昨年12月の衆議院選挙の結果、衆議院では憲法改正に賛成の議員が7割以上となっている。今夏7月21日の参議院選挙では、憲法改正が争点の一つとなる。こうした状況に危機感を持った憲法改正反対派は「国民を縛るのが法律で、憲法は権力を縛るのもの」と喧伝している。反対派の一部は、護憲派といわれるが、その一方には改憲に反対しながら、国民には憲法を遵守する義務がないという主張も見られる。
現行憲法は、99条に公務員の憲法尊重擁護義務を定めている一方、国民の憲法遵守義務は規定していない。しかし、これは国民には遵守義務がないというということではなく、遵守義務は明文化するまでもない前提と考えられる。戦後憲法学の主流となった宮沢俊義氏は、国民にも憲法遵守義務があるという説であるから、多数意見だろう。佐藤幸治氏は、代表的な憲法解説書の一つである「憲法」で、「憲法制定者である国民が憲法を尊重擁護すべき立場にあるのは当然のことで、99条はその当然の前提に立つと解するのが一般的であるといえよう。じっさい外国の憲法の中には、国民の憲法遵守義務を明示するものも少なくない」と書いている。
注意したいのは、憲法を遵守する義務と憲法を改正する権利は、矛盾するものではないことである。国民主権の原理によって国民は憲法制定者とされているとともに、国民は改正の権利もまた所有する。制定権者である以上、当然である。国民の代表者である国会議員には、憲法改正の発議権が与えられている。国会議員は公務員として憲法の改正条項の規定を遵守して、改正を発議すればよいのである。
国民の憲法順守義務については、駒澤大学名誉教授の西修氏が、詳しく書いた最近の記事を紹介する。この点に関し、西氏は基本的に私と同じ意見である。記事の中で西氏は、美濃部達吉氏の言葉を引いている。「国民の国家に対する義務としては、第一に国民は国家を構成する一員として国家に対し忠誠奉公の義務を負ふものでなければならぬ。国家は国民の団体であり、国家の運命は国民に繋って居るのであるから、国民は国家の存立とその進運に貢献することをその当然の本分と為すものである」と。そのうえで、国民の憲法遵守義務については、東京大学法学部専任教員の共同研究による『註解日本国憲法 下』(昭和29年)の一節を引いている。
「(第99条が)国民をあげていないことは、国民のこの憲法を遵守する義務を否定したのでないことは、言を俟たない。殊更に国民をあげなかったのは、公務員が直接に憲法の運用に接触するため、それらに憲法を尊重し擁護することを求める特別の理由があるのみならず、この憲法自体が、前文で明言するごとく日本国民が確定したものである、従って、制定者であり、主権者である国民が、国家の根本法たる憲法を尊重し擁護しなければならないことは、理の当然であって、自ら最高法規として定立したものを、制定者自身が、破壊することを予想するのは、自殺的行為といわねばならないであろう」と。
憲法を遵守する義務と憲法を改正する権利が矛盾するものではないことについては、西氏は言及していない。今後、見解が出されたら、その点も紹介したい。
以下記事を掲載する。
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●産経新聞 平成25年6月12日
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130612/plc13061203100005-n1.htm
【正論】
駒沢大学名誉教授・西修 憲法への忠誠は「国民の義務」だ
2013.6.12 03:09
憲法上、国民の義務をどう考えればよいのか。日本国憲法は国民の義務として、子女に教育を受けさせる義務(第26条2項)、勤労の義務(第27条)および納税の義務(第30条)を定めている。これら憲法に明記されているもののほかに、国民は国家に対し何らの義務も負っていないのだろうか。
≪あの美濃部達吉も要求≫
東京帝大教授を務め日本国憲法作成の審議にも加わった憲法学の泰斗、美濃部達吉の言を引こう。
