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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(12) 

12.

 今日は最低最悪の日だった。心身共に疲れきった態で、吉川愛子は二階へ上がって来た。階下ではまだ、母・智美の啜り泣く声が聞こえて来ている。父・和臣は、また風呂にも入らずに寝室に入った。一階には、ダイニングやリビングの他に、寝室として使える部屋が二室ある。一つは当初は客室用だったが、今は母・智美の寝室となっている。和臣と智美が寝室を別々にし始めてから、もう二ヶ月以上になる。

 今日も遅く帰って来た父・和臣は、酒を飲んでいて、夕食は要らないとそっけない態度だった。風呂に入ってすぐに寝ると言う。今、和也が入っていると智美が言うと、「何故もっと早く和也を風呂に入れとかないんだ」 と、ぶつぶつ文句を言って不機嫌になり、「疲れているからもう寝る」 と言い出した。

 普段は吉川家の入浴の順番は、和也が一番先で次が愛子なのだが、この日は和也が、「見たいテレビ番組がある」 と譲らないので、愛子が先に済ませていた。気分的にも、ぐったりと疲れていた愛子には、一番に入浴できるのは都合良かった。何ヵ月か前までは、遅くとも午後九時前には帰宅していた父・和臣が三番目に入浴していたが、最近の和臣の帰宅は十時、十一時はざらで、ヘタすると、深夜・零時を回ることさえ何度もあった。特に最近は帰りが遅い。

 和臣のそっけない態度や不機嫌さに対して、智美がぶちキレた。智美の甲高い怒鳴り声と、うるさそうにボソボソと、言い訳めいた話を繰り返して応対する和臣。明らかに面倒くさそうな態度だ。ひとしきり智美が、怒鳴り声を交えて文句を言うと、泣き声を上げ始めた。二階で、階下の夫婦の騒動を窺っていた娘・愛子は、母・智美の泣き声を聞いたのを機に、階下へ降り、父親・和臣に対して強い調子で意見を言った。

 仕事仕事と言いながら毎晩帰りが遅く、土日の休日は何の用事なのか家に居なく、しかも昨夜は連絡もなしに帰って来なかった、最近は、まるで家庭を顧みない父親・和臣を責めた。愛子自身もだが、まだ幼い和也の面倒も含めて、パートの仕事をしながら家庭のことを一人で全部やっているお母さんが可哀想だ、と母・智美を庇いつつ、和臣を強く責めた。愛子は、父・和臣が中学生の実娘からここまで言われれば、相当なショックを受けて、堪えるだろうと踏んで一気に捲し立てたのだった。

 しかし結果は、吉川和臣はほとんど平然としていた。中学生の実娘、愛子の真剣な訴えを黙って聞いていた父親・和臣は、無感動に 「それだけか」 といった風情で、まるで何もなかったかのように一言、「寝る」 と言って寝室に向かった。愛子は、父親の驚くべき態度に号泣するどころか唖然とし、しばしポカンとした。だが涙は溢れていた。「お父さんはおかしい」 と、心からそう思った。このところ毎日帰宅が遅い。日曜日も居なくて、家庭を顧みない。そういうことばかりじゃない。お父さんは変わった。変わり過ぎだ。

 本来、父・和臣は清潔好きな方だった。それが、昨夜は帰って来なくて、今日帰宅して来た時は勿論、昨日の朝と、下着も全部同じ衣服で、今、寝室へ入ってしまった。今日は最初は風呂に入るつもりだったのだろうが、妻と娘に文句を言われると、それをうるさがって避けるために、入浴しないで寝室に入った。多分、外で、何処かで入浴や、シャワーを浴びることはしていないのだろう、汗臭い。また、化粧臭かった。酒も入ってるし、強い化粧の臭いは酒場の商売女の臭いに違いない。もう最近は、化粧の臭いを落として帰宅する、という気も遣わない。以前はあれほど清潔好きだった、父・和臣が汗の臭いや酒の臭い、化粧の臭いをぷんぷんさせて二日も三日も風呂にも入らず、平気で居るのはおかし過ぎる。もうこれは異常そのものだ。

