●ラッシニエの異論とドイツのガス室の否定
どうして当初の定説が修正されたのか。それは、否定しようのない異論が出たからである。
1948年、大戦終了の3年後に、その異論は出された。ポール・ラッシニエというフランス人の歴史家の指摘である。ラッシニエは、ナチスに対するレジスタンス活動を行って、ゲシュタポに捕らえられ、ドイツのブッヘンヴァルト及びドーラ強制収容所に入れられた。戦争末期には、収容所でチフスにかかった。自らそういう経験をしていた。戦後、レジスタンス活動の功績により、フランス政府から勲章を授与された。
ラッシニエは、ドイツで複数の強制収容所に入れられていた。だが、どの収容所でもガス室を見たことはなかった。ところが、戦後、ニュルンベルク裁判で、ドイツの収容所にガス室が存在し、多くの人々が殺されたという証言が出された。欧米のマスメディアが証言を事実として報道した。それに驚いたラッシニエは、「ガス室などなかった」と主張したのである。
しかし、フランスのマスコミは、ラッシニエを非難し、その証言を無視した。ラッシニエは、ナチスの収容所政策全体を調査・研究し続けたが、その主張は無視されていた。
ラッシニエが異論を出した12年後、突然定説に修正が加えられた。1960年8月26日、旧西ドイツの歴史学者マーチィン・プロサットが、ドイツ国内にはガス室はなかったという声明を発表した。プロサットは、ミュンヘンの現代史研究所という政府機関の所長だった。この研究所は、それまでガス室の存在を証明するために多くの発表を行ない、西ドイツ政府の歴史に関する見解を代弁する団体となっていた。プロサット自身、第2次大戦やホロコーストに関する西ドイツ政府のスポークスマン的な立場にあった。そうした人物が突然、ドイツ国内にはガス室はなかったという主旨の発表をしたのである。プロサットは、声明の中で、このような修正がされた理由を一言も説明していない。だが、これを機に、定説は修正された。ドイツの収容所にガス室は無かったということになった。旧連合国が右ならえした。そして、ナチスのガス室は、ポーランドの収容所にのみ作られたという修正版の定説が世界的に定着した。
この修正は、ラッシニエの異論を、どうやっても否定できなかったからに違いない。だが、修正した側は、そのことを認めていない。そこから分かるのは、ドイツ国内の収容所のガス室の話は、大戦中の心理作戦としてのプロパガンダの一つだったことである。宣伝工作で捏造されたことが、そのまま事実として伝えられていたのである。
●出続ける異論と、それへの封殺の動き
異論は、ポーランドのガス室に関しても出されるようになった。
1988年、アウシュヴィッツのガス室の実地検証に基づくロイヒター報告が発表された。 アメリカのガス室専門家フレッド・ロイヒターは、アウシュヴィッツのガス室には、処刑用ガス室に要求される高い気密性がなく、殺戮に使われたという青酸ガス(シアン化水素)で内部を充満させた場合、外部にガスが濡れてしまう、と指摘した。それゆえ、そのガス室では技術的な問題からガスによる殺人は不可能であるという結論を出した。ロイヒターは工学の学位を持たなかったため、専門家の証言とはみなされなかった。しかし、最も重要な点を指摘した。
1993年、アウシュヴィッツのガス室の化学的な検証に基づくルドルフ報告が発表された。マックス・プランク研究所の博士課程で化学を専攻するゲルマー・ルドルフは、青酸ガスの特性から、そのガス室で大量処刑を行うことは不可能であることを論証した。そして、化学を用いてもホロコーストの存在を科学的に立証することはできないと主張した。以後、化学者による学術的反論はほぼ皆無といわれる。
他にも、様々な論者が異論を唱えた。ところが、こうした異論を封殺する動きが執拗に行われてきた。その一例が、わが国におけるマルコポーロ事件である。
1995年1月、雑誌『マルコポーロ』(文芸春秋社)が、内科医・西岡昌紀の「ナチ『ガス室』はなかった」という記事を掲載した。ロイヒター報告、ルドルフ報告等を踏まえ、科学的・医学的に定説を検証したものだった。これに対し、米国ロサンゼルスに本部のあるユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)とイスラエル大使館が文藝春秋社に抗議した。前者は内外の企業に対して、同社発行の雑誌の広告をやめるよう呼びかけた。企業存続の危機に追い込まれた同社は『マルコポーロ』の廃刊を決め、花田紀凱編集長を解任し、田中健五社長は辞任した。
西岡の論文には、反ユダヤ主義を扇動したり、ナチスを賛美したりするような文言は一切なく、客観的な検証を試みたものだった。ところが、アメリカの一民間団体の呼びかけで、多数の優良企業が広告を一斉に取りやめた。そして、一流出版社が雑誌を自主廃刊した。異常な事態だった。多数の企業が経営に重大な支障を感じるほどの強力な圧力がかけられたのだろう。
だが、ホロコーストの定説には、いくつもの疑問が上がっている。これに対して、科学的な真理の追究を妨げ、定説を絶対化しようとする意思が働いている。中世のカトリック教会は、地動説を説いたガリレオ・ガリレイを異端尋問で有罪にしたが、ホロコーストに関して働いているのは、公の権力ではない。表に出ない力である。マルコポーロ事件から、その力は、とてつもない財力に裏付けられたものであることが推測される。
次回に続く。
