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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(6)

6.

 総合病院窓口の受付カウンターに、保険証を出すと、係りの若い女性から掌大の用紙を手渡され、それに、氏名年齢や住所と、具合の症状と、希望診療科を書き込むように言われた。カウンターに用意されている鉛筆で、簡単に書き込んで用紙を渡すと、保険証を返され、廊下の奥の内科に行くように言われた。内科の受付に、窓口で貰った用紙を渡すと、係りの事務の女性が今度は、雑誌の表紙大の用紙を挟んだバインダーを、手渡して来た。今度の用紙は書き込む欄がいっぱいあり、事務の女性は、裏面にも記入欄があることと、具合の症状や病歴や体質などは、出来るだけ詳しく書き込んでください、と丁寧に注意された。

 バインダーを持って待ち合いの長椅子まで退がり、堅いソファに腰掛けると、城山まるみはバインダーに糸で括り付けられた鉛筆で、用紙の一番上の記名欄から埋め始めた。今朝は病気で仕事を休んだ。昨日の夕方から熱っぽい。昨夜、市販の風邪薬を飲んで寝たが、今朝起きて検温すると、熱がある。昨晩、職場の方へ電話したが、もう上司は退社した後で、宿直者しか居らず、今朝、常勤者の始業時間に合わせて、風邪を惹いたようで熱があるから、病院へ行きたいので一日休みたい旨、勤務先に電話した。

 電話に出た上司は、執拗にうるさく、苦言というよりも文句を言っていた。日頃の、自分の身体や健康の自己管理が悪いとか、最近の勤務態度が悪いなど、しばらくガミガミと、まるで罵るように電話口で言われた。結局、休んでいいという許諾の返事ではなく、何事か怒鳴られ、いきなり電話を切られた。この上司は、部下に対して感情的になりやすいタイプで、部下に苦言を言っている時は、よく気持ちが高じて来てしまい、ヒステリックに怒鳴り出すことが多い。これは、部下が男性でも女性でも同じだった。血気盛んな若者は、この感情的に怒る上司と衝突して、退職してしまう者も多かった。また、この上司は日頃から、目下に対して高圧的で、女子職員の一人などは、「あれはもう、パワハラよーっ!」 と、みんなの前で叫ぶようなことも、一度ならずあった。

 これまでは、城山まるみ自身は、性格的には穏やかで素直な方で、集団の中では波風を立てず、上役や先輩には逆らわず、言われたことはきちんとやり上げるキャラクターなので、この上司から睨まれることもなかった。ところが、同じ職場の同僚で、職域は違えど同世代の男性で良き相談相手であり、そして何よりも恋人だった藤村敏数が転職し、お互いにデートの機会が少なくなり、それでも付き合い続けていたものの、藤村敏数が転職先の職場で友達になった、中村達男とかいう職場仲間と毎晩、夜遊びを続けるようになって、だんだんと敏数の気持ちが、まるみから離れて行った。

 決定的だったのは転職して一年くらい経った頃、敏数に、合コンで知り合った新しい恋人が出来たことだ。有馬悦子という名で、まるみよりも四、五歳年下の女の娘だ。敏数は、有馬悦子と付き合うようになってからは、露骨にまるみを避けるようになった。それまでは、まるみが部屋に上がって、料理を作ったり映画DVDを見たり一緒に過ごし、時には泊まって翌朝、一緒に出勤していた敏数のアパートの部屋も、有馬悦子が度々泊まるようになり、まるみの敏数への電話にも、あまり出ないようになってしまった。最近はいつも、留守電に回される。稀に敏数が電話に出ることがあっても、まるみがアパートに来ることは絶対拒否するし、会ってもくれない。まるみからのメールは、全部無視だ。

 それでもまるみは、敏数が好きだった。一時はお互い、結婚まで考えていたのだ。敏数が、今の職場から去って行ってから、何かがジワジワと狂って行ったように、壊れて行ったように思う。それでも敏数が、“ワカト健康機器産業” という新しい職場に行って半年くらいは、まだデートもしてたし付き合いも続いていた。しかし、新しい職場で先輩になる、同世代の同僚社員、中村達男と知り合ってからは、中村から頻繁に風俗や夜の遊びに誘われまくり、最初の頃は断っていたらしいが、その内、風俗などの夜遊びに嵌まり、敏数は中村に誘われるまま、毎晩のように夜の歓楽街を遊び歩くようになった。それと平行して、敏数の気持ちは、まるみから離れて行った。

 まるみは一時は、結婚まで考えていた敏数との関係が、壊れて行くことに焦り、懊悩した。考え悩んで眠れない日々も、度重なるように続いた。この頃から、まるみの職場での態度も、暗く重たいものになった。職場内の周囲から見ても、陰気な雰囲気で会話をしなくなり、まるで、自分の殻に閉じ籠もったような様子で居ることが常になってしまった。しかし、頭の中ではいつもいつも、藤村敏数のことを考えて悩み続けていた。母親や、親戚の叔母の勧めで、見合いなどもしてみたがやはり、敏数のことが忘れられず、まるみの方から断っていた。

