ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

エジプトの「春」に大砂嵐か?2

2013-07-16 08:52:15 | 国際関係
●軍とムスリム同胞団の対立

 エジプトでは、昭和27年(1952)、ナセル中佐(当時)らがクーデタで王制を打倒し、共和制に移行し、ナセルは首相を経て大統領に就任した。以後、軍は絶大な権限を持ち、ムバラクまで歴代大統領を輩出。政権と一体の関係を保ってきた。国民からも、国内秩序を維持する役割を果たしてきたとして一定の信頼を集めている。
 ムバラク前政権は、軍や財界と結びついて権力を集中することで政治安定を図った。だが、平成23年(2011)2月、民衆の反政府運動で、あっと言う間に政権が崩壊。その後、軍による暫定統治が行われたが、反軍部のデモが相次いだ。ようやく昨年(24年)6月、選挙によってモルシー政権が誕生した。野党が育たぬ中、宗教的なつながりでメンバーらを大量動員できる穏健派のムスリム同胞団等のイスラム勢力が選挙で優勢となった。「アラブの春」は「イスラムの春」といわれるが、エジプトも似た事情にある。
 モルシー氏は、イスラエルと対立するイスラム原理主義組織ハマスとの関係を強化し、また、内戦が続くシリア問題への関与を深める姿勢を示した。こうした政策は、安全保障環境の変化を嫌う軍を逆なでしてきたと伝えられる。軍が今回のデモで反政府側を後押しする動きをみせたのは、同胞団をはじめとするイスラム勢力に大打撃を与える好機だと判断したためだとみられている。
 軍はもともとイスラム国家を志向するムスリム同胞団を強く警戒し、モルシー政権成立後は、その支持団体である同胞団とは緊張関係にあった。今回のクーデタで、軍は国政を直接担う意思はないというが、もし軍が主導権を握る事態となれば、民主化を求めるグループを中心に反政府勢力の反発は強まるだろう。
 一方のムスリム同胞団は、約80年前から活動しており、100万人の団員を抱えて全土に根を張る軍と双璧の組織といわれる。昭和29年(1954)、それまで協力関係にあったナセル(当時、首相)と対立し、団員が起こしたとされるナセル暗殺未遂事件を機に非合法化された。当局の徹底弾圧を受け、幹部は軒並み投獄された。再建が進んだのは、1970年に入って、体制内の権力闘争を有利に進めようとイスラム勢力に接近したサダト元大統領が、幹部らの釈放を進めてからである。
 ムバラク政権崩壊により、モルシー氏が大統領になると、氏の出身母体である同胞団は、「アラブの春」の恩恵を受け、政権を握った。モルシー氏は、強権手法でイスラム化を志向し世論は分裂した。政治の混乱は経済悪化に拍車をかけた。同胞団も失政・悪政で多くの国民の支持を失った。
 ムスリム同胞団は、軍に対し、徹底抵抗の姿勢である。軍と同胞団メンバーらとの争いが全面衝突となれば、収拾不能の状況になりかねない。マンスール暫定政権は、ムスリム同胞団傘下の「自由公正党」にも入閣を打診する方針を明らかにした。「挙国一致」の内閣を目指すことで権力の正統性を確保したい考えのようだが、同胞団が歩み寄る可能性は低いとみられている。今後、選挙が行われても、同胞団がその結果を認めず、正当性を争えば、対立は深刻化、長期化するだろう。
 今回のクーデタは、同胞団のイスラム原理主義に対する世俗主義派の反発という構図にまとめることはできない。エジプト国民の大多数は世俗主義を嫌っている。また、ムスリム同胞団より保守的で伝統主義的なヌール党もクーデタを支持すると表明していると伝えらえる。
 民主化の推進力となるべきリベラル派は、昨年の選挙の際には、群小政党に分裂して選挙に敗れた。モルシー政権は統治体制にはほとんど変化のない憲法草案を強引に採択したが、リベラル派は立憲過程をひたすらボイコットした。議会制デモクラシーがまだよく発達していない。リベラル派・世俗主義派だけでは、政権は倒せない。同胞団に反発する勢力が合流し、事態の収拾が困難になったところで、軍がこれを機に動き、権力を取り戻したという展開のようである。反政府運動には、旧ムバラク政権の支持層も加わった。軍が主導権を取り戻すとともに、旧ムバラク政権支持層も勢力を取り戻すだろう。

