ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権49~暴力と政治的なもの

2013-06-15 11:02:39 | 人権
●「暴力」と政治的なもの

 現代のわが国で最も注目すべき権力論を展開しているのが、萱野稔人氏である。『国家とはなにか』(以文社)『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)『権力の読みかた』(青土社)等の著作によって知られる哲学者である。
 萱野氏は、腕力・武力・実力に当たる言葉として、「暴力」を使用している。萱野氏は、「暴力は命令することを可能にする」「命令とは、自らの決定を他人に課すこと」「暴力に基づいた命令とは、暴力的な格差を利用することで自らの決定を他人に課すことである」等と説いている。萱野氏は、著書で暴力を定義しておらず、腕力・武力・実力との比較をしていないようである。その点に注意しながら読むならば、萱野氏の所論は、権力を検討するうえで啓発的なものである。
 萱野氏は「暴力は、秩序と支配を保証するという社会的機能を持つからこそ、単なる破壊とは違った仕方で用いられ、集団的に組織化される」と言う。これは、権力は「秩序と支配を保証するという社会的機能を持つ」というべきところであり、権力の行使の一形態が暴力である。だから、暴力は「単なる破壊とは違った仕方で用いられ、集団的に組織化される」のである。暴力は組織化され得る。組織化された暴力は、無秩序に発揮される力ではない。萱野氏は「暴力の組織化とは、より強い暴力を有効に行使するため、人的・物的資源の集団的な活用にほかならない」と述べている。
 国家は、一個の政治的な集団である。国家と暴力の関係について、萱野氏は次のように書いている。「暴力が手段として組織的に用いられるとき、政治団体が生まれる」。そして、その政治団体のあるものが、「合法的な暴力行使の独占を実効的に要求する」ようになるとき、「国家が成立するのだ」と。そして、カール・シュミットが著書『政治的なものの概念』(未来社)において、「政治的なものを固有に規定するのは敵/友の区別である」と説いていることを挙げる。「敵とは、外部のものであれ内部のものであれ、こちら側の秩序と支配を受け入れない個人や集団のことである。そうした敵に対して闘うために暴力を組織化すること、これによって国家をはじめとする政治団体は実在性を得るのだ」と萱野氏は言う。
 私見を述べるならば、確かにシュミットの政治的なものの概念は、敵/友を固有の指標とする。だが、これは政治を闘争的な側面だけでとらえたものである。政治とは、集団における秩序の形成と解体をめぐる相互的・協同的な行為である。とりわけ権力の獲得と行使に係る現象をいう。その根底にあるのは、集団における意思の決定と発動である。こうした意味での政治は本来、闘争的ではなく、協同的なものである。なぜなら、人間の集団は本来、共同的なものであり、生命を共有するものだからである。私は、家族を私的集団と考えるので、一定の公共性を持つ氏族・部族の段階から政治という現象を見る。これらの共同体では、共通の目的のために、権利を協同的に行使する。組合・団体・社団・国家等でも同様である。集団は、権利を協同的に行使するために意思を決定し発動する。この権利の相互作用を力の観念でとらえたものが、権力である。
 集団の政治の共同性を最もよく表す言葉が、日本語の「まつりごと」である。「まつりごと」は政治であり、また祭事である。政治と祭事は古来、一体のものとして行われていた。祭政一致である。さまざまな共同体は、首長を中心に、祭事を行い、神意に沿った政治を心がけた。こうした祭政一致の共同体が壊れたところに、シュミットのいう敵/友の区別、闘争的な政治が発生する。それは、近代西欧社会に典型的な政治形態である。だが、近代西欧では、集団の共同性を回復しようとする運動も起こった。その一つが、ナショナリズムである。ナショナリズムは、文化的単位と政治的単位の一致を図ろうとする思想・運動である。敵/友に分かれた集団を再編成しようとする政治運動である。
 ナショナリズムは、集団を組織化することで、政治的な権力を求める。他民族の支配に反抗し、独立や解放を目指す。そこにおいて実現される権力は、人民の力の合成であり、新たな共同体の力である。独立や解放は、統治権の奪取であり、自己決定権の獲得である。人民の力の結集が自己の意思決定で統治する権利を実現しようとする。その権利の相互作用を力の観念でとらえれば、権力となる。暴力という訳語は、このような場合の人民の力の行使を肯定的に表現できないという欠点も持っている。

 次回に続く。