どうして当初の定説が修正されたのか。それは、否定しようのない異論が出たからである。
1948年、大戦終了の3年後に、その異論は出された。ポール・ラッシニエというフランス人の歴史家の指摘である。ラッシニエは、ナチスに対するレジスタンス活動を行って、ゲシュタポに捕らえられ、ドイツのブッヘンヴァルト及びドーラ強制収容所に入れられた。戦争末期には、収容所でチフスにかかった。自らそういう経験をしていた。戦後、レジスタンス活動の功績により、フランス政府から勲章を授与された。
ラッシニエは、ドイツで複数の強制収容所に入れられていた。だが、どの収容所でもガス室を見たことはなかった。ところが、戦後、ニュルンベルク裁判で、ドイツの収容所にガス室が存在し、多くの人々が殺されたという証言が出された。欧米のマスメディアが証言を事実として報道した。それに驚いたラッシニエは、「ガス室などなかった」と主張したのである。
しかし、フランスのマスコミは、ラッシニエを非難し、その証言を無視した。ラッシニエは、ナチスの収容所政策全体を調査・研究し続けたが、その主張は無視されていた。
ラッシニエが異論を出した12年後、突然定説に修正が加えられた。1960年8月26日、旧西ドイツの歴史学者マーチィン・プロサットが、ドイツ国内にはガス室はなかったという声明を発表した。プロサットは、ミュンヘンの現代史研究所という政府機関の所長だった。この研究所は、それまでガス室の存在を証明するために多くの発表を行ない、西ドイツ政府の歴史に関する見解を代弁する団体となっていた。プロサット自身、第2次大戦やホロコーストに関する西ドイツ政府のスポークスマン的な立場にあった。そうした人物が突然、ドイツ国内にはガス室はなかったという主旨の発表をしたのである。プロサットは、声明の中で、このような修正がされた理由を一言も説明していない。だが、これを機に、定説は修正された。ドイツの収容所にガス室は無かったということになった。旧連合国が右ならえした。そして、ナチスのガス室は、ポーランドの収容所にのみ作られたという修正版の定説が世界的に定着した。
この修正は、ラッシニエの異論を、どうやっても否定できなかったからに違いない。だが、修正した側は、そのことを認めていない。そこから分かるのは、ドイツ国内の収容所のガス室の話は、大戦中の心理作戦としてのプロパガンダの一つだったことである。宣伝工作で捏造されたことが、そのまま事実として伝えられていたのである。
●出続ける異論と、それへの封殺の動き
異論は、ポーランドのガス室に関しても出されるようになった。
1988年、アウシュヴィッツのガス室の実地検証に基づくロイヒター報告が発表された。 アメリカのガス室専門家フレッド・ロイヒターは、アウシュヴィッツのガス室には、処刑用ガス室に要求される高い気密性がなく、殺戮に使われたという青酸ガス(シアン化水素)で内部を充満させた場合、外部にガスが濡れてしまう、と指摘した。それゆえ、そのガス室では技術的な問題からガスによる殺人は不可能であるという結論を出した。ロイヒターは工学の学位を持たなかったため、専門家の証言とはみなされなかった。しかし、最も重要な点を指摘した。
1993年、アウシュヴィッツのガス室の化学的な検証に基づくルドルフ報告が発表された。マックス・プランク研究所の博士課程で化学を専攻するゲルマー・ルドルフは、青酸ガスの特性から、そのガス室で大量処刑を行うことは不可能であることを論証した。そして、化学を用いてもホロコーストの存在を科学的に立証することはできないと主張した。以後、化学者による学術的反論はほぼ皆無といわれる。
他にも、様々な論者が異論を唱えた。ところが、こうした異論を封殺する動きが執拗に行われてきた。その一例が、わが国におけるマルコポーロ事件である。
1995年1月、雑誌『マルコポーロ』(文芸春秋社)が、内科医・西岡昌紀の「ナチ『ガス室』はなかった」という記事を掲載した。ロイヒター報告、ルドルフ報告等を踏まえ、科学的・医学的に定説を検証したものだった。これに対し、米国ロサンゼルスに本部のあるユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)とイスラエル大使館が文藝春秋社に抗議した。前者は内外の企業に対して、同社発行の雑誌の広告をやめるよう呼びかけた。企業存続の危機に追い込まれた同社は『マルコポーロ』の廃刊を決め、花田紀凱編集長を解任し、田中健五社長は辞任した。
西岡の論文には、反ユダヤ主義を扇動したり、ナチスを賛美したりするような文言は一切なく、客観的な検証を試みたものだった。ところが、アメリカの一民間団体の呼びかけで、多数の優良企業が広告を一斉に取りやめた。そして、一流出版社が雑誌を自主廃刊した。異常な事態だった。多数の企業が経営に重大な支障を感じるほどの強力な圧力がかけられたのだろう。
だが、ホロコーストの定説には、いくつもの疑問が上がっている。これに対して、科学的な真理の追究を妨げ、定説を絶対化しようとする意思が働いている。中世のカトリック教会は、地動説を説いたガリレオ・ガリレイを異端尋問で有罪にしたが、ホロコーストに関して働いているのは、公の権力ではない。表に出ない力である。マルコポーロ事件から、その力は、とてつもない財力に裏付けられたものであることが推測される。
次回に続く。
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