「国民の国家に対する義務としては、第一に国民は国家を構成する一員として国家に対し忠誠奉公の義務を負ふものでなければならぬ。国家は国民の団体であり、国家の運命は国民に繋(つなが)って居るのであるから、国民は国家の存立とその進運に貢献することをその当然の本分と為(な)すものである。第二に国民は社会生活の一員として社会の安寧秩序を保持し、その秩序を紊(みだ)すべからざる義務を負ふと共に、更(さら)に進んで積極的に社会の福利に寄与すべき義務を負ふものである。第三に国民は個人として各自が自己の存立の目的の主体であり、随(したが)って他の各個人の自由及び権利を尊重しこれを侵害してはならぬ義務を負ふものである」(『日本国憲法原論』=宮沢俊義補訂、昭和27年)
美濃部といえば、天皇機関説を唱えたリベラルな学者として知られているが、国家を「国民の運命共同体」であると措定(そてい)し、国家への忠誠奉公の義務を要求しているあたりは実に新鮮にさえ映る。
問題は、憲法第99条の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」との関連で、国民に憲法尊重擁護義務があるかどうかという点だ。
≪制定者は主権者たる国民≫
この点について、東京大学法学部専任教員の共同研究によって著わされた『註解日本国憲法 下』(昭和29年)を引用しよう。
「(第99条が)国民をあげていないことは、国民のこの憲法を遵守(じゅんしゅ)する義務を否定したのでないことは、言を俟(ま)たない。殊更に国民をあげなかったのは、公務員が直接に憲法の運用に接触するため、それらに憲法を尊重し擁護することを求める特別の理由があるのみならず、この憲法自体が、前文で明言するごとく日本国民が確定したものである、従って、制定者であり、主権者である国民が、国家の根本法たる憲法を尊重し擁護しなければならないことは、理の当然であって、自ら最高法規として定立したものを、制定者自身が、破壊することを予想するのは、自殺的行為といわねばならないであろう」
憲法の尊重擁護義務を公務員に限定したのは、公務員が公権力の行使者だという「特別の理由」からであるとしつつ、日本国憲法を「確定」した日本国民が日本国憲法を尊重擁護する義務を負うのは「理の当然」であり、義務を負わないのは「自殺的行為」であるとさえ述べられている。
近年、憲法は国家権力を縛るものであって、国民を縛るものではないという議論が多くみられる。そこからは、国民の憲法尊重義務は生じないとの結論が導かれ、また立憲主義を強調する立場から、憲法に義務規定を設定すること自体が疑問だという見解もある。
私には無責任な憲法論に思われてならない。立憲主義は憲法に義務規定を設けることを決して否定していない。古来より今日に至るまで納税はむろん、国防や兵役を国民の義務規定としてきている立憲国家は、枚挙にいとまがない。これらの義務は、帰属する国家の一員として国民が当然に担うべき負担と考えられてきたのである。憲法尊重擁護義務もしかりだ。
≪権利偏重論からの脱却を≫
第二次世界大戦の敗戦国、ドイツの憲法(1949年)は「教授の自由は、憲法への忠誠を免除しない」(第5条)などの規定を設け、国民に対し“憲法忠誠”を求めている。同じく敗戦国のイタリア憲法(47年)は「すべての市民は、共和国に対して忠誠を尽くし、その憲法および法律を遵守する義務を負う」(第54条)との明文規定を配している。それぞれ、ナチズム、ファシズムを生み出したという苦い反省を踏まえて、敗戦後、新たに民主的な憲法を制定し、国民の憲法への忠誠、憲法遵守義務をうたったのである。
産経新聞が発表した『国民の憲法』要綱は、公務員の憲法順守義務とともに、国民に対しても憲法および法令を順守する義務、国の安全を守り、社会公共に奉仕する義務、国旗および国歌を尊重する義務、家族が互いに扶助し、健全な家庭を築くように努力する義務などを設けた。
その根底には、国家権力を規制するという伝統的な立憲主義だけではなく、国民が「この国のかたち」としての基本法たる憲法つくりに、主体的にどうかかわっていくかという、新たな憲法理念と憲法認識がある。