 愛子は自分の部屋へ入り、ベッドにへたりこむように腰掛けた。全身の力が抜け落ちるようだ。すぐに身体を倒し、仰向けに寝転がり、天井を見た。今日はワクワク期待していた、ハチやジャックというスーパードッグには、とうとう会えず終いで帰路に着いた。熱心に誘って一緒に着いて来させた、後能滋夫には見せる顔がなかった。愛子は、きっと後能君はあたしのことを頭がおかしい、くらいに思ってるだろうと悲観していた。その姉の気持ちを察したのか、一緒に帰る弟・和也が後能滋夫に向かって、「お兄ちゃん本当なんだよ。あの二匹の犬はすごい力を持ってるんだ」 と、力説してくれていた。愛子は後能滋夫に対しては、ただ謝っていた。「ごめんなさい。こんな遅い時間まで誘っちゃって」 と。ただ、そう言う愛子の落胆が大き過ぎて、言葉には力がなかった。本来気持ちの優しい子供なのだろう、後能滋夫は何度も 「いいよ、いいよ」 と言って、笑顔を見せていた。

 そして家に帰れば、母親の機嫌が悪い。帰宅の時間が遅過ぎると、和也ともども怒られる。母・智美の機嫌が悪いのは、父親・和臣が昨晩帰って来なくて、和臣から智美に謝るどころか何の連絡もないことが一番の原因だった。夕方、智美の方から和臣の携帯に電話を掛けて、やっと連絡が取れたらしい。仕事関係の接待で遅くなり、会社近くのカプセルホテルに泊まって朝そのまま出社した、と言い訳をしていたらしい。母・智美は亭主・和臣のことで機嫌が悪く、子供たちへの説教以外は無口で、態度が硬質そのものなのだ。

 愛子は、スーパードッグに会うことが叶わなかった大いなる落胆の上に、家の中の殺伐とした空気を感じて、気分が冷え込み、さらに気持ちは沈んだ。なかなか寝付けなかったが、愛子は午前を過ぎてしばらくして、やっと眠りに就いた。

 そして翌朝。クラスの教壇の黒板には、チョークで落書きがされて、ヘタクソな絵で男女生徒らしい人物一組が手を繋いでいて、そこにハートマークが赤いチョークで三つくらい描き込んである。男子生徒らしき絵の横には 「二組・後能滋夫」 と書かれ、女子生徒らしき絵の横には 「吉川愛子」 と書き込まれていた。この、ヘタクソ極まりない絵柄には見覚えがある。一組の武田虎太の落書きだ。絵の下部にも書き込みがあった。昨日の日付と、駅前ジャンクフードショップ名だ。

 愛子が、怒った顔つきで周囲を見渡した。ピー子の意地悪そうな、馬鹿にしたような笑い顔が目に飛び込んで来た。七、八人はニヤニヤ笑って、黒板を見ている。後は、ワザと知らんぷりしているようだ。愛子は黒板消しを手に取って、落書きを消し始めた。男子の囃し立てる声や口笛が、愛子の背中に浴びせ掛けられる。昨日は、まるで気が付かなかった。武田虎太に駅前周辺で見られていたのだ。男子の誰かが、「吉川、もっと相手選べよ」 と声掛け、どっと笑い声が上がる。

 二組の後能滋夫も今朝は、クラスで苛めにあっているかも知れない。愛子は、後能滋夫に対して悪い気持ちになった。昨日、自分が無理やり誘ったからだ。しかも空振り。愛子は自己嫌悪と、クラスのみんなの仕打ちに泣きそうになった。しかし、口惜しい気持ちが勝り、必死で涙は堪えた。離れたところで一人、心配そうに真央が見ていた。真央は頭の良い子で、賢く優しい。クラスの他の子たちは、正に苛めモードで笑いながらこっちを見ているか、敢えて知らんぷりしているかだ。愛子は案外、集団苛めはこんなことから始まって行くものかも知れないな、と思った。

 後に、二組の後能滋夫に聞いたのだが、この日も次の日も、愛子と街で一緒に居た件で苛められることはなかったらしい。後能滋夫は、西崎ら不良グループと一緒に居ながらも一人だけ無傷で助かったことで、逆にみんなから一種異様に怖れられていた。まだみんな、中学二年生くらいの年代だ。大人が一笑に伏す様な、超自然的な情報を真に受けて、貴重な情報として受け入れがちな世代なのだ。生徒たちの間では、後能滋夫には強力な守護霊が着いている、などという噂まで流れていた。後能滋夫は、学校では相変わらす一人ぼっちだったが、しばらくは誰からも苛めに合うことはなかった。

