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●漫画・・ 「猫又・ねずみ町三番地・群衆の中に」

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 NHKの朝ドラ2010年度上半期放送で、大ヒットした連続ドラマ「ゲゲゲの女房」効果で、水木しげる先生が貸本出身である、ということをご存知の方は多いと思います。また、大雑把に、戦後の貸本文化のことも。漫画の神様・手塚治虫が創出した戦後ストーリー漫画界で、昭和の巨匠は数多く居ますが、水木しげる先生も勿論、その十傑に数えられる偉大なる漫画家の一人です。戦後昭和の漫画メジャー界、手塚治虫を代表格とする児童雑誌漫画シーンの、その裏街道に貸本文化がありました。世の中は高度経済成長へと足を掛けて進み始めてましたけど、まだまだ社会そのものは、総体的には貧しかった。戦後の貸本文化は、漫画週刊誌が登場して台頭し、漫画本が読み捨てされる、娯楽としての消耗品になるまでの、十五年間くらいの間あった、貧しい時代の娯楽システムです。貸本文化が隆盛を誇ったのは十年間も満たないのかも知れない。貸本界という貧しいメディアの内部で、クリエーターたる貸本漫画家たちは、メチャメチャ安い原稿料で漫画を描き、何とか食べて暮らしていました。メジャーたる少年雑誌の世界で継続して描いている、「売れっ子」やそれに准ずる漫画家たちは、それなりの原稿料を貰って普通に生活できていたでしょうけど。「ゲゲゲの女房」のドラマや映画を見れば解るように、水木しげる先生は貸本界でも人気漫画家でしたけど、貸本をいくら描いても安過ぎる原稿料では貧乏生活を強いられていました。

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 ここに挙げた三作品は、水木しげる先生が講談社の週刊・別冊少年マガジンに作品を発表し始めるまでの、貸本時代の貧乏と苦闘していた時代の貸本誌掲載作品です。「猫又」と「ねずみ町三番地」は1961年、「群衆の中に」は1964年に、いづれも貸本の短編集誌に初出掲載された作品です。詳しく書くと、「猫又」は初出が貸本短編詩「別冊ハイスピード」掲載、後に同じストーリで少々絵柄を変えて、少年画報社の週刊少年キング1966年3月13日号に掲載。「ねずみ町三番地」は貸本誌「マスク」所収、「群衆の中に」は貸本誌「劇画ナンバーワン」収録。水木しげる先生の貸本時代の作品は、貸本の「墓場鬼太郎」シリーズが、雑誌連載の「墓場の鬼太郎」や「ゲゲゲの鬼太郎」になってからのストーリーでもそうですけど、だいたい貸本時代の作品の焼き直しというか、同じストーリーで雑誌掲載で描き直した作品が多い。長編、中篇、短編、ほとんどの貸本時代の作品を後に、雑誌で描き直しています。おおよその本筋ストーリーは同じですが、雑誌短編用に微妙にアレンジしてますね。けっこう大胆にアレンジしたものもあるようですけど。貸本時代の当時の雑な背景の絵柄に比べると、雑誌に移ってからの作画の、絵柄はぐんと精緻に描き込んでます。水木しげる作品の、あの独特の点描は雑誌に移ってからですね。60年代後半、雑誌に移ってからの水木作品の背景描写の精密さといったらありませんものね。よくあんな、気の遠くなるような細密な背景描写を、細いペン先で細かに描き込むものだ、と感嘆します。 

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 さて、今回挙げる、水木しげる作品の貸本時代の三作品ですが、先ず、「猫又」の方のお話は、貧乏暮らしの青年のオンボロアパートに資産家の息子らしき友人が迎えに来て、一緒に泊まり掛けで行楽に行こうと誘い、無人島への探検の旅に連れて行く。無人島には戦争中の軍の要塞の残骸があり、鉄くずなどに巨額の資産価値があるという。地元漁師の、危険だから止めた方が良いという忠告も聞かず、ひと波来ればひっくり返りそうなタライ船を漕いで無人島へ渡る二人。無事、無人島へ着いたが、確かに軍の要塞の残骸はあったが、島には、痩せこけた一匹の汚い猫しかいなかった。金持ちの友人は無情にも猫を岩で潰して殺してしまう。猫の死骸を見ると、尾が二つに割れていた。その後、嵐が来て、悪天候が続き、海は大荒れで何日も帰れなくなってしまう。猫を殺した友人は猫に憑依されたのか、だんだん身体が弱り、身体のあちこちから猫の首が生えて来る。切っても切っても生える猫の首は、やがて身体の胸の辺りから生えた首が成長して、猫の身体も出来てきて、友人は完全に猫に乗っ取られる。友人の身体を乗っ取った猫又は、主人公の青年に襲い掛かってきた。命からがら逃げる青年は、タライ船で何とか陸地に逃げ延びた‥。というお話です。

