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●漫画・・ 「青春」..(1)

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 今回の、この「Kenの漫画読み日記。」のお題、タイトル「青春」というのは、一つの漫画作品の題名ではなく、ある漫画誌の“誌名”です。これもまた古い古い話になりますけど、貸本文化時代の中の、一貸本誌の名前ですね。第一プロ発行の貸本誌「青春」は1963年創刊の、青春ものオムニバス誌です。だいたい120Pくらいから140Pくらいのページ数の1冊本中に3作から多くて5作くらいの、若者たちが主人公の青春もの漫画が収録された短編集でした。明朗学園もの、恋愛を織り交ぜた若者生活もの、純情純愛の生活漫画、時折シリアスな若者苦闘物語、涙を誘いそうな友情・人情もの、恋愛コメディー。どれもだいたい20Pから長くてもせいぜい40Pくらいの掌編ですから、当時の若者たち、比較的良い暮らしをしている者も、貧しく底辺で生きている者も、大学生も若年労働者も、苦学生も高校生も、あの時代のさまざまな若者の生活の断片を物語として描いてました。まあ、当時の貸本文化の中の漫画作品は玉石混交、どっちかといえば石ころの多い表現文化でした(失礼)から、何てことない漫画も、陳腐なストーリーも多かった訳ですけど、楽しく面白い漫画もいっぱいあったのも事実です。短編集誌「青春」で、巻頭カラーを飾ったり目立って人気のあったのは、恋愛テイストの明朗学園漫画、恋愛コメディーもの、恋愛風味の明るく陽気な若者の生活漫画でしたね。

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 「青春」は、貸本のオムニバス誌で編集・発行は第一プロでした。第一プロという貸本専門の出版社を作ったのは、「劇画」の名付け親、劇画草創期の立役者の一人、辰己ヨシヒロさんです。辰己ヨシヒロ先生は近年では、2008年に単行本コミック上下2巻で刊行された「劇画漂流」が、日本現代漫画史の資料的意味を持つ内容も相まって、ビルドゥングスロマン的大河漫画として評価があり、2009年手塚治虫文化賞大賞や、米国で漫画作品として権威のあるアイズナー賞を2010年に取った、かなり高名な作品ですね。辰己ヨシヒロさんは1963年頃から「第一プロ」として貸本出版を始め、途中「ヒロ書房」と名前を変え、60年代末頃か70年代初頭頃まで貸本出版社の代表社長として、「青春」やSF漫画専門誌「鉄人」や、幾多の貸本単行本を編集・発刊して来ました。「青春」は、その中でもシリーズ短編集として長年続いた人気貸本誌でした。この「青春」の発行期間の初期から前半の、表紙扉絵や巻頭カラー漫画を描いていたのが、みやわき心太郎さんです。貸本時代のみやわき心太郎先生の描く漫画は、明朗学園ものにしろ青年ものにしろ、まだまだ純愛テイストの、ほのぼの恋愛漫画が多かったですね。当時の僕はみやわき心太郎先生の青春漫画が大好きでした。僕が貸本屋さんに毎日通って毎回必ず貸本を2冊、あるいは別冊付録共の月刊誌を借りていたのは、だいたい小学一年生から五年生の途中頃までです。まあ、小五の半ば頃に、その、家の近所の貸本屋が閉店してしまったからですが。青春もの専門の短編集、第一プロ「青春」の創刊は1963年ですから、僕はまだ幼少時と呼んでもいい年頃から、ほのぼのほんわか純愛ドラマなんかに憧れちゃってたんですねえ。子供の頃、学校の勉強は全く駄目な馬鹿ガキでしたけど、頭の中の、そういうものへの関心部分は早熟ぎみでませくれていたみたいです。逆に思春期以降ウブになり、中学くらいから女生徒と口が利けなくなるんですけど。僕はもう、みやわき先生の明朗青春ものが楽しみで楽しみで、貸本屋さんに「青春」があったときは喝采もので喜んでました。みやわき心太郎さんの青春ものは、ごくたまにシリアスな厳しく暗いドラマのものもありました。こういう作品は僕は一応読んでたけど、好きではありませんでした。やはりほのぼのホンワカ純愛青春ものが大好きでした。時折、みやわき先生単独の青春ものの単行本も見つけて、そのときはもう、嬉しくてたまらなかったものです。みやわき先生の青春漫画は、「ハートコレクション」というシリーズもあって、これは、長編も短編もあったようですね。

 まあ、僕の子供の頃の貸本漫画には、他の劇画作家たち各々のヒーローアクションものも、カッコイイ漫画作品がいろいろとあって、そのヒーローたちの活躍にシビレルような感じで嬉々として読んでいたし、他にも佐藤プロが発行していた、楳図かずお学園純愛コメディー漫画メインの、青春純愛ものオムニバス誌「17才」もあったし、そういった作品を見つけて借りるときも、子供ながら、もうワクワクする喜び感でいっぱいでしたけどね。貸本屋さんで気に入った本を見つけたときは、正に欣喜雀躍で嬉しかった。僕の子供時代、貸本屋とはパラダイスそのものでした。あ、そうだ、「オッス!」もあった。これも明朗学園もの短編誌でしたね。日の丸文庫発行の、どちらかというと学園ものオムニバス誌ですが、学園ものに限らず、青春ものや友情ものテイストの作品を並べてるんだけど、第一プロの「青春」に比べると、読者対象を幾分低くしているような。まあ、決め付けられませんがオオザッパにいうと、雰囲気的に、「青春」が15歳以上くらいが対象だとすると、「オッス!」は中学生対象くらいかな。まあ、読む人は、子供も大人も読んでましたが。