 日頃から細かいことにうるさく、部下に小言を言うのが常な上司は、寡黙になり笑顔がなくなってしまい、いつも暗い雰囲気で居る、まるみの態度に腹を立て、まるみに対して睨みを利かせ、何かとうるさく小言を繰り返していた。まるみもだんだん、日々の仕事に対する意欲を失い、毎日ただただ、現在の職場を退職することを考えるようになった。もともと、仕事面では器用ではないが、コツコツと真面目にこなして行くタイプで、目立って怠けることもなく狡さのない藤村敏数は、職場の幹部たちには気に入られていたのだが、敏数が突然、退職願いを提出し、引き留めるのも介さず、強引に辞めて去った時は、まるみはこの上司に 「おまえと付き合い始めて、藤村はおかしくなった。おまえのせいで藤村は退職してしまった」 と、そう言われてショックを受け、内心、怒りもした。だが、威圧的であり、目下の者に言い返されると逆ギレする上司の性格をよく知っているまるみは、仕方がないと諦め、自分の感情を抑え、上司に表向き従順さを示して萎縮して見せた。

 一時は、お互い結婚まで考えていた、まるみと敏数の付き合いは、職場全域の周知だった。仕事が終わった後の、みんなの飲み会などにも、いつも二人一緒に現れ、イメージ的にはいつでも一緒に居る、とても仲の良いカップルだった。それが今は、藤村敏数の心は完全に、まるみから離れてしまった。しかし、まるみの方はまだまだ、敏数のことを忘れきれない。それどころか、狂おしいほどにも敏数に未練がある。無論、今現在、敏数には有馬悦子という、新しい恋人が居ることも知っている。だが、敏数への思慕の情ばかりで毎日懊悩している状態なのである。

 城山まるみは職場には、惰性で仕事に行っているような状態で、ただ惰性で一日仕事をし、定時になったら退社しているだけである。まるみは、職場での今の自分は、まるで意思も感情もない、人形のように思えた。それが、周囲から見ても解るので、上司も、まるで歯ぎしりでもするようにイライラして腹を立て、毎日、彼の最大限に渋い顔でまるみを見ているのだ。また、まるみの方も、もう気分的には、ヤケになっているような部分も大きく、今の仕事をいつ辞めてもいい、という捨て鉢な気持ちになっていた。だから今日も、電話では上司がガミガミうるさく怒っていたが、その実態はまるみ自身は聞き流していて、強行突破で休んで、病院に診察して貰いに来たのだ。どうせ一日休んだのだから、近所の医院や小さな病院に行かず、ついでに、入院している伯母を見舞おうと思い、熱っぽかったが無理をしてでも都市部まで出て来て、総合病院に掛かることにした。

 問診票のようなB5大の用紙に書き込み終えると、まるみは立って、それを内科カウンターに戻すと、同じ女性から今度は 「お熱を測ってください」 と、体温計を渡された。まるみは長椅子の同じ位置に戻って、上着のニットのサマーカーディガンの前をはだけ、ブラウスの襟口から脇に、体温計を差し込んだ。まるみの今日の出で立ちは、赤色の半袖ブラウスに黒のタイトスカート、風邪を引いているので上に、薄いグレーのサマーカーディガンを羽織っていた。その格好は、色白丸顔で、ワンレングスの髪型のまるみに良く似合っていた。検温が終わるまでの間、周囲を見回した。やはり、内科の受診者は多い。何列も並んだ長椅子が、ほぼ満席に近く埋まっているし、通路を挟んだ窓際に並べられた長椅子にも、何人もの人が座っている。まるみはこれは、自分の受診の番までかなり待たされそうだ、と渋い顔になった。

 体温計を出して見ると、37度7分だった。まるみは、けっこう熱があるな、と思いながら体温計をカウンターに持って行くと、先程の事務員は忙しそうに帳簿を繰っていた。隣に立つ、ベテランらしい雰囲気の看護婦さんが、微笑みながら体温計を受け取り、名前を呼ぶまでお待ちください、と丁寧に言った。まるみも微笑み返しながら、こっくりと頷き、ソファに戻った。しばらく待って、医師の診察を受け、熱がまだ、それほど高くないので投薬だけ、と言うのを、まるみが頼み込んで、注射を一本射って貰った。風邪薬3日分の処方箋を出しますから、帰って安静にしていてください、と言われて、まるみは内科から離れた。

 一旦、病院受付カウンターまで戻り、支払いを済ませて、今から、伯母の入院している病棟を訪ねに行くことにする。受付で、伯母の姓名を言って、病室を探して貰った。伯母は十日ほど前に、交差点で、信号無視で突っ込んで来た乗用車に跳ねられ、何ヵ所も骨折や打撲を負って、全治二ヶ月でこの病院の外科病棟に入院していた。入院した当初は重症で、面会謝絶状態だったが、二、三日前にまるみの母が見舞いに行って、面会が叶い、まるみも近々、見舞おうと思っていたのだ。伯母はもう六十を越えているので、後遺症が心配される。まるみは今日の見舞いを急に思い付いたので、見舞いの花などを用意してなかったが、一度、母が行っているので良いだろうと、手ぶらで行くことにした。伯母には悪いが、もとより勤めを休んで受診したついでだ。