これまでの権利偏重の憲法論から脱却すべく、新しい視点から国民の義務論が展開される一つの契機になることを期待したい。(にし おさむ)
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現行憲法は、99条に公務員の憲法尊重擁護義務を定めている一方、国民の憲法遵守義務は規定していない。しかし、これは国民には遵守義務がないというということではなく、遵守義務は明文化するまでもない前提と考えられる。戦後憲法学の主流となった宮沢俊義氏は、国民にも憲法遵守義務があるという説であるから、多数意見だろう。佐藤幸治氏は、代表的な憲法解説書の一つである「憲法」で、「憲法制定者である国民が憲法を尊重擁護すべき立場にあるのは当然のことで、99条はその当然の前提に立つと解するのが一般的であるといえよう。じっさい外国の憲法の中には、国民の憲法遵守義務を明示するものも少なくない」と書いている。
注意したいのは、憲法を遵守する義務と憲法を改正する権利は、矛盾するものではないことである。国民主権の原理によって国民は憲法制定者とされているとともに、国民は改正の権利もまた所有する。制定権者である以上、当然である。国民の代表者である国会議員には、憲法改正の発議権が与えられている。国会議員は公務員として憲法の改正条項の規定を遵守して、改正を発議すればよいのである。
国民の憲法順守義務については、駒澤大学名誉教授の西修氏が、詳しく書いた最近の記事を紹介する。この点に関し、西氏は基本的に私と同じ意見である。記事の中で西氏は、美濃部達吉氏の言葉を引いている。「国民の国家に対する義務としては、第一に国民は国家を構成する一員として国家に対し忠誠奉公の義務を負ふものでなければならぬ。国家は国民の団体であり、国家の運命は国民に繋って居るのであるから、国民は国家の存立とその進運に貢献することをその当然の本分と為すものである」と。そのうえで、国民の憲法遵守義務については、東京大学法学部専任教員の共同研究による『註解日本国憲法 下』(昭和29年)の一節を引いている。
「(第99条が)国民をあげていないことは、国民のこの憲法を遵守する義務を否定したのでないことは、言を俟たない。殊更に国民をあげなかったのは、公務員が直接に憲法の運用に接触するため、それらに憲法を尊重し擁護することを求める特別の理由があるのみならず、この憲法自体が、前文で明言するごとく日本国民が確定したものである、従って、制定者であり、主権者である国民が、国家の根本法たる憲法を尊重し擁護しなければならないことは、理の当然であって、自ら最高法規として定立したものを、制定者自身が、破壊することを予想するのは、自殺的行為といわねばならないであろう」と。
憲法を遵守する義務と憲法を改正する権利が矛盾するものではないことについては、西氏は言及していない。今後、見解が出されたら、その点も紹介したい。
以下記事を掲載する。
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●産経新聞 平成25年6月12日
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130612/plc13061203100005-n1.htm
【正論】
駒沢大学名誉教授・西修 憲法への忠誠は「国民の義務」だ
2013.6.12 03:09
憲法上、国民の義務をどう考えればよいのか。日本国憲法は国民の義務として、子女に教育を受けさせる義務(第26条2項)、勤労の義務(第27条)および納税の義務(第30条)を定めている。これら憲法に明記されているもののほかに、国民は国家に対し何らの義務も負っていないのだろうか。
≪あの美濃部達吉も要求≫
東京帝大教授を務め日本国憲法作成の審議にも加わった憲法学の泰斗、美濃部達吉の言を引こう。
