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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(5)

5.

 今日は少年野球の練習のない日だった。少年野球の練習は間を空けて週三回で、時々、土曜か日曜の小学校授業のない午前中、他の地区の少年野球チームとの対抗試合がある場合があった。少年野球チームに入ってまだ二ヶ月足らずの、小学三年生の和也は対抗試合に出たことはない。和也本人も特に、試合に出たいという気持ちもなかった。

 和也は、ふうふうと息をつきながら小さな自転車をこいで、市民公園の野球用グランド前の通路までやって来た。小学二年生の時に、父親から買ってもらった自転車だ。和也は、通路のネット裏の側に、自転車を停めた。何だか様子が、ひどく慌てている。自転車荷台に積んであった大きなショルダーバッグを、自分の身体のはすに掛け、首には紐掛けで、懐中電灯を吊るしてある。まだ陽はあるが、時刻は夕方だ。あわただしくグランドに入って行くと、小走りでグランドを横断し始めた。グランド奥の、ふだん練習時に外野を守っている地点まで来ると、グランド周囲に立つ外灯が点灯し始めた。

 「いけない、急がなくては」 和也は思った。用事を早く済ませて早く帰らないと、誰かに見つかったら大変なことになる。和也は急ぎ足で叢を踏み分け、林の方へと進む。林の中も、木々の間の藪や茂みを掻き分け、とにかく、逸る気持ちは大急ぎで、この間の事件のあった遊歩道を目指して進んだ。

 もうすぐだ。遊歩道に出る手前の、目印になる大きな樹木のところまで来た。もう遊歩道が木陰に覗いている。普段は滅多に人が入って来ない、荒れ果てた遊歩道引き込み路だ。和也が、樹木の幹影から遊歩道を覗いた。人が居る。勿論、森の怪人・じじごろうではない。もっと、ずっと小さい影だ。黒色上下の後ろ姿。制服。中学生か。和也は、ここまでやって来るのに、藪の茂みを掻き分けガサガサ音をさせて来たが、先客は気が付いていないようだ。和也の立つ位置から遊歩道までは、もうほんの3、4メートルくらいの間しかない。

 和也は、樹木の幹影から様子を見た。学生服姿の少年が、ロープを持って先端を投げ上げ、樹木の太い枝の上を通した。もう一度行う。少年の頭上にほぼ水平に伸びる横枝を、ロープを二重に回して、枝に巻き付けた形になったロープの先端を持った少年は、後ろ姿で何やらごそごそ動作し、どうもロープ先端で丸い輪っかを作っているようだ。少年のすぐ傍らには、背の低い脚立が置いてある。和也には、少年が何をしようとしているのかさっぱり見当が着かなかった。ただ、今出て行っては悪い気がして、こちらも、誰にも人に見つかりたくない気持ちもあって、静かに幹影から様子を見続けた。大きな樹木の太い枝の下に立つ少年以外にも、和也は、遊歩道のあちこちに目配せしてみたが、巨人・じじごろうの影も見えないし、犬のハチさんの姿も何処にもない。

 少年は、ロープの反対側の、まだ巻き輪になったままの部分を持って、少しづつ解いて樹木の太い幹に巻き付け始めた。首を横にし、太枝の下の輪っかの部分を見て、長さを調節しているようだ。二回り巻き付けると、ロープの端を括って固定する。そして脚立の傍に戻り、輪っかになっているロープ先端を、ぐっぐっと何度か引いて強度を確かめた。まるであの輪っかに、重い物をぶら下げてもロープがずるずると解けないか、試しているように見える。確認作業を終えた少年は、背の低い脚立を動かし、ロープ輪っか真下に据えた。

 「いったい何をするのだろう?」 和也には何の想像も着かなかった。ただ、これが少年の厳粛な儀式のように感じられて、今出て行って邪魔をしたら、とても悪いような気がしていた。身体をくるりと回して、少年はこちら側を向いた。思わず和也は、木の幹に頭を引っ込めた。そして、そおーっとまた、顔を出して様子を窺う。

 見ると少年は、学生服の上着を脱ぎ始めた。そしてズック靴を脱いで、学生服の内ポケットから白い封筒を一通出す。屈み込んだ少年が、靴の片方の中に封筒を突っ込んだ。そして、学生服をきれいにたたみ始めた。あたりは、じわじわと暗くなり始めているようだ。早く用事を済ませて早く帰らないといけない。和也の気持ちは焦っていたが、だが身体が動かない。動けないで固まったままだ。

 折りたたんだ学生服を、両腕で抱えるようにして持って俯いたままの、少年の両肩が小刻みに震えている。「泣いているのか?」 和也は不審に思った。やがて、ボサボサ頭の顔を上げると、ぎゅうっと絞るように瞑った、両目の下には涙があふれ頬をしたたっている。やはり少年は泣いていた。むせび泣いているのだ。

 うっうっ、と声を詰まらせて泣きながら、並べた靴の上にたたんだ制服を置いた。黒い学生服のところどころが、茶色く汚れているように見える。下に着ている薄手のトレーナーの袖で、涙を拭きながら立ち上がった。凝視している、和也の身体は固まったまま動けない。和也には、何だかものすごく忌まわしいこと、とても恐ろしいことが起こる直前のように感じられて、戦慄した全身が、ガタガタ震え始めた。和也は心の中で叫んでいた。「いけない、いけない‥」 だが声としては出て来ない。少年は、ヒクヒクと泣き顔のまま、脚立を上がり始めた。少年が、ロープの輪を両掌で掴んだ。脚立の天台に立つ。少年が今、ロープの輪に首を入れようとしている。「いけない、いけない‥」 和也の心の中の叫びが続いている。和也は今、目の前で起こっていることを完全に理解した。少年が輪っかに首を掛けきった。

