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●漫画・・ 「青春」..(2)

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 “劇画”の命名者、辰巳ヨシヒロ氏が興した貸本出版社、第一プロ、後のヒロ書房が定期刊行していた貸本アンソロジー誌、「青春」は1963年に創刊されて、67年頃まで刊行が続きました。短編誌「青春」は第40号くらいまで発刊され、後半は姉妹誌として別冊を創刊し、「別冊・青春」も不定期に刊行されて、これもだいたい第10号くらいまで続きました。辰巳ヨシヒロ氏の出版社は第一プロとして出発しましたが、多分、1966年か67年頃に名前をヒロ書房に改名しています。60年代も後半に入ると貸本も終末期に入っていて、戦後貸本文化もそろそろ終焉を迎えて来ていました。

 貸本は、1970年にはもう、完全になくなってましたね。第一プロ発刊の「青春」も、30号台に入ると表紙カバーイラストに永島慎二氏を持って来たりしていました。僕は第一プロの青春漫画オムニバス誌、「青春」が大好きだったんですけど、何しろ、僕が多分11歳頃、近所の貸本屋さんが店終いして貸本誌を見ることが出来なくなっちゃったんで、「青春」はせいぜい20号台までしか読んだことがありません。青春もの短編漫画集誌、「青春」を僕が読んだ記憶、それはそれは古い昔の記憶では、「青春」では永島慎二氏の作品は読んだことがないですね。ひょっとしたら、永島慎二氏は「青春」の20号台後半から30号台のものでは、表紙イラストだけでなく作品も寄稿されていたのかも知れないですね。

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 永島慎二氏はメジャー雑誌界に移ってからは、週刊少年キングの「柔道一直線」や月刊少年画報の「挑戦者トリプルA」、月刊冒険王の「豹(ジャガー)マン」などが有名ですが、貸本時代の永島慎二氏といえば、代表作は「漫画家残酷物語」という青春もの連作シリーズです。「漫画家残酷物語」は後世に残るとまで言える、名作漫画シリーズ連作作品ですね。「漫画家残酷物語」を見ると、当時の、作者の永島慎二氏の漫画家生活は経済的に、相当に貧しかったものなんだろうな、と推測されますが、メジャー雑誌時代は「柔道一直線」や「挑戦者トリプルA」は、あの時代の超が幾つも付きそうな売れっ子原作者、梶原一騎氏の原作付き漫画だし、「豹(ジャガー)マン」は冒険王の巻頭カラーを飾っていて看板漫画の一つだったし、TVドラマ化された「柔道一直線」なんてもう、当時は爆発的人気だったし、60年代後半に入ってからの10年間の永島慎二氏は、かなりの売れっ子作家の部類として経済的には潤っていたのではないでしょうか。まあ、別に僕自身が、漫画家・永島慎二先生を直接知っていた訳でも何でもありませんから、私生活は全く解りませんけど。

 青春漫画の名作、「漫画家残酷物語」は実はヒロ書房刊の貸本短編誌、「青春」掲載ではなく、シリーズ連作が連載されていたのは貸本出版社・東京トップ社発行の短編集誌、「刑事」でした。“刑事”と書いて“デカ”と読ませる誌名でした。だいたい東京トップ社発行の貸本漫画本は、都会派アクションものや探偵ミステリものなどの劇画作品が多かったように思います。短編集誌「刑事(デカ)」も、おおよそ刑事ものや探偵ミステリやアクション、サスペンスものの短編劇画の収録が多かったんですが、不思議と全然場違いなシリアスな青春もの、「漫画家残酷物語」が長期に渡って連載されてました。連載といっても続きものでなく、毎号掲載の一編一編は独立したお話の短編で、貧しい青年漫画家を主人公にしたシリーズ連作ですね。貧しくも純粋にひたむきに生きる、あの時代の青春群像劇のシリーズかなあ。貸本文化の中の屈指の名作の一つですけど。

