ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権166+167~ホッブスの自然権

2015-06-25 10:03:30 | 人権
●人権の思想史を概観する

 人権の思想の発達を、主権・民権・人権の関係において見るため、第5章及び第6章において、西欧における市民革命から20世紀初めにかけての歴史を概観した。本章では、近代西欧に現れた主権・民権・人権に係る思想について、人権を中心に述べる。まず17世紀イギリスにおける思想的展開を書き、続いて18世紀の啓蒙思想、アメリカ・フランスにおける市民革命期の思想、ドイツにおけるカント及び彼以後のドイツ観念論から現れたマルクスとナショナリズム、19世紀イギリスにおける功利主義と修正自由主義、最後に日本における近代西洋思想の摂取と独創的な展開、最後に19世紀末から20世紀初頭までの人権思想の展開という順に記す。
 人権の思想は、西欧の近代化の過程の中で発達した。私は、西欧の近代化は、心の近代化に始まったという見方をしている。心の近代化とは、マックス・ウェーバーの「呪術の追放」つまりアニミズム的・シャーマニズム的な世界観の駆逐を皮切りに、宗教における合理的態度が形成され、合理主義が思考・行動・制度の全般を支配してきつつあることである。その進展に伴い、西欧では生活全般の合理化が進んだ。すなわち、文化的・社会的・政治的・経済的な近代化が全般的に進行した。心の近代化は、全般的合理化の開始点であり、またその過程の中心部分でもある。心の近代化の過程で、人権の思想は発達した。人権の思想の発達は、心の近代化の過程の一部である。心の近代化について詳しくは、拙稿「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆~ウェーバー・ユング・トランスパーソナルの先へ」をご参照願いたい。その論稿は、人類の文明に巨大な変化をもたらした近代化を、“心の近代化”という角度から検討し、世界的な危機の解決の道を見出そうとしたものである。本章は、その論稿を土台として、人権の思想について検討するものである。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09b.htm
 人権の思想の起源は、トマス・ホッブスの自然権とピューリタン革命期の水平派の生得権にあり、ジョン・ロックがこれを政治理論化した。ロックの思想はフリーメイソンと結びつき、アメリカ独立革命、フランス市民革命の推進力となった。人権の思想は独立宣言・人権宣言に盛り込まれ、イマヌエル・カントによって哲学的に掘り下げられた。世界人権宣言のもとには、こうして形成されたロック=カント的な人間観がある。その人間観は、キリスト教に基づくものであり、新たな人間観を創出し、真に地球的な人類文明を創造することが人類の課題である。本章はこのような認識と問題意識を以て書くものである。
 さて、人権の思想は、17世紀イギリスに発生した。17世紀は、科学革命の世紀としても知られる。西欧では、ルネッサンスの時代から実験と数式による科学が発達し、天動説から地動説へのコペルニクス的転回が起こった。トマス・クーンのいうパラダイム・チェンジである。それによって中世のキリスト教の教義による世界観は破綻を始めた。17世紀には、フランシス・ベイコンが帰納法による学問方法論を打ち立てるとともに、科学万能の思想を説いた。ルネ・デカルトは物心二元論・要素還元主義による認識方法を提示した。アイザック・ニュートンは機械論的自然観を完成した。機械論的自然観は、機械をモデルとする世界観であり、自然を外から与えられる力によって動く部分の集合ととらえるものである。また、化学・医学等様々な分野で自然の研究が進み、実験と観察にもとづく近代西欧科学的な世界観が形成された。こうした世界観の変化が、人権の思想の発生・展開の背景にある。ホッブスもロックも当時の科学に通じた思想家だった。