 まるみは、受付の係りの女性から教えられた、外科病棟の三階へ向かった。エレベーターを降りて、まるみは三階エントランスから病棟廊下へと入り、各病室の入口上に掛かった、病室番号板を探した。廊下には患者は見えず、看護婦や、白衣を着た検査技師らしき人たちが何人か歩いて来ていて、みんな、まるみに会釈をしたので、まるみも二、三度頭を下げた。まるみが、見上げながら左右に首を回していると、廊下の奥から何か叫び声が聞こえた。廊下に居る者がみな、廊下の奥方向を見た。まるみに近付いて来ていて、会釈した検査技師ふうの白衣の女性も、振り返って見た。まるみも驚いて、立ち止まって前方を見た。

 廊下の奥には、広いガラス窓を嵌め込んだ、鉄製らしい扉がある。叫び声は、その扉の向こう側から聞こえて来たらしい。また何か、喚き声が聞こえた。何だか、獣の咆哮のようにも聞こえる。あの扉の向こうで、いったい何が起こっているのだろう? まるみは戦慄しながら、突っ立ったまま、ただ、前方に見える扉を凝視していた。廊下に居る、他の者たちも、同じ様子だった。まるみは恐怖心も湧いて来ていて、身体が固くなっていた。胸の前に持って来た、両手に力が入る。前方に立つ看護婦が、我に返り、意を決したように、扉を開けようと近付いた。何事かと、病室から顔を出す者も居る。

 突然、鉄製の扉が、勢いよく開かれた。現れたのは老婆だった。薄い水色の病衣を着て、白髪混じりの髪を後ろで束ねているが、ほつれ毛が幾つも前に出ていて乱れている。色が悪く、蒼っぽい顔は皺だらけだが、大きく開かれた両目はらんらんと光り、荒い息を吐いている口は、その回りが真っ赤に汚れている。首を負傷しているのか、首全体をぐるぐる巻きに包帯で巻いていた。その包帯も喉のところは滴った血を吸って、赤く汚れている。老婆は、幾分、背中を曲げて、身を乗り出したように構えた格好で居る。病衣は、暴れた後のように乱れ、両足はガニ股に開いていた。

 老婆の形相を見て驚き、仰け反った看護婦に、突如、老婆は飛び掛かり、看護婦の首元に噛み付いた。看護婦の悲鳴と共に、鮮血が飛び散る。病室から顔を出していた者たちは、急いで病室の中に消えた。まるみの前に立つ、白衣の女性も素早く、すぐ横の病室に逃げ込んだ。老婆の足元には、首を咬まれた看護婦が倒れて、痙攣している。老婆の視線は、まるみを捕らえた。まるみは、何が何だか解らない戸惑いと、驚きと、そして恐怖心から、身体が固まってしまい動けなくなった。口から血を滴らせた老婆が、悪鬼の如き形相で、まるみを睨み付けながら、こちらに近付いて来る。恐怖に慄くまるみは、過緊張で声が出せない。老婆がもう、直ぐ目の前まで来てしまった。恐怖心で固まって、一歩も動けないまるみ。老婆の両手が、まるみの肩を掴んだ。凄い力だ。老婆の、鮮血で汚れた真っ赤な口が、ぱっくりと開いた。口はまるで、耳まで裂けたように広い。鋭い、二本の犬歯が見えた。まるみの、凍り付いたように固まった身体は、されるがままだ。

 その時、老婆が、まるでまるみから引き剥がされるように、後方へ上半身を仰け反らせた。見ると、老婆の後ろには男性が二人で、老婆の両肩を左右から引っ張っている。白衣を着た二人の男。看護士だ。その後ろには、もう一人男性が居る。やっと、まるみは声が出た。まるみの悲鳴。後ろから老婆を、三人掛かりで取り押さえようとして、一旦、まるみの肩を掴んだ老婆の両手は離れた。後方両側から、老婆の肩と腕を持って、押さえようとする男たちに対して、老婆はしゃにむに暴れた。その、見た目の高齢の姿形にしては、異常な力を発揮する老婆は、左右の男を振り払い、真後ろから腰に組み付いている、第三の男を引き摺り、再びまるみに襲い掛かった。

 まるみが絶叫する。耳まで裂けたような大きな口で、老婆はまるみの肩に喰らい付いた。老婆の尖った長い二本の犬歯が、まるみの肩の肉に突き刺さり、老婆の下歯は、まるみの鎖骨の下を思いきり咬んでいた。まるみは、絶叫の尾を引きながら、膝を衝き、身体がくず折れた。後ろから看護士たちが、三人で老婆を引き剥がそうと、懸命に力を入れる。老婆が咬み付いていた口を離し、顔を上げた。老婆の、血まみれの顔半分の、口元から鮮血が滴る。まるみが廊下の床に、横に倒れた。まるみの赤いブラウスで、身体が起きている時は目立たなかった血が、廊下に流れる。かなりの出血だ。まるみは失神していた。

 暴れる老婆は、さらに応援に駆け付けた、男性看護士たちも手伝って、数人掛かりで取り押さえられた。すぐ脇の看護士を噛もうと、まるで獅子舞のように口をやるので、老婆は頭を抑えられ、猿轡を咬まされた。