 さんざんな一日は、放課後のクラブ活動でさらに強烈だった。最悪の一日のもっとも象徴的な最悪の時間が、女子バスケ部の練習の間だった。親友の筈だった同じバスケ部のピー子が、愛子が昨日の練習を病欠で休んで、その時間、何をしていたかを全部員にチクっていた。部活が始まると先ず、最初に三年生の女子主将からビンタを張られた。その後は、体育館の隅に一人立たされて、全部員からバスケットボールを次から次とぶつけられた。

 一年生部員や仲の良い同級生部員が加減してボールを投げると、先輩たちからの激が飛ぶ。ピー子も幾分、手加減しているようだ。途中で体育館に入って来た、保健体育科の男子教員があまりの激しさに、集団リンチのようなボールぶつけを止めたが、三年生女子のキャプテンに事情を聞くと、「あまりやり過ぎるなよ」 と言って、体育館を出て行った。教師の姿が見えなくなると、またボールぶつけのリンチが再開された。

 愛子は歯を喰いしばって耐えていたが、ついに泣きそうになったところで、キャプテンの 「やめ!」 が掛かった。何度も転び、手足はアザだらけだ。頭部には幾つもぶつけられたが、顔自体はあまり狙って来なかった。顔のアザは目立ち、残れば後々、教師やPTAが入って来てコトが面倒になるかも知れないから、気を付けているのだ。実に周到だった。それでも、頭部には飛んで来たが、愛子が両腕で庇い続け、顔部分にはほとんどアザなど残らなかった。ボールぶつけリンチだけでもふらふらになって、体力を消耗させられたが、その後のバスケ部のいつもの練習メニューも、他の部員の倍やらされるくらいにシゴかれ、最後には倒れているところにバケツの水をぶっかけられた。

 やがて練習も終わり、ピー子以外の同級の部員に肩を貸してもらって部室まで行き、何とか着替えて、息も絶え絶え帰途に着き、家に帰り着けば、午後七時半が近かった。母親は夕飯の準備を終えていて、和也がテレビを見ると言うので、先に入浴した。浴室で裸になると腕や大腿部だけでなく、胸や腹部にさえもアザが出来ていた。背中も痛いからきっと、背中にも幾つかアザがあるだろう。全身が痛いのを我慢しながら、脱衣し入浴した。心配するから母親にだけは、この全身のアザを見せてはいけないと思った。風呂から上がると、母・智美と愛子、和也の三人で夕飯を食べ、その後、和也が入浴した。

 和也が入浴を終え、二人の子供が二階へ上がって午後九時を回って、父・和臣が帰って来た。最近では、九時台の帰宅は早い方だ。階下で、智美と和臣の言い争いが始まった。智美は、和臣が毎日、酒と濃い化粧の臭いをさせて、以前に比べて遅い時間に帰って来ることと、一昨夜、とうとう帰って来なかったことの理由を問い質した。和臣はうるさそうに、面倒臭そうにいつものように、仕事の顧客の接待だと繰り返した。和臣の対応のいい加減さに怒った智美が、甲高い怒鳴り声を上げる。文句を言う母・智美の喋り方が泣き声になったとき、娘・愛子は階下に降りて行き、父親・和臣に向かって文句を言った。

 母親を庇い、激しい口調で和臣を責めた。ここ最近の、父・和臣に対して思っていた、溜まりに溜まっていた不満をぶちまけた。「お母さんが可哀想だ!」 この言葉をまるで絶叫するように、父に吐き着けた。もともとは家では、家庭的で優しく、おおらかだった父親に対して、これまで愛子は怒って文句を言ったりしたことは、ほとんどなかったと自分では思う。子供の頃はワガママから、多少は不満をぶつけたこともあったかも知れないが、年の離れた弟の手前、そういうのもあまり言わなくなった筈だ。しかし、最近の父はひどい。毎日帰宅が遅いのも、日曜日に家に居ないのも、特に近頃は酒や化粧の臭いをプンプンさせながら帰って来ることも、本人は悪いなどとは全然思っていない。家族に全く気を遣わなくなった。