●人権概念の最初はホッブスの自然権

 人権と呼ばれるようになった権利を最初に提起したのは、ホッブスだった。ホッブスは、イギリスで歴史的に形成された「臣民の権利」とは異なる自然権(natural rights)を主張した。自然権は自然法(the law of nature)という思想に基づくものだった。人権の概念を理解するには、自然法の理解が欠かせない。まずその点を述べ、次に自然権とその理論の展開について述べる。
 自然法は、人間がつくった人定法とは異なり、時と所を超越した普遍的な法を意味する。自然法の概念は、古代ギリシャのポリスの枠組みを越えたコスモポリタン(世界市民)の思想に始まる。ギリシャの異邦人ゼノンを始祖とし、ローマではキケロらによって発展されたストア派は、人間の意志を超越した宇宙の法則を意味するものとし、宇宙と人間をともに貫く自然法に従って生きる哲学を説いた。キリスト教は、教義を体系化するために、プラトンやアリストテレス、ストア派の哲学を取り入れた。自然法は、それによって理論化されたものである。だが、キリスト教では、神は言葉によって天地を創造したとし、自然は神の被造物であり、神の支配下にあると考える。また人間は神の似姿として造られ、知恵を与えられているとする。中世西欧では、こうした教義のもとに、自然法は神の意思による宇宙と社会の秩序とされた。自然法は、神が定めた宇宙の法則であるとともに、神が人間に与えた道徳の原理を意味する。わが国では「法」と訳すので、後者の原理でもあることが、理解しにくい。法というより掟。法と道徳が分離する前の宗教的な掟と考えたほうがよいだろう。
 古代ギリシャ人は、人間が動物と区別されるのは、言葉を持つことによると考えた。言葉に当たるギリシャ語はロゴスlogosであり、ロゴスは理性・理法をも意味した。ギリシャ語には、理性を意味するヌースnousという別の言葉もある。そして、人間は理性の働きによって、自然法を理解することができるとされた。
 中世西欧では、教父アウグスティヌスが5世紀に『神の国』にて、「神の国には完全無欠な神の永遠法が支配するが、地の国には罪ある人間の不完全な人定法しかありえない。しかし愛の神は、人間に理性の能力を授け永遠法の一部を認識して人定法の模範とさせるようにした。これが自然法である」と書いた。またトマス・アクィナスは、13世紀に『神学大全』にて、聖書が啓示し教皇が命ずる法を神法とし、自然法の上に置いた。人間は神の叡智を理性として分有しており、自然法を理解できるが、人間には神の栄光に浴すには決定的な限界があり、これを超えられるのは信仰によってのみであるとした。トマスの思想はトミズムと呼ばれ、21世紀の今日でもキリスト教文化圏で影響力を持っている。
 中世西欧では、カトリック教会の権威によって、人定法、自然法の上にある神の永遠法や神法の解釈は教会に委ねられていた。しかし、地動説、宗教改革、宗教戦争等によって、教会の権威は大きく揺らいだ。そうしたなか、グロティウスは、1625年刊行の『戦争と平和の法』で、自然法を「正しい理性の命令」と定義した。自然法は神の意思に基づくものだが、たとえ神が存在しないと仮定しても妥当するし、その定めは神さえ変えることができない不変なものであると主張した。ルターやカルヴァンは、信仰のあり方について教会の権威に抗議したが、グロティウスは信仰より理性を重視する自然法論を説くことで、教会の権威を相対化したのである。
 グロティウスに続いて、ホッブスは、独自の自然法論を展開した。そして、人権の概念の最初のものとなる自然権の概念を提起した。

※以下は「人権167」にあたるもの

●自然法論におけるコペルニクス的転回

 ホッブスの思想は、自然法論におけるコペルニクス的転回といわれる。
 トマスの自然法論には、自然法則(lex naturalis)と自然的正(ius naturale)という二つの領域があった。前者は、神の根本法則である永遠法の人間理性における分有であり、人間の道徳の原理を含む概念である。後者は、事物の本性に基づく正しい状態・事柄である。前者のlexは英語にもある単語でlawと同義、後者のius(ユス)はjusと書かれることもあり、jusiticeの語源である。これらを区別せずに lexもiusも「法」と訳されるため、混同しやすい。「法」と「正しい状態、公正」は、通底する概念だが、区別した上で理解する必要がある。独語・仏語では「法=権利(Recht/droit)」であり、英語では「正当性・正義=権利(right)」である。そこから、「法=正しい状態=公正=正当性=正義=権利」という概念の連続性を読み取ることができる。
 トマスにおいて、自然法則は、人間の事物・生物・理性という三相に基づく本性の傾向、すなわち自己保存、種の保存、神の認識と共生の傾向から導かれ、モーゼの十戒に集約される。法的な正義は「共通善」(bonum commune)を基準とした。古代ギリシャでは、プラトン、アリストテレスが公共善を正義としたが、共通善はその公共善を継承したもので、神、教会、共同体への義務が強調された。
だが、自然科学が発達して機械論的世界観が登場し、宗教改革により個人の意識が発達すると、共通善に替わるものとして、個人の自由と権利が追求されるようになった。自然権は、この個人の自由と権利に係る概念である。その先鞭を切ったのが、ホッブスである。
 ホッブスは、著書『リヴァイアサン』(1651年)に、次のように書いている。
 「自然法則(a law of nature、lex naturalis)とは、理性によって発見された戒律または一般法則である」
 「著作者たちが、一般に自然的正(ius naturale)と呼ぶ自然権(the right of nature)とは、各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の欲するままに彼自身の力を用いるという、各人の自由である。したがって、彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段だと思われるあらゆることを行う自由である」。
 ここで「自然法則」「自然的正」と訳したlex naturalis とius naturaleは異なる概念である。重要なのは、ホッブスが「自然的正」を「自然権」だとし、「各人の自由」だと主張していることである。ここには飛躍がある。トマスの自然法論における「自然的正」は、「自然法則」に基づく事物の本性に基づく正しい状態・事柄だが、ホッブスは「自然的正」を人間の自由だとする。自由とは自由な状態への権利である。英語で書くとjusticeをrightに置き換えて、<正しい状態・事柄→正義→権利>と、言葉の中で意味をずらしていって、個人の自由と権利を提起したと考えらえる。
 ここに自然法の理解にコペルニクス的転回が起こった。ホッブスは、自然法に基づく自然権によって、人間が契約を結び、国家を設立したと説いた。社会契約論の始めである。その理論は人権論であり、主権論であり、国家論である。
 なお、ここで注意すべきは、「自然」という訳語を当てている原語のnatureは、東洋的な自ずと生成するものではなく、神が創造した被造物であることである。自然権は、神が被造物に与えた権利である限り、神の存在が前提となる。ホッブスも神による創造を積極的に否定してはいない。しかし、思考からは神を排除し、神の関与の有無にかかわらず、自然法は存在し、自然権は成立するという考え方で、社会契約論を説いているものである。次にその内容を見てみよう。

 次回に続く。