 「すごい力だな」 驚き顔で、看護士が言った。

 医師が駆け付けて来て、二人掛かりで抑えて固定した片腕に、一本、注射を打った。医師が看護士に訊く。

 「この患者は?」

 「杉山孝子。72歳です」

 「72歳‥!?」

 「はい。野犬に首を咬まれて重症を負って、一昨日、救急で運び込まれて、昨日までICUに居た患者です」

 「すごい元気だな。元気過ぎる‥」

 「昨夜、体調が回復し、今朝、普通病棟に移したんですけど、先程、一人でベッドから離れたかと思うと、急に暴れだして、近くに居る者を襲い始めて‥」

 「襲い始めた?」

 「はい。手当たり次第、噛み付いて回るんです」

 「手当たり次第、噛み付くだと!?」

 「はい。とても老人とは思えない力で、襲い掛かって来て。まるで、狂犬病の獣のように‥」

 「狂犬病の獣‥。で、いったい何人噛まれたんだ?」

 「こちらの病棟では、扉のところで看護婦が一人と、そこに倒れている女性です。向こうの病棟では二人くらいだと‥」

 説明する看護士は、何人かの看護婦たちに、ストレッチゃーに載せられようとしている、意識不明の城山まるみを指し示した。医師が一目、まるみの方を見て、視線を老婆に戻した。看護士四、五人掛かりで抑えられている、老婆の力が抜けて来た。注射が効いて来たようだ。

 「この患者の家族は?」 医師が訊いた。

 「それが‥。どうも、身寄りがないようで」

 続けて、別の看護士が言った。

 「どうも、飲み屋街で客引きのようなことをしていた人で、水商売というのか何というのか、時には如何わしいコトもしていたような、そういう仕事を長年、歓楽街で続けて来た、その方面では有名な婆さんみたいで。今じゃ、飲み屋街でも、特別親しい人も見当たらないようで。今のところ、身寄りも関係者も、病院には来てません。また、誰にも連絡も着きません」

 医師が黙って話を聞いていると、老婆がぐったりとして来た。老婆の身体を、しっかりと抑えていた看護士たちも、力を緩めた。

 「薬が効いて来たようだな。患者を、病棟に移動しなさい。個室に入れて、念のため、ベッドは拘束してくれ」

 ストレッチャーが持って来られ、看護師たちが老婆を載せた。城山まるみは失神したまま、治療室へと運ばれていた。

             *                *

 駅の正面玄関口を入り、コンコース手前の右手にある、エスカレーターを二階へ昇ると、降りた左手に、駅正面総ガラス壁面に沿って、軽食喫茶 “白ばら”がある。喫茶店の中から、駅前の景色が一望できるガラス壁面の、四人掛け席に、藤村敏数ら三人が座っていた。敏数の前には、在吉丈哉と大左渡真理のカップルが座っている。三人とも仕事帰りで、広いガラス窓から見える、真夏の駅前夕方の都会の景色は、まだ明るくて喧騒である。自動車量も多ければ、人通りも混雑している。

 在吉丈哉と大左渡真理のカップルは、お互いの仕事を終えての退社後デートで、この、喫茶 “白ばら ”を待ち合わせ場所にしていて、同時刻に一緒に退社した藤村敏数が、丈哉に付き合って、ひととき三人で、夕方のお茶を飲むことにしたのだ。三人の話題は、敏数と丈哉の直属の上司だった、会社の元営業係長、吉川和臣のことだった。

 「それで、その、吉川さんて係長さん、どうなったの? 今、どうしてるの?」

 二人に、大左渡真理が訊ねた。敏数と丈哉が、顔を見合わせた後、丈哉が横を向いて応えた。

 「それが‥。実は吉川係長、どーも、行方不明らしいんだ。あ、もう、係長じゃないのかな‥」

 真理が、声を上げて驚いた。敏数が、丈哉の話に続ける。

 「うん。吉川係長、倉庫の方に配転になって、昨日あたりから、倉庫の方に行ってなくちゃならないんだけど、昨日も今日も、倉庫には出て来てないらしい。勿論、営業課にも来てないし、まあ、行方不明状態だ。倉庫に行って、係長の役職は解かれたって話だな」

 真理は驚き顔のまま、敏数を見ていたが、丈哉が話し始めたので、隣の丈哉の方を見た。

 「吉川係長、大変っすよね。倉庫番に左遷されて、しかも、ヒラに降格なんだもん。給料も下がるっすよね。それでガックリ落ち込んじゃって、ヤル気失くして、休んでるんすかね?」

