60~90年代名作漫画(昭和漫画主体・ごくタマに新しい漫画)の紹介と感想。懐古・郷愁。自史。映画・小説・ポピュラー音楽。
Kenの漫画読み日記。
●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(7)
7.
昼休み、吉川愛子は給食を半分以上残し、教室を出た。多分、クラスの中では一番最初に教室から出た筈だ。階段を降り、校舎出口の靴箱前を素通りして渡り廊下から外へ出た。普段は給食を食べ終わった昼休みは、教室に残って仲良しの友達二、三人と駄弁るか、バスケット部の部室に行って部活仲間と時間を潰す。しかし、今日はそんな気持ちにはならなかった。とにかく今日は独りになりたかった。
気分が重い。校舎の裏手の、用務員寝泊まり用の小さな家屋と、二棟の倉庫やゴミ置き場や焼却炉があって、日中は滅多には誰も人の来ない場所に行くことにした。L字形に立てられた本館校舎があり、その一辺を形作る棟の、裏手にまた一棟、本館に比べてやや小ぶりな二階建ての、特別教室用の校舎が立つ。ここは、社会科系や理科系の特別教室ばかりが幾つも入っている。この棟には、昼休み時間に人が来ることはほとんどなく、放課後もたまに居るのは専門教科の教師くらいである。その棟の裏手にまた、普段はあまり使われてない用具倉庫や物置倉庫、ゴミ置き場の小屋と、少し離れて焼却炉が並ぶ。ここには放課後、用務員のおじさんがゴミ処分に来るぐらいの他は、昼休みや放課後に人が来ることはほとんどない。
この特別教室棟の裏手の倉庫等が立つ周囲路面は、一部だけしか舗装がされておらず、用務員用家屋、二棟の倉庫からゴミ置き場小屋、焼却炉あたりまでの周辺はおおよそ、泥道に砂利を敷いただけの半砂利道であり、雨降りの日はところどころ水溜まりやぬかるみが出来た。ゴミ置き場小屋と焼却炉の間に無造作に、古い大型のU字溝が二つ伏せて置いてあり、愛子はその一つに腰掛けた。
離れたフェンスの上に視線を向けて、青空に浮かぶ雲をぼんやりと見つめた。フェンスの向こう側は、草が生い茂る崖面になっている。愛子の通う市立中学校は市の外れの高台にあり、フェンスに近付けば、市のかなりの地域がパノラマに見下ろせる。ここから三、四キロ離れた場所には、弟・和也の通う小学校の校舎とグランドが、すぐそこにあるように見下ろせた。また、そのはるか向こうに見えている、二つ三つこんもりと盛り上がる緑の小山は、市の総合運動公園の森林だ。その小山の下に広がる、公園のスポーツ用グランド面や駐車場までが見届けられた。小学校から西側に視線を回せば、その先に市街地も見渡せた。
愛子は、ただぼんやりと雲を見つめ続けていた。視線を下げて何を見るという訳でもなく、フェンス下部バーの、雑草が繁るあたりに目をやった。はあっ、とため息を一つ吐く。表情はすぐれなくて重い雰囲気で居る。冴えない顔でフェンスの向こうを見やる。深刻な表情になり、膝に衝いた両手に顔を乗せる。愛子は、昨夜の、自分の家庭でのことごとを、繰り返し思い返しては、泥水の中に居るような重たい気分になっていた。
昨日の夕方、愛子は、家に居ない弟・和也を探しに出た。愛子が学校の部活を終え、夕方帰宅すると、少なくともその二時間前には帰宅している筈の弟が、家の中の何処にも居ない。今日は弟の少年野球の練習のない日だ。弟が慕っている隣家の長男、本田義行は肋骨の骨を二本折って、まだ市民病院に入院中だ。和也が隣家に遊びに行っていることはない。弟の学校の友達の家に寄っているのだろうか。いや、それでもこの時間には、もう帰って来てる筈だ。
愛子は、玄関から外に出て見た。母屋の隣の、車庫スペースに行ってみる。いつも置いてある、父親・和臣が和也の7歳の誕生祝いに買ってあげた、小さい自転車がない。愛子は確信した。弟は性懲りもなく、またしても多分、市民公園に行ったのだ。二週間近く前、あれだけ危険な怖い目に合い警察沙汰にまでなって、母親・智美から嫌というほど怒られたのに。あたしもネチネチとしつこく、我ながら厳しく文句を言い続けてやった。と、愛子は思い返した。それなのに、それなのにあの馬鹿な弟は、もう一度犬に会いたい、とかふざけたことを考えて、またも、この夕方に、もうすぐ陽が暮れるというのに、あの寂しい、夜になれば人けのない市民公園の中の、不気味な夜の山道目指して、懲りもせずに行ったのだ。そうに違いない。愛子は心中、馬鹿な弟に爆発的な怒りを覚えた。