●「アラブの春」の曲がり角

 アラブ研究者の池内恵・東京大学準教授は、次のように書いている。
 「エジプトは民主化のボタンを大きく掛け違えた。エジプトは11年に急進的革命思想をアラブ諸国に発信し、体制動揺の連鎖を引き起こしたが、13年、今度は反革命の手法のモデルを示した。『アラブの春』の曲がり角である」
 「アラブの盟主」エジプトの動向は、北アフリカ・中東の周辺国に影響を及ぼすだろう。チュニジアでは、同胞団系の政党が政権を握っている。最近、急進的イスラム勢力と世俗派の対立が激化している。ヨルダンでは同胞団による反王制デモが頻発している。内戦が続くシリアでは、イスラム過激派の流入が続いている。エジプトで軍が実力行使により、民主化を押しとどめたことで、これらの国々でも同様の動きが出る可能性がある。『アラブの春』は曲がり角に来ている。これが大砂嵐にならずに、主体的な民主化がアラブの地で進むことを期待したい。
 以下は池内氏の記事。

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●産経新聞 平成25年7月8日

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130708/mds13070803340000-n1.htm
【正論】
東京大学准教授・池内恵 「アラブの春」遠ざかるエジプト
2013.7.8 03:26

 大規模デモを背景にしてエジプト軍がムルスィー大統領とムスリム同胞団を政権の座から追い落とした。6月30日の大規模デモから7月3日のシーシー国防相による大統領解任・憲法停止に至る過程で、マルクスの有名な言葉を思い出した。「すべての世界史的事実と世界史的人物は二度現れる、ただし一度目は悲劇として、もう一度は笑劇として」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)。革命状況で現れる直接民主主義は、代議制・代表制の間接民主主義と矛盾する。革命を叫んだ民衆は、やがて歓呼して「中立」を装った軍人を権力の座に迎える。

≪ムバーラク退陣と内実は変質≫
 今回の大規模デモは、2011年2月11日にムバーラク大統領を退陣させたものと同様に見えるかもしれない。しかし内実は大きく変質していた。
 2年半前のデモには、警察の拷問への批判、政権高官とそれに結びついた企業家の汚職の批判、長期独裁政権が奪った尊厳の回復、といった明確な大義名分があり、過酷な弾圧に直面しながら文字通り命を懸けて立ち向かう、人間の崇高さが表れていた。だからこそ世界中が18日間のデモに目を奪われ、混乱を恐れながらも、賛辞を惜しまなかったのである。
 今回のデモに至る過程で、何ら解決されず裁かれてもいない旧体制の犯罪への糾弾という、リベラル派や世俗主義派が元来掲げてきた要求は消滅した。ただ一点、「ムスリム同胞団の政権打倒」だけがスローガンとなった。これならムバーラク政権の姿勢と変わりがない。それどころか、今度は「民衆の意思」の名の下に堂々と弾圧できるのである。発端となるデモの企画はリベラル派・世俗主義派が行ったのだろうが、当日になって膨れ上がったデモの空前の規模は、大統領選挙でムルスィー氏に敗れたシャフィーク元首相を推した旧体制派による「デモ乗っ取り」を匂わせる。