 「どーも、無断欠勤みたいな噂だな‥。ヘタすると、場合によっちゃあ、クビになるかも知れない。倉庫の方の担当から電話してるけど、自宅も携帯にも繋がらないって話だ」

 敏数が話すと、真理が訊いてきた。

 「えーっ! だって、自宅は奥さんとか家族が居るでしょ。家の人も誰も、電話、出ないのかしら?」

 「さあ‥。詳しいことは解らないが、とにかく、会社からすると行方不明で、連絡取れず状態だ」

 そこへ、ウェイトレスのお姉さんが、トレイに乗った飲み物を持って来て、敏数の前にクリームパフェを置いた。丈哉と真理の前には、テーブルにアイスコーヒーを置く。

 「しっかし、ホント、藤村さん、そーいう甘いの、好きですね。女の子が好きそうなの。あれですか、いつも、ナンパの際に、相手の娘に合わせてるからですか?」

 真理が、幾つか年上になる敏数に、からかい半分に言った。

 「えーっ。ナンパ? 違うよ。タマタマだよ。いつもこーいうの、食ってる訳じゃねーよ。それに、俺はナンパなんてやってないよ」

 敏数が返すと、丈哉が空かさず言った。

 「でも、藤村先輩はモテるっすからねえ。カノジョ、居なかった時期なんて無いっしょ?」

 「そんなことないさ‥」

 そう応えながら、細長いスプーンでグラス上方のアイスクリームをつつく敏数を、真理が凝ーっと、見詰める。仕事帰りの敏数と丈哉は背広姿だが、同じ退社後でも、真理の出で立ちは、白地に薄いピンク模様の入った半袖ブラウスに、下は濃いピンクのジーパンを穿いている。ボーイッシュな真理は、普段着も外出着も、ジーンズやチノパンなどズボンを穿いて上着を合わせることが多い。

 「まったく‥。そうやって、頻繁に女を変える男は、影で泣いてる女の姿を、少しは考えて欲しいよ」

 真理は、同じ職場で事務職で働く、城山まるみのことを思い出していた。城山さんは最近、元気がなく、職場の人たちとも会話しなくなった。はっきり、全体的な雰囲気が暗く重たい。それは多分、この藤村敏数のせいだ。そう思うと、意識せずとも自然、敏数を睨む目付きになっていた。真理の視線に対して、敏数は困ったような顔をして、目をそらし、窓外の景色の方を見た。一瞬、沈黙が訪れる。丈哉が慌てて、場を取り繕おうと喋り始めた。

 「あー、例の怪しいキャバクラ、ビッチハウス。あそこ、中村達男先輩に、探索に行ってもらったらどうっすかねえ? 我々で幾らかカンパして。金さえ都合着けば、中村さん好きだし、喜んで行くっしょ。もしかして、吉川係長が中に居たりして‥」

 丈哉が、場の雰囲気を変えようと、中村達男の話を出した。中村達男の話を出せば、笑い話になり、場が和むと思ったのだ。しかし、想像以上に真理が、中村達男のことを好ましく思ってなかったようで、真理は、今度は丈哉を睨んだ。

 「嫌よ、絶対。誰が、あんな人のキャバクラ代なんか出すもんですか! ちゃんと奥さんが居るのに、歓楽街で飲み歩いてる人なんて!」

 真理が、怒ったように反論した。敏数が笑う。

 「そうだな。他人のキャバクラ代出すなんて、馬鹿馬鹿しいよな。しかし、在吉君の話‥。吉川さんの所在が、解るかも知れないな。あそこに居なくとも、あの店の、ホステスとかボーイとかに聞けば、何か解るかも知れない‥」

 敏数の話に丈哉が頷いたが、真理は、くもった顔をした。

 隣の真理の様子を見て、真理のことを気遣いながら、丈哉が敏数に言う。

 「いやあー、その、あそこは、いろいろとヤバそうっすから‥」

 「あそこは、行かない方が良いと思う」

 真理が、静かに言った。敏数も、何日か前に、ビッチハウスの手前まで行って、気分を悪くして苦しそうにしていた、大左渡真理の姿を思い出していた。敏数も、ビッチハウスというキャバクラ店には、漠然と何か、得体の知れない気味悪さを感じていた。三人が黙った。そして、突然、真理が言い出した。

 「そうだ。その係長さんの、家の方はどうなのかしら? 家族の人たちとか。藤村さん、一度、係長さんのお宅に行ったこと、あるんでしょ?」

 「ええっ。吉川さんのお宅にかい? そりゃあ、俺は二度ほど、お伺いしてるが。美人の奥さんと、女の子と男の子のお子さんが居たな。四人家族の、とても良い家庭だったけどな。あの当時は、憧れるような家庭だったけど、吉川さんには悪いが、一家の主人があんなふうになっちまったらなあ‥。いったい今、あの家庭はどうなってるのか‥?」

 「確かに、家の方がどういう状態かって、ちょっと心配っすよね」

 「小さいお子さんも、居るんでしょ?」

 「ああ。上の女の子は、中学生くらいだろうが、下の男の子は多分、まだ小学校の三年か、四年生くらいじゃないかな。ただ、あそこの奥さんはテキパキした、とてもしっかりした女の人に見えたけど‥」

