●近代的国家主権の原型
第1部では、人権について、基礎理論の検討を行った。人権の発達を見るには、その歴史と思想を把握することが必要である。そこで、第2部では、西欧における人権の発達を歴史的にたどり、続いて思想的な展開を見る。
人権は、主権・民権との関係の中でとらえなければならない。本章では、主権・民権・人権について、西欧の中世から市民革命の時代まで、次章で続いて国民国家・ナショナリズム・帝国主義の時代までの歴史を書く。その後に、20世紀初めまでの人権の発達を書くこととする。
私は、「西洋発の文明と人類の歴史」という文明学的な観点に立った史論を書いており、本稿はそれに対する個別主題的な論稿となる。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09e.htm
さて、主権・民権・人権の歴史を概観するに当たり、最初に主権について述べたい。主権については第1部第4章に基礎的なことを書いた。主権は英語 sovereignty等の訳語であり、国境で区画された領域内における最高統治権である。主権は統治の権利であり、その作用を力の観念でとらえれば、統治の権力である。実際、近代西欧では、主権は「最高の力」と呼ばれてきた。
西欧における権利と権力の根源は、ユダヤ=キリスト教の神に求められ、神の代理人としての教皇の権利と権力は神に授ったものとされた。この教権神授説に対し、帝権神授説、王権神授説が現れ、民権神授説、民権互認説が続いた。人権は、国王が神から授かったとする主権に人民が参与する過程で唱えられるようになった。ここで民権とは「国民の権利(rights of people)」であり、その一部が普遍的・生得的なものと想定されて人権すなわち「人間の権利(human rights)」と唱えられることになった。
近代的な国家主権には、原型がある。先行形態と言ってもよい。それは、ローマ・カトリック教会の教皇権である。古代ローマ帝国は、395年に東西に分裂した。その後、東西の帝国でキリスト教の教会は独自の道を歩み、1054年に最終的に東方正教会とローマ・カトリック教会に分離した。ローマ教皇の教皇権は、神授のものとされた。教権神授説は、キリスト教の教会組織が成立して以来、唱えられてきた思想だった。
教皇グレゴリウス7世は、1075年に教皇教書を発布した。教皇教書は絶対的教皇権を確立するものだった。ここでの絶対的とは、一人に権威と権力が集中した状態をいう。立法・司法・行政のすべてにわたる権限が一個の権限となり、それが教皇によって保持された。教皇は、聖書に記された神の法と自然法とにのみ従う普遍的な立法者であるとした。神の法と自然法にのみ従うとは、人間が作った人定法を超えた存在ということである。また、教皇は聖職者及び君侯を補助者として使用する統治者、そして教皇令その他教会法に関する審判者であるとした。これによって教皇は、立法・司法・行政を貫く至上権を得た。私は、この絶対的教皇権が近代的な国家主権の原型と考える。
教皇権はやがて皇帝権と相対的なものとなり、中世の西欧は、宗教的な教皇と世俗的な皇帝を二つの頂点とし、様々な封建勢力が各地に所領を持って混在する社会となった。近代的な国境は存在しなかった。その教皇権と皇帝権が並立する構造を打破したところに、国王の主権が成立した。これが近代的な国家主権の誕生となった。そして、国王の主権は、国王と貴族や新興階級、国王と国民が共有するものとなったり、国民が共有するものとなったりした。主権に国民が参与する過程で、国民の権利が獲得・拡大され、その権利が人権と呼ばれるようになる。
●教皇権に対する皇帝権の独立
絶対的教皇権を確立した教皇グレゴリウス7世は、1075年に俗人による高位聖職者の任命を禁止した。それによって、教皇と皇帝の間で叙任権闘争が起こった。皇帝ハインリヒ4世は闘争に敗れ、破門寸前となった。これをカノッサの屈辱という。それほど教皇は強大な権限を持っていた。
だが、12世紀半ばになると、皇帝フリードリッヒ1世は、教皇ハドリアヌスに反抗して、皇帝は神に直接、世俗の統治を委託されており、帝国は神に直接、聖別されている。教皇には世俗に介入する権利はもともとない、と主張した。フリードリッヒ1世は、1157年に「神聖帝国」の名を使用した。これは世俗権の所有者である皇帝が、教権神授説に立つ教皇による政治を退ける決意表明だった。その後、1254年から、「神聖ローマ帝国」の国号が使われるようになった。帝国の始源は、962年オットー1世の皇帝戴冠に求められ、ドイツを中心に、19世紀の初めまで800年以上続いたとされる。