 和也を金縛りに掛けていた、呪縛が解けた。樹木の影の藪の中から、弾き出されたように、和也が遊歩道に飛び出した。声となって、叫びも出た。

 「いけない、駄目だ!」

 少年が後ろ足で、ポーンと脚立の天板を蹴った。太い横枝から垂直に垂れたロープに、少年の体重が掛かる。ギシッと、枝が音を立てて、若干しなったかと思われた瞬間、ぷっつりとロープが切れた。少年が地面にどさりと落ちた。

 お尻から落ちて、尻餅を着いた格好だ。路面の枯葉や泥の下は、舗装されたアスファルト面だ。少年は痛そうに顔をしかめ、おもむろに斜めに顔を上げて、自分の頭上を見た。遊歩道に出て来た和也も、少年の頭上を見上げていた。ロープが途中で切れている。転んだ格好のままの少年の首に、ロープの輪っかが掛かり、先が尻尾のように首から垂れている。和也も少年も、しばし呆然と切れたロープの先を見ていた。

 陽はもう、かなり落ちて来ていて、木々の枝葉で覆われたこのあたりは、宵闇というよりはもう夜の暗さだ。明かりは、傍に立つただ一本の外灯だけだ。ここから離れた、遊歩道メインロードに出る角を、もう一本の外灯の明かりが小さく見える。

 首を戻し、うなだれた少年が座り込んだ姿勢のまま、顔をくしゃくしゃにして泣き顔を作った。少し遅れて声が漏れ始めた。泣き声は次第に大きくなり、誰はばかることなく声を上げて、おいおいと号泣した。和也は、少年の側まで行って立ち、じっと見下ろしていた。和也も泣いていた。何だか訳も解らず、胸が締め付けられるように悲しかった。

 和也が何気なく、首を回すと6、7メートル先の闇の中に、小さな影がある。ちょっと小さめの中型犬の影。ハチだ。ハチが居る。

 「ハチさん!」 和也が叫ぶ。

 ハチの足元が、小さくキラリと光って見える。ガラス片か。和也が首を回して、枝から垂れるロープの切れ口を見た。きれいに切れてある。

 「ああっ、ハチさんが救ってくれたんだ!」

 和也は身体を折って屈み、座り込んだ姿勢のまま俯いて泣き続けている、少年の肩に手を置いて言葉を掛けた。

 「良かったね、お兄ちゃん。ハチさんが助けてくれたんだよ!」

 少年は泣き顔を上げて首を回し、一匹の犬が居るのを認めた。何も言わず、ただしゃくり上げ続けている。

 一匹の犬、ハチは、こちらへゆっくりと歩いて近付いて来ている。ハチは、和也の顔を見て二、三度尻尾を振ると、少年の傍らに来て、その泣き顔をペロペロと舐めた。少年が泣き止み、幾分落ち着きを取り戻した。和也は、向こうに落ちているガラス片をくわえて、ハチがロープを切ったのだと思い、その動きが全く見えなかったことに驚き、もう二週間くらい前になる、路上で通り魔に襲われたときに、あの白くて大きな犬が助けてくれた場面を思い出していた。

 和也も少年の元に屈み込んだのだが、そういえば大便臭い。立ってる時も臭ったが、こうやって座ると、はっきり大便の臭いが鼻を衝く。ハチがまるで和也の心を読んだように、少年の傍らにたたんで置いてある制服を見た。和也は、この制服が便臭の出元だと理解した。ところどころ茶色く汚れているのは、これはウンコが着いているのだ。

 突然、ハチが首を回して、遊歩道の奥の暗がりを見た。何か居る。それはゆっくりと、こちらに近付いて来ている。影が大きい。大型犬だ。

 「あっ!」 和也は叫んだ。

 白くて大きな犬だ。あの時、助けてくれた犬。この犬は、日本犬種だ。白色の秋田犬の大きいの。顔は、秋田犬よりもスマートな顔付きをしている。少年や和也の前、三メートルくらい先でピタリと止まった。ハチが、白い犬の元まで軽足で行く。並ぶと白い犬は、中型犬でも小ぶりなハチよりも二周り以上大きい。ハチは、純粋な日本犬というよりは、耳の形や垂れた尻尾が少々洋犬ぽい。ひょっとしたら、どちらも犬としては雑種なのかも知れない。和也は思った。しかし、能力的には信じらないような、不思議な力を持った犬たちだ。

 和也が見ていると、二匹の犬は顔を付き合わせて、まるで会話しているようにも見える。どちらの犬も、まるで話し合っている時の人間みたいに、犬の顔に、表情が出ているようにも見えるのだ。首を小さく上げ下げ動かすのも、頷いたり相槌を打っているようにも見える。和也の隣の、座り込んだままの少年は、もうすっかり泣き止んでいて、ただポカンとして二匹の犬を見ていた。

長いプロローグ..(6)へ続く。

◆(2012-01/01)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(1)
◆(2012-01/19)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(2)
◆(2012-01/26)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(3)
◆(2012-02/06)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(4)
◆(2012-02/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(5)
◆(2012-03/02)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(6)
◆(2012-04/02)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(7)
◆(2012-04/25)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(8)
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◆(2012-07/06)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(11)
◆(2012-08/04)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(12) 

 

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