 愛子の、父親を責める激しい口調は、涙声になっていた。母・智美が、愛子を止めた。涙で目尻や頬を濡らした智美も、必死のような形相で居る。ところが、妻と娘、両方に相当強く、責め続けられている和臣は、見るからに平然とした雰囲気で居るのだ。愛子が吐き続けた、激しい口調の批難の間、和臣はずっと黙っていたが、智美に責められていたときもどちらも、面倒くさげな態度でいるばかりなのだ。和臣には、相手の話を、真剣に聞いている雰囲気はちっともない。ただうるさそうにしていて、早く終わらないかな、この場から逃げたいな、という気持ちがその態度に出てしまっている。智美と愛子が発した批難の言葉、一つ一つの意味もまともに考えることもしてないだろう。おそらく、二人が必死の思いで発した、合わせて三十分近く続けた真剣な話も、和臣はただ聞き流しただけだろう。

 愛子は、昨晩と今夜と、連続して都合二回、父・和臣に対して、激昂して文句を言った。今日のは特に、もうあらん限りの気持ちで、まるで激しい憎悪心にも似た気持ちで、自分の実の父親を激しくなじった。そして、その後はといえば、張本人の和臣は、そんなことは何処吹く風と言わんばかりの態で、一言 「疲れた、寝る」 と言って、寝室に入った。風呂にも入らず、家での夕飯も取らずに。母親・智美は憔悴しきり、泣き疲れでもしたように放心して、キッチンのテーブルに黙って座っていたが、何だか決心したようなムードもにおわせている。ひょっとしたら、心の中では 「離婚」 ということまで考え始めているのかも知れない。

 愛子自身は何よりも、自分の父親、この吉川家の主、吉川和臣の近頃のあまりの変わりぶりに驚いていた。愛子はもう、涙は出ていなかった。ただ頭の中に信じられないような、一つの疑いが浮かんで来ていた。あれは、本当に父・和臣なんだろうか? 同じ顔、同じ声、同じ姿態だが、何だかまるで違う人みたいだ。愛子は、母・智美が心配で傍に寄り、肩に手を遣りそっと顔を覗き込んだ。智美も、もう泣いてはいない。唇を引き締めて、真剣な顔をしている。何だか目に、決意のような力強さがある。智美は、我が子の前では気丈だった。

 「何て目で見てんのよ、愛子。親のことなんか心配しなくていいから、学校のことをやりなさい。テスト大丈夫なの? しっかり勉強してよ。早く、二階に行きなさい」

 娘がリビングを離れようとしたとき、智美は呼び止めた。

 「愛子。あんた今日、随分疲れた顔してるはね。手が張れてるんじゃないの?」

 「うん。バスケ部の練習が、ちょっとハードだったから」

 「クラブ活動も良いけど、ほどほどにしとかないと身体壊すわよ。痕を残すよーな怪我なんかしたって、何にもならないんだから。部活動よりも、今一番大切なのは勉強なんだからね。成績上げてよ」

             *                *

 時系列ではその少し前になるが、吉川和也は、二階の子供部屋で勉強机に座り、机の上に、小学三年の教科書と参考書、ノート、児童漫画雑誌に連載されて大人気のコミックス本数冊を雑多に置いて、憂鬱な顔をしていた。先程から母親が、夫婦喧嘩をしているのは解っている。つい今さっき、お姉ちゃんが下に降りて行った。お母さんに引き続いて、今度は姉・愛子が大きな声を出して、父親・和臣に文句を言っている。

 昨日と全く同じだ。部屋のドアを閉めているから、父親の声は聞こえて来ない。でも、母・智美と姉・愛子の、父を責める声は大きな声なので聞こえて来る。ときどき怒鳴り声になり、「わかってるの!?」 とか 「はっきり言いなさいよ!」 とかいうのは、とてもよく聞こえて来た。和也は、ああいう怒鳴り声のフレーズはきっと、隣の家にも聞こえているだろうな、と思った。宿題や予習をするにも身が入らず、漫画本を読む気にもなれず、和也は、何にも手がつかなかった。

 ものすごく階下が気になっているが、自分が姉に続いて下に行ったところで、階下の三人には相手にされず、母親にはすぐに追い返されるだろう。当の張本人の父親・和臣は多分、馬鹿にしてまるで相手にしないだろう。それはよく解る。父・和臣は変わった。

 何ヵ月か前に比べると、まるで別人のようだ。だから、智美と愛子が怒って文句を言っているのだ。あまりにも変わってしまったから。何ヵ月か前までの父親は、和也の相手をして、よく一緒に遊んでくれた。和也はもともと母親っ子ではあったが、父親にもよくなつき、夕方など、父・和臣がキャッチボールなど誘うと、喜んで一緒にやった。和也自身も楽しかった。