≪「軍が味方になってくれる」≫
 シャフィーク氏はデモを大歓迎する声明を出し、ムバーラク氏が「今度のデモは自分が辞めさせられたときのものより大きい」とほくそ笑む発言まで報じられた。6月30日のデモに向けて、「体制打倒」を掲げた集団が2カ月にわたり公然と署名活動を行ったのに対して、警察当局は何ら措置を取らなかった。国防相はデモの直前になって、民衆の意思を支持するという発言を行った。「警察は手出しをしない、大騒動を起こせば軍が味方になって政権を倒してくれる」と印象づけたのである。これによってデモ参加への心理的な抵抗感は薄れ、いわば「勝ち馬に乗る」形でデモ参加者が膨れ上がったとみられる。
 デモのどさくさに紛れて多くの暴行事件が報告されている。ムスリム同胞団によるデモは襲撃されて死者が出た。同胞団の本部は焼き打ちにあった。明らかに同胞団側に死者が出ているにもかかわらず、警察当局は同胞団が衝突を煽(あお)ったとして大量摘発を行った。メディアも同胞団の武装化の恐怖を煽った。実際には、同胞団を襲っている勢力の中に銃を使用するものがいたとみられるにもかかわらず(それは秘密警察の直接・間接の関与を疑わせるものである)、デモ隊もエジプトのメディアも、それを問題にしなかった。
 確かに、同胞団の政権運営には独善的なところがあった。議会選挙と大統領選挙での勝利を背景に、「多数派による絶対支配」を推し進めていたとみられても仕方がない側面があった。新憲法制定の際には、統治体制にはほとんど変化のない草案を強引に採択した。つまりムバーラク氏と同様の専制政治を、今度は同胞団が行いうる。しかしそれも、群小政党に分裂して選挙に敗れたリベラル派が、立憲過程をひたすらボイコットしたからである。同胞団以上に野党側に柔軟性がなかった。

≪民主化のボタン掛け違えた≫
 なお、今回の政変を「イスラーム主義のムスリム同胞団に対する世俗主義派の反発」とする論評は全体像をとらえていない。エジプト国民の大多数は世俗主義を嫌っており、その点で同胞団は民意から離れていない。リベラル派・世俗主義派だけでは政権打倒はおろか、大規模なデモも起こせない。同胞団が政治権力を握ることを嫌う全勢力が合流し、軍がこれを絶好の機会と見て権力を取り戻したというのが真相に近い。
 選挙に負ければ立憲・政治プロセスをボイコットし、制度の外の街頭直接行動で混乱を引き起こし、軍の強権発動を呼び込んでいたのでは、民主主義のルールはいつまでも確立しない。次にムスリム同胞団が、同様の手段を用いて政権を揺さぶったとしても、誰もこれを批判できないだろう。そして、軍と警察の不興を買う政策は今後、誰も採れない。
 エジプトは民主化のボタンを大きく掛け違えた。エジプトは11年に急進的革命思想をアラブ諸国に発信し、体制動揺の連鎖を引き起こしたが、13年、今度は反革命の手法のモデルを示した。「アラブの春」の曲がり角である。(いけうち さとし)

●新潮Foresight

http://www.fsight.jp/18054
エジプト7月3日のクーデタ──乗っ取られた革命
執筆者:池内恵
2013年7月4日

 エジプト軍部が「民衆の名の下に」クーデタを行った。7月3日夜9時(日本時間4日朝4時)から、スィースィー国防相が、国営テレビで放映された映像の中で声明を読み上げた。憲法を停止。ムルスィー大統領は解任。アドリー・マンスール最高憲法裁判所長官が実権の定かでない暫定大統領に就任する。大統領選挙を早期に行い、選挙法改正を急ぎ新しい議会選挙の早期実施を目指す。当面はテクノクラートを中心の小規模の内閣を任命して行政を行う。幅広い諸勢力を含む委員会を設置する【概要の英訳】。

 しかも軍部は宗教権威をも連座させた。スィースィーのテレビ演説には、イスラーム教学の頂点に立つアズハル総長と、コプト教大司教も従えていた。彼らに順番に登壇させ、軍の動きを承認する発言をさせる念の入れようだった。さらに道化のように、ノーベル平和賞受賞者のバラダイ前IAEA事務総長までもが後に続いた。強権発動を正当化する演説を強いられた彼らの威信は傷ついた。クーデタへの加担は、宗教者の超越性とも、民主化活動家の信頼性とも相容れない。