もうすぐ母親もパート仕事から帰って来る筈だ。だが愛子は、自分の携帯で母・智美の携帯に電話を入れた。すぐに電話に智美が出たが、寄るところがあり少し遅くなるという。愛子は母親を心配させたくなかったが、良い言い訳が見つからず、結局、本当のことを話すことにして、多分、和也はまた公園の山道に行った筈だ、と確信のある自分の推測も話した。今から自分が、和也を探しに市民公園へ自転車で行って来る旨話すと、やはり、母・智美は心配しながら、愛子に充分注意するようにと念を押して、逐一自分の携帯に連絡を入れるように言って来た。愛子が大丈夫だと言ったが、智美は用事が終わり次第、自分も車で公園へ向かうと言って、電話を切った。
愛子は、ダイニングのサイドボードの端に紐で掛けてある懐中電灯を取ると、帰って来た時と同じセーラー服の格好のまま家を出て、玄関脇に停めてある自転車に跨がり公園へと急いだ。公園に着いた時にはもうすっかり陽が暮れてしまっていた。野球練習用グランドの手前通路、野球用具庫の前には、案の定、和也の子供用の自転車が停めてあった。弟は性懲りもなく、暗くなってまたここに来たのだ。もう十日以上前になるが、あんな危険な怖い目に合っておいてもまた。母親にさんざん叱られながらも。愛子は弟に対する怒りでいっぱいになった。
愛子は、乗って来た自転車を和也の自転車の隣に停めて、懐中電灯を用意し、スウィッチを入れてグランド内へと入って行った。グランドを横断するつもりで奥へ進むと、グランド奥両サイドの外灯の灯りの、調度真ん中付近にぼんやりと小さな灯りが見えた。「和也だろうか?」 多分和也に違いないとは思いながらも、もし他の人間だったらどうしよう? と緊張感を抱きながら無意識に身構えて、ゆっくりと灯りに近付いて行った。
ピッチャーマウンド近くで見えた小さな灯りは、セカンドベースを越えたあたりで、向こう側の灯りもこちらへとゆっくりと近付いて来ているので、相手も懐中電灯を構えているのだとはっきり解った。だがもう辺りはすっかり暗いため、灯りの後ろの姿までははっきり見えない。しかし、小さな灯りの位置が低かったので相手は子供、間違いなく和也だと思った。
セカンドベースの向こう、さらに二人は近付き、お互いを確認し合った。愛子が叫んだ。「何やってるのよ、もう、あんたは!」 大声で怒鳴られた和也は、懐中電灯のライトを下に向けて愛子の前で立ち止まった。下を向いたまま固まっている。最初、愛子は感情に任せて怒りを爆発させ、怒鳴り散らしてやろうと思っていたが、愛子の前で下を向いたまま棒立ちになって黙っている弟を見て方針を変えた。弟の無事を見た安心もあった。どうせ家に帰れば、母・智美から嫌というほど叱られ続けるのだ。愛子は和也の肩に手を回した。「早く帰るわよ」 二人は自転車の停めてある、ホーム・バックネット方向へ並んで歩き始めた。
愛子は歩いて来たとおりに和也と共にグランド砂地をザッザッと踏みしめながら、片手でハンドライトを前に向けながら、器用に片手で携帯電話を出して、母・智美を呼び出した。智美は自宅前で、家の軽乗用車の運転席に乗ったままだった。母からは、充分注意して和也を連れて帰るように、また何かあったらすぐに電話をして来るように、と言われた。愛子は家に帰れば、母・智美が和也にこんこんと説教して聞かせるだろうと思い、愛子からは敢えてうるさくは言わず黙って、二台並んで自転車をこぎ、和也を家に連れ帰った。
帰宅してからは、家に入ると母は和也を爆発的に怒鳴ったりすることはせず、先ず、用意出来ている夕食を三人で摂ることにした。夕食は、出来合いの惣菜や簡単に作れるものが並んでいた。三人は黙々と食べ、食事が終わると智美は、和也をリビングのソファーに座らせた。愛子は、母・智美の和也への説教には付き合わず、宿題があるからと二階の自分の部屋へ入った。愛子は、学校の中間考査試験が近付いて来ているので、宿題を終えた後も科目の復習勉強を続けていた。和也が二階へ上がって来た気配はない。あれから二時間近く経っている。母・智美の説教が終わり、和也は風呂へでも入ったのだろうか。愛子もそろそろ入浴しようかと、教科書や参考書などを閉じ、机を立って部屋のドアを開けた。