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 僕の小学校一、二年生時のクラスメイトにS君という子が居て、その子も割りと体格良く、子供ながら何か、がっしり感ある身体の子だったんだけど、僕はその子より身長が高く、やや肥満体形だったからか、そのS君は僕のコトを、「デカ」と呼んでいた。多分「デカい」の短縮系なんだろうが、S君のお父さんは職業が刑事だということで、僕の方からしてみれば、僕は6歳から毎日貸本屋に通って、その当時から貸本短編誌「刑事-デカ-」も借り読みしていたので、「何だ、おまえの方が“デカ”じゃないか」とか、口には出さないが頭の中で思ってた。僕の小学生時代、どうしてかクラスメイトに貸本借りて読んでる子って、あまり見なかった。多分居ることは居たんだろうけど、何故か、僕はあんまし見掛けなかったなあ。 「漫画家残酷物語」の中の一編で、主人公の、一向に売れない漫画家の卵の青年が、行き着けの喫茶店に行くと、同じく漫画の道を志す、若き漫画家志望の仲間たちが数人たむろして居て、タバコの煙もうもうさせてダベり合っているんだけど、そこに青年が入って行き、まあ、絡まれるようなシーンがあるんだけど、ここにデフォルメされた、さいとうたかをらしき人物も描かれていて、絡みの中で主人公の青年と考え方が対立するような場面がある。要するに、純文学的な漫画の道と商業主義的な考え方との対立ですね。さいとうたかをと、名指しで登場させてる訳ではありませんが、絵柄が明らかにさいとうたかをなんですね。でも、確か、永島慎二さんて後に、さいとうプロダクションに在籍していた期間があるんですよね。商業主義に陥らず純粋に文学的な、あるいはピュアな、良心的な漫画作品を産み出すことのみを追求する、貧しい漫画家志望青年の苦闘の生活を描きながら、永島慎二先生て意外と、初期から娯楽児童漫画として、けっこういろんなジャンルを描いてるんですよね。貸本漫画もやりつつ雑誌漫画もやってたし。無論、持って生まれた絵の才能も並外れたものでしたけど、元々、かなり器用な人ではあったんでしょうね。一時期は、ア二メーションで手塚プロにも居た期間があるらしいですし。

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 「漫画家残酷物語」の話はもういいですね。「漫画家残酷物語」は、貸本アンソロジー誌「青春」に掲載されていた訳ではないんですから。ただ短編誌「青春」の後期の何冊かの表紙イラストが、永島慎二氏の描画だということなんですから。ちなみに、67年頃のヒロ書房刊の「青春」、最末期発刊の「青春デラックス」の表紙絵も永島慎二氏のイラストですね。余談になりますが「漫画家残酷物語」のことをもう少し書くと、初出は東京トップ社発行の短編誌「刑事」の1961年から64年までだそうです。シリーズ連作が随分長く続いたものですが、当時の僕は小学校入る前から小学校低中学年ですから、貸本で「刑事」を借りて来ていて読んでたとしても、この当時はほとんど印象にないです。僕がきちんと「漫画家残酷物語」を全編通して読んだのは青年時、漫画文庫で復刻されたものです。確か全8巻くらいでしたが、もう、青年時の僕は、作品が面白くて、ぶっ続けて読んで完読しました。実に味わいある、深く心に突き刺さる漫画作品でした。後に、この作品をして永島慎二は、「漫画界の太宰治」と評されたくらいで、漫画名作の誉れ高く何度も単行本化されています。2010年には、貸本時のカラー部までも復刻した豪華版として、完全版全3巻で刊行されています。つげ義春的に、漫画に於ける文学性・芸術性、というような視点で昭和の時代に非常に注目された同作品ですが、また、貸本以降の雑誌時代にも同系の青春漫画で評価され、「青年漫画の教祖」と呼ばれていたという、永島慎二氏ですが、2005年、その才能を惜しまれつつ、67歳で他界されています。

 貸本短編誌「青春」に掲載された訳でもないのに、「漫画家残酷物語」のことばかりを書き込んでしまいました。まあ、作者の故・永島慎二氏が「青春」の表紙を何度か描いているから、漫画作家としては、まんざら関係ない訳でもないし、まあ、いいか。さて、肝心の「青春」に戻らなきゃいけません。辰巳ヨシヒロ氏が興した貸本出版社、第一プロ後のヒロ書房発刊の青春漫画オムニバス誌、「青春」には、当の発行人社長である辰巳ヨシヒロ先生も、青春もの学園もの短編を何作も寄稿してましたが、アンソロジー誌「青春」の僕のお気に入りが、前期がみやわき心太郎氏の漫画なら、「青春」中期に僕が好きだった漫画は、下元克己氏と田代タケル氏の作品です。両氏の漫画は、どちらも当時、僕は大好きで堪能していました。

※この、タイトル「青春」..(2)は、「青春」..(3)へと続きます。 「Kenの漫画読み日記。」・・「青春」..(3)へ続く。

◆(2012-01/05)漫画・・ 「青春」..(1)
◆(2012-03/08)漫画・・ 「青春」..(2)
◆(2012-04/25)漫画・・ 「青春」..(3)

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