「人民」の名の下に民主主義を放棄
 6月30日のデモの規模が空前のものだったとはいえ、自由で公正な選挙によって選ばれ、特に大きな人権侵害を行ったわけでもないムルスィー大統領を、たった一年で、軍の武力を背景に排除したことは、エジプトの民主主義の発展に大きな傷を残した。巨視的に歴史上のさまざまな革命を振り返れば、さほど珍しくもない光景ではあるが、目の前で生じるのを見る機会はそれほど多くない。
 スィースィーの声明が流されると、タハリール広場の民衆は熱狂した。しかし彼らがここで失ったものに気づくまでに、それほど時間はかからないだろう。カイロ大学や大統領宮殿近くのモスクに集まったムルスィー大統領支持派は雪辱を深く心に期しただろう。エジプト社会の分裂は深まった。エジプトは民主化のボタンを大きく掛け違えた。

何が起こったのか
 6月30日から7月3日にかけて本当に何が起こったのか。長い時間をかけた後でなければ確定されないだろう。デモの発端が、「反乱(tamarrod-rebel)」を銘打ったリベラル派や世俗派のムスリム同胞団に対する巻き返しの動きだったと見られる(もちろんこのことすら検証してみないと分からないが)。
 しかしデモが当日に空前の規模に膨れ上がったことに関しては、おそらくは、旧体制派が多く「革命派」を名乗って加わったとしか考えられない。アハマド・シャフィーク元首相に大統領選挙で投票した層が、革命派のシンボルを身にまとい、掛け声を合わせて合流し、デモの意味を変えた。
 また、統治権力に公然と「反乱」を唱える署名活動を、警察がなんら妨害せず、軍もきわめて好意的に対処したことは、デモ勢力と警察・軍に暗黙の了解があるという印象を、広範囲の国民に与えただろう。警察や軍の後押しがあると信じさせることで、バンドワゴン的にデモを拡大させ、拡大したデモを背後にして軍がムルスィー大統領とムスリム同胞団に退陣を迫るというシナリオを、最初から警察や軍が考えていたとすれば、リベラル派よりもムスリム同胞団よりも、はるかに上手でずる賢かったことになる。しかしそのような計画が当初からあったというよりは、いくつもの偶然の重なりから生まれた機会に諸勢力が相乗りし、一気に状況が流動化したと、ひとまず考えておこう。
 今回のクーデタは世俗主義対イスラーム主義ではない。なにしろ、ムスリム同胞団より保守的で伝統主義的なヌール党までがクーデタを支持すると表明している。デモの熱狂への恍惚と恐怖と、軍・警察の強制力による威嚇と安心感が交錯する中で、ムスリム同胞団とムルスィーという権力者を、古代ギリシアでいう「陶片追放」にかけたと見ていい。

恒常的な不安定化
 誰が得をしたかというと、それは明白で、主導権を取り戻した軍、復権を果たした警察、旧ムバーラク政権の支持層である。しかしそれによって安定がもたらされるというよりは、かなり長い将来に渡ってエジプトで権力が恒常的に不安定さを伴うことを決定づけたと言えるだろう。「人民」の直接行動による政権打倒の正統性が、民主主義的手続きよりも代議制政治よりも優越するという原則をここで定めてしまったからである。ムスリム同胞団始め諸勢力は今後陰謀と街頭行動を全面的に行うだろう。それに対して弾圧を行えばムバーラク政権時代の抑圧体制に逆戻りである。自由の味を知ってしまっている膨大な民衆がそれで黙るとも思えない。
 リベラル派は6月30日のデモの「成功」の果実を3日で奪われたどころか、軍事クーデタに連座させられ、ムバーラク大統領に最高憲法裁判事に任命されたマンスールを暫定大統領に頂く羽目になった。次にまた不満がたまって政変が起れば、バラダイをはじめとしたリベラル派こそが追及のやり玉に挙げられるだろう。催眠術にかけられて「毒饅頭」を食わされたような具合だ。
 これも「革命」がその過程で小休止する一つの停留所とでも言えばいいのだろう。終着点は誰にも見えてきていない。(池内恵)
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関連掲示
・拙稿「揺れる北アフリカと中東諸国1~3」
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