フリードリッヒ1世以後、皇帝は権利・権力を強めた。1303年には、教皇ボニファティウス8世がフランス王フィリップ2世にローマ郊外で捕えられるというアナーニ事件が起こった。この事件以降、教皇権は次第に衰退していく。
14世紀初め、『神曲』で知られるイタリアの詩人ダンテ・アリギエリは、「神の代理者である教皇は霊の世界を管轄するだけ」「現実の諸国家の上に平和を維持するべき皇帝の権限は、神から直接授けられたものであるから教皇権と並立して俗界の至上権たるべき」と帝権神授説を説いた。
神聖ローマ帝国は、ローマが中心ではなく、実態は今日のドイツを中心とした地域に存在した。皇帝は、諸王の上に立つ王ではあるが、帝国の各地では諸侯が領地を持っていた。諸侯とはカトリックの大司教等の高位聖職者、公爵・伯爵の貴族等である。また帝国の外の各地には、様々な封建制国家が存在し、諸国の国王が存在した。
教皇権に対する皇帝権の強化は進んだ。1508年にハプスブルグ家のマクシミリアンが教皇の戴冠を受けずに皇帝を名乗った。以降、教皇による皇帝戴冠のシステムがなくなった。これは皇帝権が教皇権から独立したことを意味する。
補足として、ここに登場するハプスブルグ家は、1282年にオーストリア・ハプスブルグ家が誕生して以後、約700年にわたって、ヨーロッパ史を彩った名家である。1438年にアルプレヒト2世が神聖ローマ帝国皇帝に即位したのがハプスブルグ王朝の開幕だった。オーストリアを根拠に、途中から系統が分かれたスペイン・ハプスブルグ家を含めて、西欧に広大な領地を持ち、各国の王族・貴族と婚姻関係を結び、栄華を誇った。皇帝権や国王権が、実はこうした有力家系の持つ家族的な権利・権力でもあることに注意しなければならない。
次回に続く。
関連掲示
・拙稿「人権――その起源と目標(第1部) 」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion03i.htm
第1部では、人権について、基礎理論の検討を行った。人権の発達を見るには、その歴史と思想を把握することが必要である。そこで、第2部では、西欧における人権の発達を歴史的にたどり、続いて思想的な展開を見る。
人権は、主権・民権との関係の中でとらえなければならない。本章では、主権・民権・人権について、西欧の中世から市民革命の時代まで、次章で続いて国民国家・ナショナリズム・帝国主義の時代までの歴史を書く。その後に、20世紀初めまでの人権の発達を書くこととする。
私は、「西洋発の文明と人類の歴史」という文明学的な観点に立った史論を書いており、本稿はそれに対する個別主題的な論稿となる。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09e.htm
さて、主権・民権・人権の歴史を概観するに当たり、最初に主権について述べたい。主権については第1部第4章に基礎的なことを書いた。主権は英語 sovereignty等の訳語であり、国境で区画された領域内における最高統治権である。主権は統治の権利であり、その作用を力の観念でとらえれば、統治の権力である。実際、近代西欧では、主権は「最高の力」と呼ばれてきた。
西欧における権利と権力の根源は、ユダヤ=キリスト教の神に求められ、神の代理人としての教皇の権利と権力は神に授ったものとされた。この教権神授説に対し、帝権神授説、王権神授説が現れ、民権神授説、民権互認説が続いた。人権は、国王が神から授かったとする主権に人民が参与する過程で唱えられるようになった。ここで民権とは「国民の権利(rights of people)」であり、その一部が普遍的・生得的なものと想定されて人権すなわち「人間の権利(human rights)」と唱えられることになった。
近代的な国家主権には、原型がある。先行形態と言ってもよい。それは、ローマ・カトリック教会の教皇権である。古代ローマ帝国は、395年に東西に分裂した。その後、東西の帝国でキリスト教の教会は独自の道を歩み、1054年に最終的に東方正教会とローマ・カトリック教会に分離した。ローマ教皇の教皇権は、神授のものとされた。教権神授説は、キリスト教の教会組織が成立して以来、唱えられてきた思想だった。
