し、獄中で抗議の断食を行った。ガンディーは、不可触をハリジャン(神の子)と呼び、出獄後は彼らの解放を目指すハリジャン運動を開始した。
 ネルーやチャンドラ・ボースなど国民会議の急進派は、ガンディーの運動はイギリスからの独立という政治的な闘争を放棄するものであるとして批判した。指導部に意見対立が生じたため、第2次非暴力・不服従運動は行き詰まった。1934年にガンディーは、運動の終結を宣言した。
 インドの独立を目指すナショナリズムが高揚すると、イギリスは新たなインド統治法を1935年に制定した。これは、中央政府では従来通りインド総督が強い権限を保持するが、地方では選挙権を拡大して、州政府に一定の自治を認めるものだった。1937年の選挙で、国民会議派は11州のうちの7州で議席の多数を占め、その州の政権を担うことになった。これに対し、インド・ムスリム連盟は、ヒンドゥー教徒による支配体制が敷かれることを警戒し、宗教間の対立が深まった。
 イギリスの統治政策は、徐々に妥協や譲歩を示しながらも、カースト制や宗教対立を利用して急進化を防ぐという老獪なものだった。そのため、インドのナショナリズムは巧妙に抑え込まれ、容易に独立を勝ち取ることはできなかった。
 
●第2次世界大戦とナショナリズムの高揚

 1939年9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって、第2次世界大戦が開始された。1940年3月、国民会議派はガンディーの指導のもと、戦争反対を掲げて非暴力・不服従運動を開始すると宣言した。ガンディーは、ファシズムとは対決するとしつつ、イギリスと妥協することは拒んだ。一方、インド・ムスリム連盟は、イギリスの戦争への協力を声明した。連盟の指導者ムハンマド・アリー・ジンナーは、「インド亜大陸のヒンドゥー教徒とムスリムは互いに異なる民族である」と宣言し、インドとは別のムスリム国家の建設を目指すことを明確にした。これによって、国民会議派との対立は決定的になった。
 1941年12月、日本が英米と開戦し、大戦の舞台はアジア太平洋地域にも広がった。チャーチル内閣はインドの戦争協力を得ようとした。しかし、イギリスが出した条件は即時独立とはほど遠かった。ガンディーは1942年8月、イギリスに対して「インドを立ち去れ(クィット・インディア)」と宣言し、「インドを立ち去れ運動」を開始した。民衆には「行動か死か」と迫って、戦争への非協力を呼びかけた。ガンディーは、即刻逮捕された。彼が逮捕されると、これに抗議する民衆の暴動が各地で発生した。
英領マレー半島に進出した日本軍は、そこでイギリス軍の中核をなすインド兵に対して投降工作を行い、インド独立の基盤を作る工作をした。藤原岩市少佐が率いる特務機関(F機関)が、インド国民軍の創設を指導・支援した。
 日本軍の指導・支援を受けたスバス・チャンドラ・ボースは、日本政府からインド独立への支援の約束をとりつけ、1943年5月、シンガポールで自由インド仮政府を樹立して、英米に宣戦を布告した。
 日本軍は、インドの解放を目指し、1944年3月にインパール作戦を決行した。作戦は、イギリス軍のビルマ進攻防止と自由インド政府を支援するために発動された。だが、彼我数倍の兵力差と雨期にたたられ、物資補給が途絶えて、日本軍は敗退した。死者は3万人にのぼり、インド国民軍も8千人の犠牲者を出した。ボースは亡命する途中の飛行機事故でやけどを負って死亡した。敗北の結果、ガンディーの「インドを立ち去れ運動」は停止された。しかし、日本軍の支援と共闘は、インド人に勇気を与え、インドの独立運動を促進した。インド国民軍は、今も日本の協力に感謝している。インドの独立は、ガンディーの非暴力主義だけで、成し遂げられたものではない。
 1945年8月の日本敗戦の後、イギリスはインド国民軍の約2万名を、反逆罪で軍事裁判にかけようとした。しかし、ガンディー、ネルーらの国民会議派は、「インド国民軍将兵は、インド独立のために戦った愛国者である」と反発し、反英運動を繰り広げた。

 次回に続く。

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