突然、智美の怒鳴り声が聞こえた。愛子は部屋から出ずにドアを半開きにして、階下の様子を窺った。智美の甲高い怒鳴り声が続く。金切り声のような大声だ。和也を叱る時でも、こんな声を出すのは聞いたことがない。間にぼそぼそと、大人の男の声が聞こえて来る。父・和臣の、言い訳しているような話し声だ。父は帰って来ているのだ。母の大きな声で責める口調に対して、父はたじたじになって困り果てたように、何か弁解を続けている。父の 「疲れているから今日は早く寝たいんだ」 とかいうセリフが聞こえて来た。母・智美の激しい批難に、父はほとほと弱りきっているようだ。そしてまた、うるさそうにして何か言い訳が続く。和也が風呂から上がって来たらしい。小三の和也は、最近は一人で入浴し、時折、母が見に行っている。まだ小二だったつい二、三ヶ月前までは和也は、父と一緒に入浴することが多かったのだが、最近は父の帰宅時間が遅過ぎるために、和也の入浴は一人立ちしたのだ。
和也が二階へ上がって来た。隣の自分の部屋へ入ろうとしたので、ドアの隙間から小声で呼び止め、愛子の部屋へと引っ張り込んでドアを閉めた。和也がぽかんとして、愛子を見つめる。 「ねえねえ、和也。お父さんとお母さん、どうして喧嘩してるの?」 愛子が、息急ききるように訊いた。和也はしばし考えるような様子だったが、ぼそぼそと話し始めた。
「うん‥。僕が一人でまた、市民公園の森の中に行ったことを、お父さんからもきつく叱って言い聞かせるようにって、お母さんがお父さんに頼んだんだ。そうしたらお父さんが、お母さんが一度叱ってるんだからもういいじゃないか、って言って。それで、お母さんが機嫌が悪くなったから、お父さんが 『わかった、わかった』 って言って僕をソファーに座らせて、叱り始めたんだけど何て言うのかな、優しくって 『駄目だぞ』 って言うくらいですぐに終わって、それで‥」 和也は、そこまで一気に喋ると息をついた。
「ん。それで、和也‥」 姉・愛子が話の続きを促す。 「お父さんの説教がすぐに終わると、お母さんがすごい見幕で怒りだしたんだ。 『だいたいあなたは、子供のことを考えているのか。いつもいつも仕事仕事って言って、毎日帰りは遅く、休みの日も用事だと言って、出掛けて家に居ないし、子供のことも家庭のことは全部、私に任せっきりで何にもしないし、少しも考えていない』 って。そう言って、怒鳴り始めたんだ。で、お母さんは僕に二階へ行ってなさいって。まだ喧嘩続けてるよ‥」 じっと姉の顔を見ながら、少々たどたどしくも状況をきちんと説明して聞かせた和也の話に、愛子は、視線を外して見るともなく、部屋の天井の一隅に目をやってしばし、黙って考えた。
とすると、また視線を和也に戻し、和也の肩を片手で掴み、顔を覗き込むようにして、また訊いた。 「ねえ、お母さんが怒ってたのって、それだけだったの? あんたのこととか家のことをお父さんが、放ったらかしにしてるってことだけを怒ってたの? 他に何かお母さん、お父さんのことを責め立ててなかった?」 鋭い視線を向けて真剣な表情で訊いて来る愛子に、和也は緊張し慄きを感じた。ちょっと怖いくらいだった。それを覚った愛子は思わず、「あ、ごめん」 と謝って、態度を和らげて見せた。和也が尋ねる。 「他のことって?」 愛子はしばし迷って、戸惑いを見せた。和也は、姉の顔をじっと見つめたまま、返答を待った。愛子の頭にあったのは、父・和臣の浮気の疑惑であったのだが、そんな話を、小三の幼い弟にしていいものかどうか迷ったのだ。結局、愛子は、父・和臣が他所に、母とは別の好きな女を作っているのではないか、という疑いの推測を、和也に話して聞かせるのは止すことにした。愛子は、母と父の言い争いの中で、夫の浮気の疑いの話の片鱗が出たのではないか、と思ったのだ。和也に訊いてみたかったが、幼い弟に余計な心配はさせまいと、それ以上は話を聞くのは止めにした。