 日曜日の休日など、家族みんなを自動車に乗せてドライブがてら、よく行楽地へ連れて行ってくれた。また、運転を買って出て、家族全員でスーパーマーケットに、食材や日用品などのまとめ買いに行くのに付き合ったりした。和也を入浴させるのに、一緒に風呂に入ることも多かったし、ごくたまにだが、和臣がキッチンに立ち、カレーやスパゲティなどの手料理を、家族みんなの分作って振る舞うことなどもあった。特に、幼い和也をよくかまってくれていた。それが最近は、そういうことは全くなくなり、自分の妻、智美や我が子、愛子・和也にかまうどころか、話をするのさえ面倒くさいような風情だ。

 極端な言い方をすると、家族を相手にすること自体が鬱陶しいように見える。もう、家族とは口を利くのさえ、うるさくてしょうがない、という雰囲気を出している。小三の和也も、もう今の父・和臣には近付きたくなかった。父親は変わってしまった。和也は思った。父・和臣は、まるで別人になったようだ。

 和也には、自分の居るこの家庭、そのものが心配で仕様がなかった。大好きな母親・智美のことも、可哀想だしすごく心配だった。小三という幼い和也には、まだ夫婦の離婚や家族の離別という認識がなく、そういうことにまでは考えが回らなかった。ただただ、この先どうなるのだろうと不安で落ち着かなかった。勉強にも遊びにも、まるで手がつかない。

 机に就いて、不安な心境でいっぱいで、ボーッとしたままでいると、部屋の端の窓がコツコツと鳴った。硬いもので、窓ガラスの一部を叩く音だ。もう夜も遅いので、窓のカーテンは締めてある。和也は一瞬、気のせいかなと思った。ここは吉川家の二階だ。窓を叩く来客がある訳がない。カーテンの、音が鳴った箇所をじっと見つめた。また鳴った。コツコツと、窓ガラスを叩く音。ここは二階なのだ。和也はゾッとした。恐怖心が襲って来た。しかし、カーテンの向こう側が気になる。和也は椅子から立ち、机を離れ、おそるおそる窓に近付いた。

 和也がカーテンの前でためらっていると、「僕だよ」 という声が聞こえた。

 「えっ!?」 思わず和也は声を上げた。確かに声が聞こえたが、何だか妙だ。

 「和也君、心配しなくていい、僕だ。ここを開けてくれ」

 また、声がした。確かに聞こえているのだが、何処か違う。そして、いったい誰なんだろう? 和也は、こわごわとカーテンを開けた。窓ガラスの向こうは闇だ。和也は思いきって、素早く解錠し窓を開けた。

 いきなり、部屋へ何かが飛び込んで来た。和也が振り返り、床に敷いたカーペットの上を見た。

 「床を汚したら悪いが、そんなに足は汚なくない筈だ」

 和也は、驚いて目を丸くした。茶色い毛色の、少し小さめな中型犬。ハチが居るではないか。重たく沈んでいた和也の心に、みるみる喜びが拡がり行く。和也は、嬉しい悲鳴を上げた。

 「ハチさん!」

 「しっ! 大きな声を出さないでくれ」

 ハチの声が聞こえる。しかし、やはり何か変だ。違う。

 「ハチさん、喋れるんだ!」

 ハチは、和也の目を凝っと見つめながら、言った。

 「声に出してるんじゃない。君の心に話し掛けてるんだ。僕は、犬の声帯しか持たない」

 和也は驚きながら、いろいろと頭を巡らせた。和也は、不思議なことごとに興味津々だ。幽霊やお化けから、UFOや未確認生物、オカルトじみたことまで、超自然的なお話が大好きだ。そういった方面の子供向けの図鑑や雑誌、漫画本までいっぱい持っている。和也は、知っている超能力関係の一語を訊いてみた。

 「テレパシー?」

 「まあ、そんなもんだ‥」

 ハチの応えが頭に響いた。やはり直接、音声で話し声を聞くのとは、だいぶ違和感がある。

 「すごいなあ。ハチさんには、そんな能力もあるんだ」

 和也は素直に驚いてみせた。ハチは部屋の中央付近で腰を降ろし、犬特有の座り方をした。手でも開いて出せば 「お手」 でもしそうだ。ハチは何処にでも居る雑種犬、そんな感じだ。しかし、目を見れば明らかに違う。知性の宿る目だ。ハチがまた、話し掛けて来た。