教皇グレゴリウス7世は、1075年に教皇教書を発布した。教皇教書は絶対的教皇権を確立するものだった。ここでの絶対的とは、一人に権威と権力が集中した状態をいう。立法・司法・行政のすべてにわたる権限が一個の権限となり、それが教皇によって保持された。教皇は、聖書に記された神の法と自然法とにのみ従う普遍的な立法者であるとした。神の法と自然法にのみ従うとは、人間が作った人定法を超えた存在ということである。また、教皇は聖職者及び君侯を補助者として使用する統治者、そして教皇令その他教会法に関する審判者であるとした。これによって教皇は、立法・司法・行政を貫く至上権を得た。私は、この絶対的教皇権が近代的な国家主権の原型と考える。
教皇権はやがて皇帝権と相対的なものとなり、中世の西欧は、宗教的な教皇と世俗的な皇帝を二つの頂点とし、様々な封建勢力が各地に所領を持って混在する社会となった。近代的な国境は存在しなかった。その教皇権と皇帝権が並立する構造を打破したところに、国王の主権が成立した。これが近代的な国家主権の誕生となった。そして、国王の主権は、国王と貴族や新興階級、国王と国民が共有するものとなったり、国民が共有するものとなったりした。主権に国民が参与する過程で、国民の権利が獲得・拡大され、その権利が人権と呼ばれるようになる。
●教皇権に対する皇帝権の独立
絶対的教皇権を確立した教皇グレゴリウス7世は、1075年に俗人による高位聖職者の任命を禁止した。それによって、教皇と皇帝の間で叙任権闘争が起こった。皇帝ハインリヒ4世は闘争に敗れ、破門寸前となった。これをカノッサの屈辱という。それほど教皇は強大な権限を持っていた。
だが、12世紀半ばになると、皇帝フリードリッヒ1世は、教皇ハドリアヌスに反抗して、皇帝は神に直接、世俗の統治を委託されており、帝国は神に直接、聖別されている。教皇には世俗に介入する権利はもともとない、と主張した。フリードリッヒ1世は、1157年に「神聖帝国」の名を使用した。これは世俗権の所有者である皇帝が、教権神授説に立つ教皇による政治を退ける決意表明だった。その後、1254年から、「神聖ローマ帝国」の国号が使われるようになった。帝国の始源は、962年オットー1世の皇帝戴冠に求められ、ドイツを中心に、19世紀の初めまで800年以上続いたとされる。
フリードリッヒ1世以後、皇帝は権利・権力を強めた。1303年には、教皇ボニファティウス8世がフランス王フィリップ2世にローマ郊外で捕えられるというアナーニ事件が起こった。この事件以降、教皇権は次第に衰退していく。
14世紀初め、『神曲』で知られるイタリアの詩人ダンテ・アリギエリは、「神の代理者である教皇は霊の世界を管轄するだけ」「現実の諸国家の上に平和を維持するべき皇帝の権限は、神から直接授けられたものであるから教皇権と並立して俗界の至上権たるべき」と帝権神授説を説いた。
神聖ローマ帝国は、ローマが中心ではなく、実態は今日のドイツを中心とした地域に存在した。皇帝は、諸王の上に立つ王ではあるが、帝国の各地では諸侯が領地を持っていた。諸侯とはカトリックの大司教等の高位聖職者、公爵・伯爵の貴族等である。また帝国の外の各地には、様々な封建制国家が存在し、諸国の国王が存在した。
教皇権に対する皇帝権の強化は進んだ。1508年にハプスブルグ家のマクシミリアンが教皇の戴冠を受けずに皇帝を名乗った。以降、教皇による皇帝戴冠のシステムがなくなった。これは皇帝権が教皇権から独立したことを意味する。
補足として、ここに登場するハプスブルグ家は、1282年にオーストリア・ハプスブルグ家が誕生して以後、約700年にわたって、ヨーロッパ史を彩った名家である。1438年にアルプレヒト2世が神聖ローマ帝国皇帝に即位したのがハプスブルグ王朝の開幕だった。オーストリアを根拠に、途中から系統が分かれたスペイン・ハプスブルグ家を含めて、西欧に広大な領地を持ち、各国の王族・貴族と婚姻関係を結び、栄華を誇った。皇帝権や国王権が、実はこうした有力家系の持つ家族的な権利・権力でもあることに注意しなければならない。
次回に続く。
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・拙稿「人権――その起源と目標(第1部) 」
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