 「ねえ。どーせ、その吉川さんて、元係長さんの様子を探りに行くんならさあ、怪しいキャバクラより、自宅の方に行ってみようよ。そうしたら、家族のことも解るし‥」

 「えーっ真理ちゃん本気で言ってんの?」

 真理の突然の提案に、丈哉が驚いて声を上げた。

 「もちろんっ! 藤村さん、二度も行ってるんだから、その吉川さん家、解るわよね?」

 真理はどうしても、歓楽街の、あのキャバクラにだけは近寄りたくはなかった。無論、近寄れば自身が気分が悪くなり、体調を崩してしまうこともあったが、自らがとても “邪悪” と感じるところに、恋人である丈哉を近付けたくなかったのだ。真理は、あのキャバクラ、“ビッチハウス” に邪悪さと共に、とても危険を感じていた。ここは、敏数と丈哉の 「吉川元係長を探すために、もう一度、ビッチハウスに様子を見に行く」 という考えを、是非とも、覆させなければならない。

 しばし考えているふうだった、敏数が口を開いた。

 「そりゃ勿論、家はよく知ってるけど、今からじゃ遅いよ」

 「馬鹿ね。今からなんて、言ってないじゃん! 明日でも、休みの日の昼間でもいいし、今日じゃなくても、三人が行ける日の、できるだけ早い日よ」

 年下の真理に “馬鹿呼ばわり” されて、敏数はムッとした顔をした。少々、機嫌を損ねたか敏数は、プイと、窓の方を向いて黙った。敏数も、余暇には、現在の恋人、有馬悦子とのデートもある。吉川元係長の探索に、そうそう、真理や丈哉に付き合ってもいられない。正直なところ、敏数としても、吉川和臣は役職を解かれ、倉庫へ降格左遷されたあげく、無断欠勤を二日続けている身の上だ。このまま、クビになってしまうセンも濃厚である。お世話になった上司であり、尊敬する会社人の先輩ではあったが、今となっては敏数自身が、吉川和臣の行方の捜索をすることに何か意味があるんだろうか、という考えも、頭の中をよぎっていた。

 サラリーマンとしての処世では、極端な話、吉川和臣は忘れて、次に自分が着いて行く上司を決めることの方が、大事なのではないか。敏数の中では、そういう計算的な一面も、考えとして働いていた。それは、若い丈哉も、敏数ほど具体的ではないが、漠然と、そういう計算的な思いもよぎっていた。会社人としては部外者の真理の方が、もっと親身に、吉川和臣の身の上のことを心配していたかも知れない。しかし、敏数は恐いもの見たさ的な好奇心で、“ビッチハウス” には興味があった。敏数も勿論、まだ、吉川元係長が現在どうしているのか? と、心配する気持ちも残っていたし、また、いったい今現在、あの吉川さんがどうなってるんだろう? という、興味本意な気持ちもあった。そういう気持ちというのは、もっと漠然としていたが、丈哉も同じだった。

 「ハッ!」 と思い出して、丈哉が興奮した調子で、敏数に話し始めた。

 「ねえ藤村さん! 知ってましたか? おタカ婆さんのこと」

 「え? おタカ婆さん?」

 ここで丈哉から、“おタカ婆さん” の名前なんか出たので、意外そうに敏数が聞き返した。

 「そうっすよ。おタカ姉さんでも、いいんだけど‥」

 「あの、歓楽街の “おタカさん” て、客引きの婆さんだろ。あの人が、どうかしたのかい?」

 「今日昼間、話したかったけど、今日は藤村さん出てたし、俺も昼から忙しくて、つい話しそびれてたんすけど‥」

 「え、何? ピンク街の名物婆さんが、どうしたんだよ?」

 丈哉の口調が興奮した雰囲気を帯びているので、敏数も興味を持って次を促した。

 「昨日の昼間のニュースで、出てたんすけど、何だか、野犬に咬まれて重症なんだそうっす!」

 「野犬に咬まれた? 婆さん、住んでるのは郊外なのかなあ‥」

 「いや、それが、野犬に咬まれて重体で発見されたのって、昨日の未明で、場所はあの歓楽街なんすよ」

 「ええっ!? あの街中で‥?」

 敏数も驚いて見せた。丈哉が敏数の顔を見つめながら、説明を続ける。

 「そうなんすよ。だから、あの晩、藤村先輩と中村先輩と別れた後の何時間後かに、あの場所で、おタカ婆さんは野犬に襲われたんすよ」

 「で、その、お婆さん襲った野犬て、捕獲できたの?」

 真理が間に入って来て、訊ねた。

 「いや、それがね。今朝の新聞の地方らんに、小さく記事が載ってたんだけど、野犬はまだ、見つかってないから充分気を付けるようにって。野犬が襲ったって言っても、誰も、現場は見てなくて、未明の朝方、血を流して倒れてたおタカさんを、誰かが発見して通報したみたいで。早朝、病院運ばれて、一命取り留めた、ってことらしいっすね」

 丈哉は真理の方を向いて説明していたが、後半は、敏数に視線を戻して話した。

 「ふう~ん。そんなことが、あの後の深夜にねえ‥。達ちゃんだって、おタカさんと一緒に居たのも、俺が帰ってからの30分間くらいだろうからな。おタカさん、午前0時を回っても、客引きしてたんだろうな。あそこの街でヒトケがなくなるのって、何時くらいだろう? 野犬に襲われた現場は誰も見てないんだろうから、ホステスさんたちも退き上げた後なんだろうな。今は不景気だから、飲み屋客も、あんまり遅くまで飲み歩かないからなあ。しかし、人を襲うような野犬が、未明のあの街をうろつくかなあ‥?」