 「実は礼を言いに来たのさ。二度もごちそうをいただいて、どうもありがとう」

 ハチはちょっと、頭を下げた。

 「いえいえ。こっちこそ、ハチさんたちには助けて貰ったりもしてるし、いろいろとあるし‥。でも、喜んで貰えたんなら嬉しいよ。二回目のも、ジャックさんとかも食べてくれたんだ?」

 「ああ。みんなおいしくいただいたよ。昨日の晩は出て来なくて悪かったが、僕たちはあまり目立つのが好きじゃない。出来るだけ、人目に付きたくないんだ」

 「ああそれは、前に、じじごろうさんからも聞いたよ。僕らも、ハチさんたちの邪魔をしないようにしなくちゃね。もう、何人もで訪ねて行ったりしないようにするから‥」

 和也の方を向いていたハチが、首を回して部屋のドアの方を見た。

 「どうしたの、ハチさん?」

 ハチは数秒、黙ったまま、ドア越しに見下ろすようにしていたが、また前を向いて、和也を見た。

 「一階に居るのは、誰と誰だい?」

 「えっ? お母さんとお姉ちゃんと、それとお父さん」

 和也が答えると、ハチは一言 「そうか」 とだけ言った。そしてすぐに、またドアの方を見た。

 「お姉ちゃんが、階段を上がって来るみたいだな。そろそろ失礼するよ」

 「えっ! もう行っちゃうの。でも、そっか、お姉ちゃん来るもんね‥」

 ハチは、ふわっと、軽々と浮いたように跳んで、開いたままの窓の敷居に立った。

 「じゃあな、和也君。また会おう‥」

 ハチは、開いたままの二階の窓から、闇の中へと、上方へジャンプした。

 和也の視界の中で、ハチは住宅地の屋根屋根を越えて、かなり遠くへと放物線を描いて、跳躍と言うよりも、「飛行」 と言った方が相応しいように飛んで行き、和也の視力で必死で追って、見る見る小さくなって、闇の中に溶けるように消えた。和也はしばらく、開けたままの窓から身体を乗り出すようにして、遠くの闇を見つめていた。

 和也がハッと気が付くと、ドアのノック音が続いている。姉・愛子の呼び掛ける声がしていた。ガチャッと、ドアが開いた。少しだけ開いたドアの隙間から、愛子が顔を覗かせた。

 「何だ、和也。起きてるんじゃないの」

 和也はまだ、窓の前で座ったままで、身体を捻るようにしてドアの方へ顔を向けていた。窓は開いたままで、カーテンの端がひらひらしていた。愛子が不思議そうな顔で、和也の方を見た。

 こんな夜遅くに窓が開いているし、多分、和也は窓越しに外を見ていたに違いない。しかも窓は、覗く程度に狭く開けられていたのではない、和也が身体ごと乗り出すくらい、ガラリと開けられているのだ。そして、二階の窓から見える風景はほとんど闇だ。和也は、星でも見ていたのだろうか、それとも、近所の屋根の上に野良猫でも見ていたのか。こんな遅い時間、普段なら和也は、もうとっくに寝ている時間だ。

 「あ、ごめん和也。何回ノックしても、呼んでも返事がないからさ。勝手に開けちゃったけど‥。窓なんか開けて何してるの?」

 和也は、驚いたような顔をしたまま、言葉が出ないでいる。和也は何だか、子供なりに狼狽しているような様子だ。姉の探るような目。二人の姉弟はどちらも黙ったまま、しばし見つめ合った。愛子は、和也の部屋のドアに挟まれて立ったままだ。運動神経の良い愛子は、勘も良い。

 開いたままの部屋の窓の前に、座ったままで居る和也のもとへ、愛子がダッシュして飛び込んで来た。今、愛子は、弟・和也の目の前に座る。愛子の顔は、両目を驚いたように真ん丸に開けて、満面の笑みを拡げた。愛子は自分の両手で、和也の両手首を掴んだ。