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 みやわき心太郎さんといえば、僕に取っては子供時代に堪能した明朗青春漫画ですけど、60年代末に貸本消滅後、多くの貸本漫画家のようにメジャー雑誌界に移り、みやわき先生は集英社の週刊少年ジャンプに「革命児ゲバラ」を連載してました。僕はこの漫画でゲバラを知り、感動し、また憧れました。1969年ジャンプ掲載ですから、僕はもう中学生になってましたね。僕はこの作品は、当時のジャンプに少なくとも数ヶ月間くらいは連載が続いたように思い込んでいましたけど、調べたら実際は69年のジャンプにたった3回の短気集中連載だったんですね。昔の記憶とはあやふやなものだ。しかし、この劇画でゲバラを知った僕は、医者というインテリでハンサムで、極貧に苦しむ民衆という弱者のために、勇気と行動力でもって、富を一極集中させる支配者たちの最強軍に、果敢に立ち向かって行く、革命児チェ・ゲバラに感銘し、憧れ、めちゃリスペクトしました。その後、僕はハイティーン時、翻訳ものの「ゲバラ日記」や三好徹氏著作の「チェ・ゲバラ伝」などを読みました。まあ、僕は単細胞な青年でしたから、要するに、メチャメチャ・カッコイイ!と、単に憧れまくっただけなんでしょうね。ハンサムで医者というインテリで優しくて勇気と行動力がある、なんてもう、カッコ良さの極みじゃないですか。まあ、当時は女にモテたんだろうなあ、とかね、そういう憧れもあったんでしょう。まあ、時代的に、60年代70年代は、左翼がカッコイイ時代でしたからね。作家とかインテリ方向の有名人たちで、人気があるのは全て左翼傾向の文化人だったし。僕も70年代は、左翼的思想に見える、有名な知識人・文化人たちに憧れてたものです。まあ、しかし僕自身は、行動的には実は何も考えてなくてノンポリの、ボーっと生きてるだけの若者でしたけど。特別、運動に参加した訳でも何でもないし。でも18歳~20歳頃は、大江健三郎のエッセイや小田誠や小中陽太郎の書いたものなどを読んでいましたから、思想的には左翼かぶれしたかったんでしょうね。行動的には何もありませんでしたけど。

 その後、雑誌界へと進んだみやわき心太郎さんに関しては、僕は69年のジャンプの「ゲバラ」以降は、作品を見る機会がなく、勿論、70年代80年代と活躍されていたんでしょうが、僕自身はみやわき漫画をまるで見ませんでした。そしてみやわき心太郎さんは貸本終焉後、「ゲバラ」の中編以降の雑誌界では、僕が漫画作品をその後初めて目にしたというのが、ある意味問題作な「レイプマン」でした。「レイプマン」もけっこう大長編漫画ですけどね。連作大長編ですね。「レイプマン」もけっこう面白かったんだけど、成人漫画だし、まあ、いろいろと問題ある劇画作品ですからね(『レイプマン』は92年頃初出の作品かな)。僕は確か、古書店まんだらけのカタログ機関誌「まんだらけZENBU」で掲載のみやわきさんのエッセイ漫画を、あれは何年頃だろう?2003年頃かなあ(?)、読んだのを最後にみやわき先生の音沙汰を全然知らなかったのですけど、ついこの間、Blog「漫棚通信」さんのサイトを覗いて、みやわき心太郎さんの作品を紹介解説しているブロック、「貸本時代のみやわき心太郎」を読んで、みやわき先生が亡くなられていたことを知ってショックを受けました。調べると、みやわき先生は2010年10月に67歳という、まだまだこれからという年齢で亡くなられていました。漫画家という職業は実は大変ハードな職業です。売れっ子になると超過酷なほどにキツイ仕事です。漫画家さんに早死にが多い。あの素晴らしい青春漫画を、幼い頃の僕のアタマとハートに、ふわふわ甘く気持ち良くうっとり楽しく堪能させてくれた、みやわき心太郎さんが二度と戻らない遠いところへ行ってしまったのかと思うと、過ぎ去った昭和の時代が毎年毎年遠くへ離れ去って行くのもあって、本当に寂しさを感じますね。ちょっと遅れてしまいましたが、合掌。

※「青春」..(2)へと続きます。

◆(2012-01/05)漫画・・ 「青春」..(1)
◆(2012-03/08)漫画・・ 「青春」..(2)
◆(2012-04/25)漫画・・ 「青春」..(3)

※(関連記事)2009-1/13●漫画・・「影」

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