 敏数が腕を組んで考え込んでいる。半分食べたクリームパフェの、アイスクリームが溶けている。

 「野犬とは限らないかも‥」

 真理が静かにポツンと言った。その一言を、丈哉が引き取って、応えた。

 「そうだ。野犬とは限らないっすよね。ひょっとして夜中に、あの街の通りを、ドーベルマンとかシェパードみたいな大型の飼い犬連れて、散歩する人が居たりして。それで、人を襲ったから大慌てで犬を連れて逃げ帰った、とか‥」

 真理は、丈哉の話には反応せず、黙っていた。

 「そうだな‥。ちょっと、あの付近を見てみたい気もして来たな」

 おもむろに敏数が言うと、丈哉が呼応する。

 「そうっすね。何だか、好奇心がうずくっすね」

 「駄目だよっ!」

 真理が叫ぶように反対した。

 「冗談じゃないよ。あんな危険なとこ!」

 「危険?」

 敏数が問い返す。

 「藤村さんの馬鹿にするオカルトじみたことじゃなくても、“野犬” が出るようなトコでしょ。駄目よ、危ないよ!」

 真理は、ビッチハウス周辺に行くことに絶対反対、の姿勢を主張する。

 丈哉は迷っていた。気分としては、野次馬根性ぎみの好奇心から、近くまで行ってみたい。幽霊屋敷を見に行くような怖いもの見たさのワクワク気分も生じていた。しかし、恋人の真理の気持ちを尊重もしたい。

 「しかし、まだ早いし、ちょっとだけ、近くまで行ってみないか。何かあれば、すぐに離れればいいじゃないか。まだ夕方七時だぜ。外はまだ明るいし、おまわりさんも街のあちこち、出回ってるよ。大丈夫。外側から様子を見るだけさ」

 敏数は、丈哉の方を見て快活に言った。確かに真夏の夕方七時は、まだまだ外は明るい。丈哉は、真理の顔を窺いながら躊躇っている。真理は半分怒ったような、困ったような顔をして下を向いていた。

 「じゃ、俺は藤村先輩とちょっとだけ、あの近くに行ってみるよ。真理ちゃんは離れたところで待ってて。何、ちょっと傍まで行って様子を窺うだけだから、すぐ戻って来るよ」

 丈哉が真理を元気付けるような言い方をして、“ビッチハウス”の近くまで行くことを、真理に許しを請うている。

 「真理ちゃん、大丈夫だ。この辺りでも、このままこの店内でもいい、待っててくれたら、在吉君はすぐに帰すから」

 敏数の説得。真理が口を開いた。

 「解ったよ。じゃあ、あたしも行く。そのかわり、この間の歓楽街の十字路までだよ。あたしはあそこまでしか行かない」

 真理がしぶしぶ承諾した。

 「よし。オーケーだ」

 敏数が伝票を取って立ち上がる。敏数のクリームパフェは、グラスの底に、溶けた白濁の液体が少し残っていた。丈哉と真理の前の、アイスコーヒーのグラスは、溶けかかっている氷しか残っていない。三人は、駅二階の喫茶 “白ばら” を出た。

 三人は、中村達男お気に入りの風俗嬢、かえでちゃんが勤務するというキャバクラ、“ギャラクシー” が入るビルの立つ通りを抜けて、飲み屋が連なる歓楽街の通りへと出た。途中、“ギャラクシー”の看板の下では、丈哉が冗談で「中村先輩、今日も来てるっすかね?」と言って、三人で笑った。三人が出た歓楽街の通りには、風俗店の入るビルも多い。以前、歓楽街の居酒屋を出た敏和・中村達男と、吉川和臣元係長を追って来た、丈哉が出くわした十字路まで来た。中村達男が “おタカ姉さん” と話し込んだ場所もこのすぐ近くだ。そしてこの十字路から通り一本道を奥へと進んで行けば、人通りが少なくなり、キャバクラ “ビッチハウス” の入る古ビルの前に出る。

 三人は、ビッチハウスから10数メートルくらい離れた、歓楽街通りの十字路地点で立ち止まった。

 「あたしはここから先へは行かない」

 真理がはっきりと意志を述べた。真理は真剣な顔をしている。少々緊張ぎみな様子だ。

 「解った。俺たちは別に店の中には入らないから。ただ、“ビッチハウス” の前まで行ってみるだけだ。すぐ戻る」

 「真理ちゃん、心配しないで。ちょっと向こうに行くだけだから大丈夫だろうけど、もし真理ちゃんの身に何かあったら、携帯で電話して呼んで」

 丈哉の掛ける言葉に対して、真理は緊張は解かずに返事した。

 「うん、解った。気を付けて‥」

 真理は本心から心配していた。敏数や丈哉は何でもなく何も感じないが、真理自身はやはり、この先には「非常に嫌な雰囲気」を感じていた。それは「邪悪なもの」と言い換えてもいい、得体の知れない怪しく危険な雰囲気だった。