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 「ねずみ町三番地」という作品のストーリーは、当てもなく散歩することが大好きな僕=中学生から高校生くらいの少年の『僕』が、野山を歩き、村人の忠告も聞かず深山へと入って行く。山岳を登り崖に落ちて、人外境みたいなところへ出て、朽ちた無人の村へ辿り着く。さらに先へと行くと、数多くのミイラ化や白骨化した人の残骸。果てしない陸の孤島の人外境で飢餓に襲われる。そして人間大の大ネズミを見掛ける。後を追うと、崖に掘った無数の穴にたくさんの大ネズミたちが居た。大ネズミのアパート。その内、大ネズミに成り掛けている半ネズミ人間に出会う。二度と人間社会へと戻ることの出来ない僕は、生き抜くためにネズミ同様の暮らしをして、時が経つに連れ、だんだんと身体がネズミ化して行き、ついには大ネズミとして人外境で生きる‥。

 「群衆の中に」という作品は、売れない漫画家どおしの、平凡な二人の男の話で、漫画家の友人にはそれは美人でグラマーな奥さんが居るけど、その友達が言うに「女房はどーも人間ではないらしい」というコトだった。ある日、二人は金もないのに居酒屋でしこたま飲んで、飲み逃げをして店主ら屈強な連中に追い掛けられて逃げ惑い、とうとう下水道へと逃げ込む。下水道の中を進むと案外と広くなり、脇の穴から通路を入って行くと、およそ人間とは思えない一族が集会を開いている。実は、漫画家の友達の美人の女房は、この一族の仲間の一人だった。水木しげる漫画のスタンダードな登場人物、『ねずみ男』みたいな頭巾装束をまとった連中を中心に、魑魅魍魎か妖怪みたいな連中がワンサカと居て、二人は、この下水道の先の異世界から逃げることができず、友達は死刑宣告されて魍魎どもに食べられてしまう。命からがら逃げ延びた主人公の漫画家の青年は、時が経ち、この話を喫茶店で編集者に話していると、背中越しの席に、下水道奥で食べられた友達の妻が居た。漫画家の青年は、異世界からこの社会に普通の人間の格好で潜り込んでいる、何人もの者たちに見張られていた。やがて青年は殺された友達の妻だった妖怪の女に結婚を迫られ、逃げることは叶わず、一緒に暮らして行くことになり、この先の人生を恐怖と絶望の中で、暗澹とシミジミと送って行くこととなる‥。というお話ですね。

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 水木しげる先生の作品て、この人間社会とは別の異世界が出て来るのが、僕には素晴らしく素敵に思える。人間が暮らす社会の直ぐ隣に、人間たちには解らず知れず、ひっそりと別の世界がある。それは、およそ普通の人間とは異なる、別種の、知性を持った生き物(?)たちの “社会” であるコトもある。例えば、ごくスタンダードに「霊界」だったり、実は “猫” たちにも人間並みの知能があり、文明を理解し知的な考えを持ち、人間たちを観察し馬鹿にして、猫どおし人間並みに会話している、という、人間が知らないだけの直ぐ隣の世界。そして、妖怪とか魑魅魍魎とか、ねずみ人間などの異形が、例えば下水道の中などに社会を作り、集会していたりする。こういう、水木しげるの描く、人間が預かり知らぬ隣の異世界、というのが僕は大好きなんだよね。実は人間様には見えず解らないだけで、直ぐ隣に「霊界」も「魔界」も「妖怪の世界」も、他の動物たちだけの “社会” も存在しているんだ、という世界観。人間は、自分たちを “万物の霊長” とか言って、この地球を支配していると豪語し威張っていて、好き放題やっているけど、知らぬは人間様ばかり、という設定。これが僕は大好きなんです。例え、怪奇でも一見絶望的でも、怖くても、これはファンタジーであり、「ああ~、良いなァ」と思ってしまう。ただ物理的に常識的に普通に、ちゃんと理由があり何でもなく進んで動いて行く、この人間社会の殺伐とした風景。少なくとも僕は、水木しげる先生が描くような世界が、それは例え世にも恐ろしい世界だとしても、何処かに存在していて欲しい。僕自身はそう願う。幽霊も妖怪も神様・仏様も悪魔も魑魅魍魎怪物も怪獣も宇宙人もヒーローも妖精も居て欲しいし、霊界も魔界も地獄も極楽も天国も地球外文明世界も地底世界も異世界もあって欲しい。そういうものが全て実は人間の想像力のファンタジーでしかない、というのは、この世界が単に物理的に動くだけでしかない、というのは、砂を噛むようであまりにも味気なく、寂しい。

 ちなみに “猫又” とは、普通の猫が長生きした後に、尻尾が二つに割れ、妖怪化して『猫又』になる、という古くからの言い伝えですね。この妖怪の獣、“猫又” の伝説は遡れば、鎌倉時代頃からあったんだそうです。人里離れた山間部に棲息する、怪物的野獣の『猫又』説と、妖怪的な化け猫の『猫又』説。僕としては、本当に、怪獣の“猫又”も、化け猫の“猫又”も存在して欲しいですけどね。

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