ほそかわ・かずひこの BLOG

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日本の心154~恥の文化が忘れた「恥」:ベネディクト

2022-08-08 17:43:30 | 日本精神
 ルース・ベネディクトによる日本人論『菊と刀』は、戦後日本人に大きな影響を与えています。
 ベネディクトは、アメリカの文化人類学者です。彼女は『菊と刀』で、人類学的にみると、世界の社会には「恥を基調とする文化」と「罪を基調とする文化」があるとします。そして、日本は「恥の文化」つまり「罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置く」文化に分類し、分析を行っています。
 ベネディクトは、日本人の行動規範は、恥にあるといいます。他人が自分の行動に対してどういう判断を下すか、その他人の判断を基準にして自分の方針を定める。したがって人目がなければ、行為の善悪は問題にならない。日本人は、実に矛盾に満ちた国民であるといいます。その矛盾の最たるものは、「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす」と同時に「刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する」という「菊と刀」に象徴される二面性であるというのです。
 ベネディクトは、日米戦争の最中、昭和19年(1944)にアメリカ陸軍局の委嘱を受けて日本文化の研究を始めました。戦争終結を目前にしたアメリカは、欧米人と全く異なった考え方を持つ日本人の行動パターンを予測することが、戦後の占領政策策定のために必要としたのでした。ベネディクトは、この研究において、限られた文献を読んだ以外は、日本に一度も調査に来ることなく、敵国民として収容所に抑留された日系人から聞き取りをしたのみでした。
 彼女の研究は、『菊と刀――日本の文化の型』と題されて、終戦後の昭和21年(1946)に刊行されました。当時、類書が他になかったので、日本を占領したGHQにとって重要な参考文献となったようです。
 ベネディクトによると、罪を基調とする文化は、「道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みとする社会」であり、人は「内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行う」、また「自分の非行をだれ一人知る者がいなくても罪の意識に悩む」。これに対し、恥を基調とする文化は、「他人の批評、『世間』の評価に気を配る社会」であり、人は「外面的強制力にもとづいて善行を行う」、また「恥を感じるためには、実際にその場に他人が居合わせることが必要である」。罪の文化においては、恥は「道徳の基礎となる資格がない」と考えるが、恥の文化においては、恥は「すべての徳の基本」と考える。罪の文化と恥の文化は、このように対比されます。
 ベネディクトのいう罪の文化の典型は、言うまでもなくキリスト教ですから、キリスト教が日本文化より道徳的に優れているという文化的偏見が、彼女の見方の根底にあることは、否定できません。
 ここで注目したい点があります。ベネディクトが次のように書いていることです。
 「恥が主要な強制力となっている文化においても、人びとは、われわれならば当然だれでも罪を犯したと感じるだろうと思うような行為を行った場合には煩悶する。この煩悶は時には非常に強烈なことがある。しかもそれは、罪のように、懺悔や贖罪によって軽減することができない」と。
 日本人からこうした煩悶を引き出すことができれば、キリスト教徒以上に深い自責の念を日本人に植え付けることができるでしょう。
 日本占領直後から、GHQは日本人に「戦争犯罪」を知らしめる大キャンペーンを行いました。それが、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争犯罪周知宣伝計画)です。この計画は、勝者からの一方的な情報により、日本人に戦争の罪悪感を植えつけ、二度とアメリカに歯向かうことのないように弱体化させる心理作戦でした。この作戦は、彼らにとっては見事に成功しました。日本人は、自分たちに与えられている情報が、誇張や捏造されたものとは知らずに、深い自責の念に駆られるようになったからです。
 ベネディクトの本は、この計画の実施中に刊行されています。先に引用したような彼女の鋭い指摘は、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の効果を増強するものとなったことでしょう。