「うん‥。いや、もういいよ、和也。悪かったね。部屋に行っていいよ。あたしもお風呂入りに下に降りるから」 その後も暫く、母と父の言い争いは続いた。言い争いというよりも、智美の一方的批難の責める言葉に、和臣は 「わかった、わかった」 と、怒り爆発の妻を宥めて、逃げ腰で言い訳をひたすら続けるだけである。最終的に、智美が泣き始め、和臣は風呂にも入らず寝室へ入ってしまった。愛子も、智美に味方してというより、娘として、最近は全く家庭を顧みない父親に、いろいろと意見を、というか文句を言ってやろうと思ったが、父は夕食も摂らずにすぐに寝室に向かったし、泣いた母親もすぐに立ち直りを見せて、子供にだけは涙を見せまいとしてか、忙しく家事に動き始め、食事の後片付けからせかせかと勤しんだ。愛子も、父親への意見を言うタイミングを外し、今回は黙っておくことにした。この先、父親の態度が改まらぬようであればその時は、娘としての意見を、文句を父親に対してぶちまけてやろうと、今回の母親の怒りの批難の効果に期待しておくことにした。
和臣と智美の夫婦仲は、昨年の暮れあたりからぎくしゃくし始め、今年に入ってからは寝室を別にしてしまった。母・智美が、娘の手前、何でもなかったように家事に勤しむ姿を横目にしながら、愛子は浴室へと向かった。
愛子は、ぼんやりと宙空を見つめ、視線は見るともなしに金網の向こうの市街地パノラマの風景に置きながら、悩ましげに暗い表情で、以前の父母はあんなに仲の良い夫婦だったのにと、昔の家庭の様子を思い返し、昨夜の二人の、怒鳴ったり泣いたりする母、相手にするのを面倒くさそうにして、その場から逃げようとする父の夫婦仲を、以前と比べて思い、重苦しい気持ちでまた一つ、大きな溜め息をついた。視線を上げて、ゆっくりと流れ行く、大きな雲に目をやる。
伏せた大きなU字溝に腰掛けた愛子が、背を曲げ、膝に乗せた両腕で、掌に顎を乗せ憂鬱な気分でぼんやりしていると、ザワザワと人の話し声が聞こえて来た。男子生徒たちの笑い声が近付いて来る。咄嗟に愛子は立って、ゴミ置き小屋の影に隠れた。本館校舎の方から何人かの男の子たちが現れた。一目見てガラが悪そうだ。愛子の同学年、二年生の他クラスの生徒たちで、ちょっとした不良グループを作っている連中だ。
一人だけ、色合いの違う子が居る。集団の先頭でやけに気弱そうに、ふらふらした足取りで、後ろの不良から背中を押され押され歩いている。愛子は、ゴミ置き小屋の影から見つからないように様子を窺った。こちらに気付く気配は全くない。全部で七、八人。大半は二年二組の男子生徒だが、他のクラスの子も居るようだ。二列目に居る、痩せて背の高い、長髪にして恰好を着けたイケメンふう、あいつがこの悪しきグループの親分格だ。家が資産家の坊っちゃんだが、性格が悪く小学校からの苛めっ子なのだ。本当は、小学校を卒業して近隣の市街地にある私立の進学中学校に入ったのだが、中で何かやらかしたらしく、放校処分になり、舞い戻って来て、市の公立中学に一年の三学期時に編入して来たのだ。そしてあっという間に、自分を頂点とする不良グループを作ってしまった。愛子はその、同級生の出来損ないボンボン、西崎慎吾をダニみたいな奴だと思った。
背中を、突っ張りでも入れるようにトーントーンて押されて、無理やり前進させられてる子は、同じく二組のいつも苛められている子だ。確か、後能君とかいった。新学期の始め、西崎に苛めにあったことを担任の先生に話し、それからは不良グループの彼に対する苛めがエスカレートして、毎日が西崎らの苛めの餌食となってしまった。
一団は、用務員の寝泊りしている家屋と用具倉庫との間に入って行った。日中、用務員が家に戻ることはほとんどない。倉庫裏は学校内の死角場所だ。一日中ほぼ、誰も来ないだろう。それに、高台の端の崖上フェンス内の位置で、学校外からはヘリにでも乗らない限り見られることはない。日中は完璧な死角なのだ。誰にも見つからない見えない場所で、また陰惨な苛めが行われるのだろう。
