ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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北朝鮮:拉致実行犯の証言と原発テロ1

2013-06-18 10:26:03 | 国際関係
 5月28~31日産経新聞は北朝鮮の対日工作に関する衝撃的な報道を行った。一点は、拉致実行犯の証言、もう一点は原発自爆テロである。
 まず拉致実行犯の証言に関する記事を転載する。

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●産経新聞 平成25年5月28日

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130528/kor13052808240000-n1.htm
拉致実行犯を初聴取 政府対策本部 未発覚、数十人規模か
2013.5.28 08:22

80年代「若者連れ去り、残りは船ごと沈めた」

 脱北した朝鮮人民軍元幹部が軍の指令を受けて1980年代に日本海で漁船の日本人乗組員を拉致したと証言していることが判明し、政府の拉致問題対策本部が元幹部から事情聴取したことが27日、分かった。政府当局が拉致実行犯を名乗る脱北者から聴取したのは初めて。元幹部は、軍の工作機関による海上での拉致は60年代から80年代にかけて頻繁にあったとし、「若者だけを連れ去り、残る船員は船ごと沈めた」と証言した。事実なら、拉致・殺害の被害者は数十人規模に上る可能性があり、対策本部は調査を始めた。
 海上での韓国人拉致は知られているが、軍による海での日本人拉致についての具体的証言も初。
 元幹部によれば、青森県沖で80年代、5人前後が乗った漁船を襲い、30代男性を連れ去った。残りの船員らは船ごと沈めたという。
 海上保安庁によると、70年代から80年代にかけて、日本海で行方不明になった漁船は記録が残っているだけで18隻。80年10月には青森県沖で30~70代の6人が乗った漁船が戻らず、遺体で見つかった1人を除く5人と船体が発見されない事案があった。対策本部は、元幹部の証言と、こうした事例との類似点を精査するなど調査を進める。
 元幹部によると、海上での拉致は「対日漁民作戦」と名付けられ、「対南(韓国)漁民作戦」と並行して、62~85年まで繰り返し実行された。日本海側の元山(ウォンサン)近くなどを拠点に計約120人の部隊が編成されていたという。
 作戦に使われた工作船は、船体に漢字で「○○丸」と書かれた日本の中型漁船を装ったもので、十数人の工作員が乗船していた。4月~10月末に青森から九州の日本海側で2~5人ほどが乗った中小漁船を標的にしたという。
 手口は夜、無灯火で日本漁船に近づいて乗り移り、銃を突き付け船員を制圧。10~30代だけを工作船に連行し、高齢だったり、抵抗した乗組員は船倉や船室に閉じ込め、船ごと沈めて証拠隠滅を図ったという。
 元幹部は、「多い時期は年に3回、少ないときは2年に1回実行された」とし、事実なら拉致被害者は10人以上、殺害された人はその数倍に上る可能性がある。
 元幹部は「拉致した若者を教育し日本に再上陸させ情報収集などをさせる計画だった。被害者には大学を出た若者もいた」とも証言。81年に拉致し教育した日本人を日本に再上陸させたこともあったというが、いずれの被害者も消息は不明だという。
 元幹部によれば、拉致被害者を工作活動に従事させる計画は成果を得られず、85年には韓国に再入国させた韓国人被害者が警察に通報したため、対南、対日とも作戦を中止したという。
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 この記事の報道後、5月30日、元幹部が韓国の民間団体を通じ「軍工作機関が1962~85年に漁船の若い日本人を拉致し、残る乗組員を殺害した」と文書で公表し、海上での日本人拉致の疑いを伝えた28日付産経新聞の報道内容を認めたという記事が出た。文書は、元幹部と関係のある団体が都内で開いた講演会で元幹部が書いたものを読む形で公表したという。文書によると、元幹部は直接関与した事件など把握しているだけで被害者は「30人以上」とし、「拉致問題において漁船の拉致は絶対解決しなければならない」と強調したという。
 元幹部によると、北朝鮮は60年代から80年代に米軍基地などの現状を把握するため工作員上陸を数十回行った。漁船の日本人を拉致した理由は「漁民は海の状況をよく知っており、海岸の警備状況などを知るためだった」とした。日本船に偽装した工作船から標的の小型漁船に乗り移った後、「漁民を縛り上げて尋問し、若くしっかりした1人を選び、残りは船とともに沈めた」、船を沈没させるには「エンジンに冷却水を送るホースを切断して船内に水を流し込んだりした」という。
 1960年代については、1963年(昭和38年)5月寺越昭二さん(当時36歳)・外雄さん(24歳)・武志さん(13歳)が石川県沖で行方不明になった。その24年後、1987年(昭和62年)に寺越外雄さんから手紙が来て、北朝鮮にいることがわかった。3人は工作船が侵入しようとしたところを見たので、拉致されたのだった。1977年(昭和52年)9月19日、久米裕(ゆたか)さん(当時52歳)〔東京都〕が拉致されたのが、日本の領土で、北朝鮮工作員及び朝鮮総連系に拉致された始めとされる。以後、77~83年にかけて、日本人拉致が集中的に行われた。横田めぐみさん、地村保志さん、浜本富貴恵さん、蓮村薫さん、奥土祐木子さん、市川修一さん、増元るみ子さん、田口八重子さん、曽我ひとみさん、曽我ミヨシさん、田中実さん、石岡亨さん、松木薫さん、有本恵子さんらである。寺越さんの例は、この時期より、10年以上早い。一体いつから拉致が、どの程度の規模で行われてきたのか、真相は解明されていない。今回の元幹部の証言は、軍の工作機関による海上での拉致は60年代から80年代にかけて頻繁にあったとしており、寺越さんの拉致はいくつもの海上拉致の一つだったことを示している。

 次回に続く。