ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

人権48~権力と暴力

2013-06-09 08:30:07 | 人権
●権力という力の観念

 私は、権力とは、個人または集団の関係における権利の作用を力の観念でとらえたものと考える。権利関係は社会関係の表れであり、その関係の一つに優劣がある。優位者すなわち支配・収奪・保護・指導する者は、劣位者すなわち支配・収奪・保護・指導される者に比べ、より大きな権利、より多い権利を持つ。だが、劣位者もまたより小さな、少ない権利ではあっても、権利を持つ。権利関係の要素である個人または集団は、相互に行為の主体であり、対象である。この相互関係は、相互作用の関係である。こうした優位者と劣位者の権利の相互作用を、力(power)の概念でとらえることができる。
 力とは、日常語において、目に見えないが人やものに作用し、何らかの影響をもたらすものを指す。ここでいう力は、能力であり、意思の力であり、また強制力でもある。そうした力の観念を用いることによって、権利関係を権力関係としてもとらえることができる。
 劣位者にとって、優位者の権利の作用は、強大な力と感じられる。だが、劣位者の権利も一定の作用をする。微弱な力であるが、優位者の力に対して影響を与え得る。ここで力を発する側と力を受ける側は、ともに意思を持つ。そして、相互に力を働かせる主体であり、作用の対象である。この相互作用における力は、社会的な力である。それが権力(power)と呼んでいるものである。もちろん日常語を用いる人々は、こうした反省的な思考をして、言語と概念を生み出してきたわけではない。無意識的・無自覚的に行ってきた言語活動と思考作用の中で、権利と権力の相関性が自ずと形成されてきたのである。
 権利の相互作用を力の観念でとらえることの利点に、力という定量的な概念を用いることにより、量的な比較が可能になることがある。すなわち、大きさと小ささ、強さと弱さ等の感覚的な表現によって、権力の状態や機能を理解することができる。端的には、権利の量や関与する人員の数、武器の数等が、権力の量的側面を表す指標となる。力の観念を用いることで、権力関係の変化を量的な変化としてとらえることも可能になる。この点もまた反省的な思考によって、人々が言語と概念を生み出したのではない。経験と慣習によって、自ずと形成されてきたものである。

●ホッブスとロックにおける権利と権力

 権力とは、個人または集団の関係における権利の作用を力の観念でとらえたものである。これは私独自の見解だが、この見解は、ホッブスとロックの所論によっても裏付けられる。
 ホッブスは、自然権とは「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて各人が持っている自由」だとした。自由は権利だと言っている。権利は、能力であり、意思であり、また強制力である。ホッブスは、自然状態は戦争状態だと想定した。「全人類の一般的性向」は「次から次へと力を求め、死によってのみ消滅し得るような不断の意欲」である。人間がその意欲によって力を求めて行動し、互いにぶつかり合うとき、「力の合成」が起こる。その結果、合成された力は「人間の力の中で最大のもの」となる。ホッブスは、国家の設立を、こうした物理的な力の合成として説明した。ホッブスの力は物理的な力と表象されているが、その力は意思に基づく能力であり、権力である。それは権利の作用でもある。ホッブスの人間は、生命の自己保存のために、権力を求め続ける者である。また個々人の意思を合成して生まれる国家は、権力の主体である。その権力が主権である。主権は統治権であり、統治の権利であり、また権力である。ニーチェは生命の本質を「力への意志」であるとし、「力への意志」を生の唯一の原理とする闘争の思想を説いたが、その思想は、ホッブスと通じ合う。また、あらゆる人間関係に「無数の力関係」が存在するとして権力のミクロ分析を行ったフーコーの思想にも、ホッブスは通じる。
 ホッブスは、生命の安全のため、絶対的権力への絶対服従を求めるが、ロックは、生命・自由財産の所有権の保全のため、人々が政治に参加し、権力を協同的に行使する体制を求めた。ロックは、自然状態は完全に自由で平等な状態だとし、「そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人よりも多く持つ者は一人もいない」とした。ロックは、自然状態において、「権力と支配権」を認めている。「人間は、自分の所有物、すなわち生命・自由・財産を、他人の侵害や攻撃から守るための権力だけでなく、また他人が自然の法を犯したときには、これを裁き、またその犯罪に相当すると信ずるままに罰を加え、犯行の凶悪さからいって死刑が必要だと思われる罪に対しては、死刑さえ処しうるという権力を生来持っている」とロックは言う。ロックは同意によって設立される政治権力の目的を、所有権の調整と保存においた。人々は共同社会に入ることで、自然状態における完全な自由は失う。拘束は受ける。だが、権利は保持する。権力を合成し、合成された権力の行使に参加する。そのようにして生命・自由・財産を共同で防衛すると考えた。
 権力とは、権利の作用を力の観念でとらえたものととらえると、ホッブスとロックの思想が理解しやすくなるだろう。人権の思想を考察するには、ホッブスとロックの理解が必要であり、権利との関係で権力を把握することが、その近道である。