 敏数と丈哉は、歓楽街の十字路に真理を残して、“ビッチハウス” の入った古ビルを目指して、通りを真っ直ぐ、人通りの少ない方向へと歩いて行った。真夏の夕方七時半過ぎは、まだまだ薄暗いくらいでしかない。真理の立つ十字路は人通りが多く、丈哉たちの進む先の奥の方も、何人か歩いている人影が見える。真理は大丈夫だろうと思った。

 真理は人通りを除け、十字路の端に寄り、ビルの角に立って、丈哉たちの行った方向を見守っていた。「ハッ!」と気付いて、真理は緊張した。突然、背筋に冷たいものが走る。真理は咄嗟に後ろを振り向いた。

 「あっ!」 小さくだが、真理が声を上げた。

 目の前に男が立っている。背広姿の一見サラリーマン風、中背で少々小太りか。真理と目が合った。真理は緊張したままだ。

 「ほう。あんたは俺が解るらしいな‥」

 目の前の男が喋った。低いがひしゃげたような声。しかし、何となく威圧感がある。真理は声が出なかった。真理の背筋に恐怖感が走る。

 「怖がらなくてもいい。俺は別にあんたらに危害は加えない。俺の敵はあっちだ」

 男は、怯えた様子を見せる真理を、安心させようと微笑した。しかし、真理は、その“笑い”にもゾッとした。真理は、恐怖に見開いた大きな両目で、男を凝っと見詰めたままだ。見掛け中年サラリーマンの男の顔立ちは、離れた両目に低い鼻、幅の広い口。ちょっと見にはカエルに似て、愛嬌がありそうな、ユーモラスな顔立ちだ。しかし真理は心の中で思っていた。「この男は人間ではない」、と。

 二人の後ろを、多くの人通りが過ぎて行く。真理は過緊張で声が出ない。真理は恐怖感からか、自然と、自分のバッグを肘に掛けて、胸の前で両手を組んで防御のような姿勢を取っていた。男が、「俺の敵はあっちだ」と、顎を振った方向は、敏数と丈哉が向かった先だった。

 「しかし、お嬢さん、驚いたよ。こんな狭い地域に二人も居るとはな。滅多に見ないもんなんだ。大都市でも、一人も見ないコトだってある。ここから二、三十キロ離れた小さな町に、あんたの同類が居る。知ってるかい?」

 真理は声を出さずに、首だけを横に振った。

 「そうか。知らないか。あっちはまだ小さな子供だ。ある程度近付けば、お互いが同類だと解るだろう‥」

 真理は、凝っと男を見詰めて黙ったままだ。男は、焦げ茶色っぽい髯が濃く生えていた。無精髭にしても濃い。髪も一応整髪した後は見えるが、中年の勤め人にしては無精に長めだ。

 「この時期は髯濃くなってなあ。この姿でも、全身が毛深くなって困るんだ‥」

 男は顎鬚を手で弄びながら、上空を見上げた。薄暗さも、もうかなり、夜の暗さに近付きつつある。月は雲に隠れているようだ。

 「まあ、いい‥。とにかく、お嬢さん。あんたは、この先に立つビルの中に棲んでる “もの” が解るようだな。あんたがここで待っているのは正解だ。近寄れば、あっちも、あんたの存在に気付く。奴らは自分の正体を見破る者を嫌う。ここから先へは、絶対に行かないことだな。このすぐ先が奴の結界だ」

 男は真理を見ながら言った。真理は少し落ち着いて来た。この “不気味な存在” である男は、自分には危害を加える気はないらしい。真理にはそれが解った。少しだけ緊張が解けた。

 「あなたは、あの先に居る “邪悪な存在” とは敵対しているんですか?」

 真理の声が出た。思ったよりも落ち着いて、真理は男に対して問うことができた。

 「そうだ。“あれ” は敵だ。俺が倒す。だが、今はまだ駄目だ。今日は様子を見に来ただけだ。あれは手強い。今の俺じゃ無理だ。しかし、いずれ俺が退治する。さっき、あっちに向かったのは、あんたの連れだろう? すぐ呼び戻せ。ヘタすると感染させられるぞ」

 男は、威圧感を持ったひしゃげ声で淡々と話す。真理が聞き返した。

 「感染?」

 「ぐずぐずするな。今日は俺はもうこれで帰る。あんたたちはもうあそこには近付かないことだ。それから、あんたは俺のことは喋るな。それだけだ」

 男は真理の問い掛けには答えず、そう言ってから、くるりと後ろを向いて、敏数たちが行った方向とは反対の方へと歩いて行き、人混みに紛れた。

 男の姿が見えなくなると、真理は自分のバッグから慌てて携帯を出し、丈哉を呼んだ。直ぐに丈哉が出て、「調度、今、“ビッチハウス” の入るビルの前で様子を見ているところだ」、と言った。誰も出入りはなく、何事もないらしい。真理の「早く戻って来て」に、二人は直ぐに引き返し、結局この夜は、三人はこれで駅まで戻り、丈哉と真理はデートに向かい、敏数は帰宅することにした。

「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編..(7)へと続く。

◆(2012-08/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1)
◆(2012-09/07)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ 」 狼病編 ..(2)
◆(2012-09/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(3)
◆(2012-10/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(4)
◆(2012-10/28)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(5)

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