「国民の国家に対する義務としては、第一に国民は国家を構成する一員として国家に対し忠誠奉公の義務を負ふものでなければならぬ。国家は国民の団体であり、国家の運命は国民に繋(つなが)って居るのであるから、国民は国家の存立とその進運に貢献することをその当然の本分と為(な)すものである。第二に国民は社会生活の一員として社会の安寧秩序を保持し、その秩序を紊(みだ)すべからざる義務を負ふと共に、更(さら)に進んで積極的に社会の福利に寄与すべき義務を負ふものである。第三に国民は個人として各自が自己の存立の目的の主体であり、随(したが)って他の各個人の自由及び権利を尊重しこれを侵害してはならぬ義務を負ふものである」(『日本国憲法原論』=宮沢俊義補訂、昭和27年)
美濃部といえば、天皇機関説を唱えたリベラルな学者として知られているが、国家を「国民の運命共同体」であると措定(そてい)し、国家への忠誠奉公の義務を要求しているあたりは実に新鮮にさえ映る。
問題は、憲法第99条の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」との関連で、国民に憲法尊重擁護義務があるかどうかという点だ。
≪制定者は主権者たる国民≫
この点について、東京大学法学部専任教員の共同研究によって著わされた『註解日本国憲法 下』(昭和29年)を引用しよう。
「(第99条が)国民をあげていないことは、国民のこの憲法を遵守(じゅんしゅ)する義務を否定したのでないことは、言を俟(ま)たない。殊更に国民をあげなかったのは、公務員が直接に憲法の運用に接触するため、それらに憲法を尊重し擁護することを求める特別の理由があるのみならず、この憲法自体が、前文で明言するごとく日本国民が確定したものである、従って、制定者であり、主権者である国民が、国家の根本法たる憲法を尊重し擁護しなければならないことは、理の当然であって、自ら最高法規として定立したものを、制定者自身が、破壊することを予想するのは、自殺的行為といわねばならないであろう」
憲法の尊重擁護義務を公務員に限定したのは、公務員が公権力の行使者だという「特別の理由」からであるとしつつ、日本国憲法を「確定」した日本国民が日本国憲法を尊重擁護する義務を負うのは「理の当然」であり、義務を負わないのは「自殺的行為」であるとさえ述べられている。
近年、憲法は国家権力を縛るものであって、国民を縛るものではないという議論が多くみられる。そこからは、国民の憲法尊重義務は生じないとの結論が導かれ、また立憲主義を強調する立場から、憲法に義務規定を設定すること自体が疑問だという見解もある。
私には無責任な憲法論に思われてならない。立憲主義は憲法に義務規定を設けることを決して否定していない。古来より今日に至るまで納税はむろん、国防や兵役を国民の義務規定としてきている立憲国家は、枚挙にいとまがない。これらの義務は、帰属する国家の一員として国民が当然に担うべき負担と考えられてきたのである。憲法尊重擁護義務もしかりだ。
≪権利偏重論からの脱却を≫
第二次世界大戦の敗戦国、ドイツの憲法(1949年)は「教授の自由は、憲法への忠誠を免除しない」(第5条)などの規定を設け、国民に対し“憲法忠誠”を求めている。同じく敗戦国のイタリア憲法(47年)は「すべての市民は、共和国に対して忠誠を尽くし、その憲法および法律を遵守する義務を負う」(第54条)との明文規定を配している。それぞれ、ナチズム、ファシズムを生み出したという苦い反省を踏まえて、敗戦後、新たに民主的な憲法を制定し、国民の憲法への忠誠、憲法遵守義務をうたったのである。
産経新聞が発表した『国民の憲法』要綱は、公務員の憲法順守義務とともに、国民に対しても憲法および法令を順守する義務、国の安全を守り、社会公共に奉仕する義務、国旗および国歌を尊重する義務、家族が互いに扶助し、健全な家庭を築くように努力する義務などを設けた。
その根底には、国家権力を規制するという伝統的な立憲主義だけではなく、国民が「この国のかたち」としての基本法たる憲法つくりに、主体的にどうかかわっていくかという、新たな憲法理念と憲法認識がある。
これまでの権利偏重の憲法論から脱却すべく、新しい視点から国民の義務論が展開される一つの契機になることを期待したい。(にし おさむ)
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