●「暴力」という訳語の弊害

 権力論においては、欧米の論者を中心に闘争性が偏重される傾向がある。権力の闘争性は、しばしば力の行使を強調して語られる。そうした文献の翻訳には、「暴力」という訳語が多用される。暴力という漢字単語は、英語のviolenceや forceの訳語である。violenceは、相手を物理的に傷つけようとする行為であり、またその行為に用いられる force(力)である。広辞苑は、暴力を「乱暴な力、無法な力」と解している。だが、violence や force には必ずしも「乱暴な」「無法な」という意味はない。「暴」という漢字は、「手荒い」「粗暴な」「暴れる」等を意味するので、「暴力」という訳語は、元の西洋語にない意味を加えるものとなっている。
 暴力と似た言葉に、武力がある。武力は、force や arms の訳語である。広辞苑は、武力を「武勇の力。また軍隊の力。兵力」と解している。この場合、「乱暴な」「無法な」という意味は含まない。武力は、組織された集団の力に用いる。武力を行使するための専門の人員を、武人・兵士等という。武力行使のための専用の道具を、武器という。武器は、身体的な力を増幅・拡大する。こうした専門の人員や武器を組織したものが、武力である。個人の身体的な力を暴力と言うことはあるが、武力とは言わない。
 ただの乱暴で無法な力と、管理されて合理的ないし合法的に用いられる組織的な力とは異なる。残念ながら、暴力という訳語では、これらの区別がつかない。そのため、権力について暴力の行使という言葉が使われると、権力は、乱暴で無法な仕方で力を振るうというイメージを与える。だが、多くの場合、権力は管理され、統御された組織的な力を、合理的で合法的に用いる。これは、暴力というより、武力と訳すべきである。
 権力の発動の形態である戦闘においては、破壊、殺傷を行う。これは指揮命令によって一定の目的のもとに行われる行為である。ただし、戦闘の過程で、破壊や殺傷そのものが目的となって行われるような状況も生まれる。こうした状況は、しばしば略奪や強姦を伴う。暴力という訳語は、こういう場合にふさわしい。
 他に暴力と似た言葉として、腕力・実力がある。腕力は、腕の身体的な力を意味するが、英語の arm は、腕の他に抽象的な力や権力を意味し、また武器や武力行使、武装等を意味する。実力は、広義では、目的を果たすために実際の行為・行動で示される能力を意味し、狭義では腕力、武力と同義である。実力に当たる特定の西洋語は、存在しない。武力と同様、腕力・実力にも「乱暴な」「無法な」という意味はない。暴力という訳語は、政治学・法学・社会学等の理論的な文章では、断りなく用いられると、読者に誤ったイメージを与えやすいので注意を要する。
 ウェーバーは「権力(Macht)とは、ある社会的関係の内部で抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性を意味し、この可能性が何に基づくかは問うところではない」と定義した。暴力という漢字単語を使っていうならば、ウェーバーのいう「可能性」の一つが暴力の行使である。ウェーバーに依拠する論者は、政府が持つ国家権力の源泉は「暴力の行使」にあると言う。だが、その力は組織された力であり、それ自体は中性的なものである。この場合、暴力という訳語より、武力または実力を使った方が、その性格を理解しやすい。そうした力を乱暴で無法な用い方をするか、合理的で合法的な用い方をするかは、力を行使する者の意思による。力そのものが乱暴なのでも無法なのでもない。
 ところで、武力に似た言葉に、戦力がある。戦力は、戦争を遂行し得る力を言う。日本国憲法は、第9条で武力と戦力の両方の語を使っている。条文は次の通り。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 上記条文に「武力による威嚇又は武力の行使」「陸海空軍その他の戦力」という文言があるわけだが、公定の英訳では、前者は「the threat or use of force」、後者は「land, sea, and air forces, as well as other war potential」と訳されている。武力は forceと訳し、軍隊も force を訳語としている。これに対し、戦力は war potential と訳されている。potential は、潜在的な能力である。war potential は、戦争を遂行することのできる潜在力の意味となる。第9条における戦力は、武力のうち、国内の治安・警察ではなく、他国との戦争に用い得る能力を指すと整理できよう。
 この条文では、暴力という文言は使われてない。国権の発動である力による威嚇や力の行使、また戦争を遂行し得る力を、暴力と呼ばないのであれば、国家権力が行使する力を、暴力と訳すのは、不適当であることが理解されよう。武力または実力と訳すのが妥当である。
 なお、力の概念を漢字に表した訳語について補足すると、「暴力」は violence を violent power、「腕力」は arm を armed power、「強制力」は force を forcing power 等とそれぞれもとの西洋単語に共通する power の概念を抽出し顕在化させて、訳語を作ったものと理解できる。見事な工夫である。

 次回に続く。


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