愛子がゴミ置き小屋から顔半分を出して、苛め現場を覗こうかと考えたが、もし西崎らに見つかったら、今度は自分が、不良グループの陰惨な苛めの餌食となるだろう。自分は中二の女子であり、西崎らは思春期を迎えた男子生徒だ。何をされるか解ったもんじゃない。しかし、この場から立ち去ろうにも今、逃げ出そうとここで動くのは却って存在に気付かれ見つかる惧れがある。苛めの餌食にされている二組の男子、後能君には悪いが、愛子は一刻も早くこの場から離れたかった。そして、本当に後能君は気の毒だし悪いのだけれど、この場を離れた後、誰か先生に通報する気持ちもなかった。現に今の後能君が、西崎の自身に対する暴力を通報したばかりに、それから毎日毎日休みなく、陰惨な苛めというリンチの憂き目が続いているのだ。通報した先生が、何処まで庇ってくれるか解らない。西崎の家は、このあたりの地域でいくつも会社を経営する大金持ちで、役所や学校などにも顔が利く、この地方のちょっとした有力者だ。愛子は、普通に正義感も同情心などの優しさも持つ素直な良い子だったが、賢く計算的な面もあった。中学生なりのモラルを持ち、この場合は苛め行為を止めに入るか、それが敵わなければ誰か教諭を呼びに行くべきだと、よくは解っていたが、何せ相手が悪過ぎる。やはり、西崎とそのグループは恐い。愛子は自分の身が可愛く、今回は見て見ぬふりをすることに決めた。
高台にある中学校の敷地、最裏側の切り立った崖の上に張られた、高いフェンス塀。そのフェンスと、用務員宿舎と並ぶ用具倉庫の裏側との間、幅二メートル少しの狭いところに、不良グループ7人くらいと、二組の後能君が居る。愛子は見つからないように、ゴミ置き小屋の角と雨樋の隙間から、そっと覗いてみた。真ん中に後能君を正座させて、不良グループが立ち、取り囲んでいる。愛子は、不良グループ全員が苛め行為に夢中になっている間に、逆方向へと逃げようと考えていた。後ろをふり返り、逃げ道を確認する。特別教室棟の建物、反対側端まで行くのだ。途中までそろそろと逃げ足で、後はダッシュで建物の向こうへ回ろう。きっとうまく行く。
不良たちは、取り囲んだ生け贄の獲物、後能君を、頭をはたいたり蹴ったりして面白がり、苛めに興じている。今だ! そう思って後ろを向き、何気なく視線を上に向けた。 「あっ!」 愛子は思わず、小さく叫んだ。何と、二階建て特別教室棟の屋根に、犬が居るではないか。それも二匹だ。愛子が、いつの間に‥、と思う間にも、ポンッと地面に着地した。どちらも音もなく、実に軽やかに降り立った。愛子は、また声を上げそうになって堪えた。愛子のところから5、6メートル程の位置に立つ、二匹の犬の大きさは違うが、片方の白い大型犬はいつかの日、愛子と和也が市民公園からの帰り道、通り魔に襲われたときに助けてくれた、あの時のあの犬だ。間違いない。こんなところで会えるなんて! 愛子は感嘆し、すぐにでも和也に教えてやりたい気持ちだった。手前に居る、もう一匹のやや小型の茶色い犬は何だろう、あれがいつか和也が話していた、もう一匹の不思議な犬なのだろう。
小さな方の茶色の犬がこっちを向いた。愛子は犬と目が合って、何だかどぎまぎした。愛子の目を見る犬の目は、実に穏やかで、まるで物わかりの良い人間のようだった。愛子は悟った。この目は、人間のように知性のある目だ。愛子は確信した。この犬は人間のように知性があるに違いない。犬は愛子から視線を外した。もう一匹の白い大きな犬はこっちを見ていない。二匹の犬は目配せをした。愛子には解った。この犬たちは、まるで共同作業の二人の人間がするように、お互いを察し合っているのだ。同時に二匹の犬は首を上げ、上を向いた。驚嘆で身体が硬直して、愛子は動けなかった。愛子の目の前で、二匹の犬は、まるで風に乗るように、重さが感じられなくフワリと浮いた。かと思うと、二匹とも同時に用具倉庫の屋根の上に着地した。愛子は口をあんぐりと開けたまま、両の目もいっぱいに見開き、4メートルくらいの高さの屋根に立つ、二匹の犬をじっと見上げていた。
※「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ(8)に続く。
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◆(2012-04/25)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(8)
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◆(2012-06/16)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(10)
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