 『菊と刀』は、占領下の日本で翻訳され、昭和23年に出版されました。アメリカの占領政策の参考資料が、今度は日本人自身に読ませる本として公刊されたのです。東京裁判という虚構劇が日本人の良心を大きく揺さぶっていた時です。本書を読んだ日本人の多くは衝撃的な影響を受けました。そして、罪悪感を植え付けられた日本人は、本書によって日本文化の欠陥や劣性を感じ、自虐的なものの見方を強めていったのです。
 例えば、当時の代表的な社会学者である川島武宜は次のように書いています。
 「恐らく他のどの民族にもまして、自分の伝統や物の考え方だけを盲目的に承認し、これを中心として物事を判断するようにしか教育されていないわれわれ日本人は、本書から反省への無限の刺激を受けるはずである」
 そして、西洋化・近代化をよしとする我が国の近代化推進論者は、恥の文化は劣った文化であり、罪の文化は優れた文化である、日本人は前近代的な恥の文化を清算して、近代的な罪の文化に移行すべきであるという意識を植え付けました。
 その後、昭和30年代になると、戦後復興と高度成長による日本人の自信回復とともに、『菊と刀』に対する批判が噴出するようになりました。今日では多くの人々によって、本書の問題点が明らかにされています。一面的で偏った見方が多いのです。
 恥と罪の関係について、精神科医の内沼幸雄氏は、羞恥心は倫理観を基礎に、羞恥心⇒恥辱⇒罪、という順に移行すると述べています(『対人恐怖の心理』講談社学術文庫)。恥と罪には相関関係があり、日本人は恥の意識が、罪の意識へと発展し、内面的な意識に変わると考えられます。
 わが国において、罪の観念がなかったかというとそうではなく、神話には「国つ罪」「天つ罪」があります。罪けがれを祓い、清めることが、神道の儀式の中心となっています。仏教が入ると、罪業・罪障という考えが民衆に浸透し、前世の罪の影響が現世に現れ、現世の行いが来世に結果するという因果応報の観念が、日本人の倫理観の重要な要素となりました。
 精神医学者の木村敏氏は、西洋人の場合、罪の意識は神と自己の関係という垂直的な自己内関係に帰するのに対して、日本人は自己と他者つまり人と人との間の水平関係において罪の意識が見出されると言います(『人と人の間』弘文堂)。確かに恥の意識は「人の目」から見られる倫理であり、「神の目」から見られる倫理ではありません。しかし、恥を知る人は、世間に向ける顔がないと思うだけでなく、お天道様やご先祖様に顔向けができないとも考えます。この時、その人が意識しているのは、「人の目」だけでなく、「神の目」を意識しているとも言えるでしょう。日本人は太陽や先祖を神々として拝んできたからです。このような場合は、恥の意識は罪の意識に近いものとなっていると考えられます。
 日本には、キリスト教的一神教とは全く違う、独自の倫理観があるのです。
 こうした点に注意する必要はありますが、様々な問題点を括弧に入れて、『菊と刀』を読み直すならば、私たちは戦後日本が忘れているものを、改めて知ることができます。
 昔の日本人は、「恥」という意識によって行動の規範を持ち、厳しい公共道徳を持っていました。義理・人情・恩返しなどという価値観も、「恥」の意識を中心として形成されていたものでした。もともと一神教的な絶対的規範を持たない日本人には、その代わりに共同体における周囲の目や評価が強い道徳的強制力となっていたのです。しかし、戦後の経済・教育・文化等は、日本人の「恥の文化」を破壊し続けてきました。もちろんキリスト教的な罪の文化は、日本では根付きません。
 かつて西洋史学者の会田雄次氏は、次のように書いていました。「(戦後)日本人の心にヨーロッパ人的な罪の意識が生まれたということは、さらさらなかった。結果は、恥の意識が罵られ、小さくなり、消滅しかかっているというだけのことである」「日本人の恥の意識は、頼りないもので、一概に否定して良いものか」「日本人が恥の意識を失った時、どういう醜い事になるか」と。
 今日では、恥を知らない日本人がひどく増えています。上は政治家・官僚から、下は女子高校生・中学生まで、社会的規範を失った日本人は、簡単に犯罪や不道徳を行っています。私たちは、改めて「恥」という日本の伝統を振り返り、日本人としての道徳や義理人情を取り戻すべき時にあると思います。
 『菊と刀』は、今日、戦後日本人が忘れてきたものを再認識させてくれる一書と言えるでしょう。

参考資料
・ルース・ベネディクト著『菊と刀――日本の文化の型』(社会思想社)
・会田雄次著『日本人の意識構造』(講談社新書)

 次回に続く。

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