 「解ったわ! ねえ和也。スーパードッグが来たんでしょ、ここに?」

 「い、いや‥」

 和也が、小さな掠れ声で否定した。しかし、愛子の目を直視出来ず、下を向いてしまった。

 愛子は、両手で今度は上腕部を持ち、和也の身体を揺さぶった。

 「ねえ和也、お願い。お姉ちゃんに、本当のことを言って!」

 和也は俯いていたが、仕様がなく顔を上げた。子供ながら、本当に困惑した顔をしている。黙ったままだ。愛子は、納得したような顔付きで言った。

 「やっぱり来たのね、スーパードッグが。この部屋に」

 愛子は、喜びで興奮している様子だ。

 「スーパードッグは、あたしには会ってくれなかったかも知れない。だけど、あたしの弟の和也には会いに来た。あたしの住んでる、この家の和也の部屋に!」

 愛子は、今日一日の朝から今までの、嫌なことだらけの最悪の、深い泥溜まりに重たく沈んだ気分が、いっぺんで吹き飛んだような気がした。大袈裟だが、愛子はまだ神様に見捨てられてないような、スーパードッグという神様の使いが、自分の後ろに着いてくれてるような、そんな心強さが身体中に湧いてきた。そんな愛子の様子を、黙って見ていた和也が言った。

 「お姉ちゃん、あのね、ハチさんたちは嫌なんだって。その、人目に着いたりとか、人間に知られるのが。何だか、そーっと生きていたいんだって」

 和也の言葉に、愛子は満面の笑みの中にも、涙目になって応えた。

 「うんうん、解ってるよ。そうだよね、後能君まで誘って、三人もで押し掛けたお姉ちゃんが悪かったんだ。お姉ちゃんが、あまりにも無遠慮で考えなしだった。和也、もしまた今度、ジャックでもハチでもさ、会うときがあったら、あたしのこと謝っといて」

 愛子は、泣き笑いのような顔だ。しかし明らかに、元気を取り戻していた。愛子は右手で涙をぬぐいながら、和也の前から立ち上がった。顔は笑顔のままだ。

 「和也。早く窓閉めないと、虫が入って来るよ」

 和也も立ち上がり、もう一度、窓から外を覗いて見た。ただの闇だ。愛子も二、三歩、窓に近付き、和也の頭越しに外を覗いた。やはり闇だ。

 「ねえ和也。飛んで行ったんでしょ。どのへんまで飛んで行って、消えたの?」

 和也は、姉にはもう、隠し立てしても仕様がないと思い、正直に答えることにした。和也は、夜の闇の中を指差した。

 「あのへん。見えなくなったの‥」

 「ふうん。今日、来たのはどっちだったの、ジャック、ハチ?」

 愛子は、肝腎なことを聴いてなかったと気が付き、和也に尋ねる。愛子にしてみれば、どちらでも良かったのだ。とにかく、スーパードッグがこの家に来た、という事実が重要だった。

 「ハチさん」

 「そっかあ。ハチさんかあ。もう遅いから寝ようか‥」

 和也は窓を閉めて施錠し、カーテンを引いた。姉・愛子は、部屋を出て行った。自分の部屋に戻った愛子は、ベッドに身体を投げ出し、仰向けに寝て天井を見た。まだ身体の節々が痛い。

 和也の部屋を訪ねる前まで、明日の登校が気になって仕方がなかった。はっきり、明日は学校へ行きたくなかった。だが、愛子の今の気持ちは違っていた。あたしは一人ぼっちじゃない。あたしの弟の和也は、特別にスーパードッグと仲良しだ。和也はあたしの弟で、スーパードッグはこの家にまで来たし、あたし自身も少しでも、二度ほど彼らと関わってる。これなら、あたしは明日の学校は恐くない。クラスの連中の冷たい仕打ちにだって耐えられるし、部活のシゴキにだって負けないでいられる。

 愛子は強い気持ちを心に宿し、明日は勇気を持って果敢に、学校に登校しようと思った。

             *                 *

 時系列的に、その少し前。深夜の、住宅地の中の通りを、ハチが歩いていた。

 会社員、吉川和臣を主人とする、吉川家の二階家が立つ、新興住宅地。約15年くらい前から、小さな山や田畑を切り開き、作り上げた新興住宅地で、建て売り住宅を主体に注文住宅も交えて、約60軒くらいの家屋が塊って立つ住宅地だが、その中を縦横に、舗装された道路が通っている。この、ひと塊りの住宅地の周囲は田畑が主であるが、市街地までは車で10分も掛からずに行ける。ここの住人たちは共働き夫婦が多く、主人は自動車や公共交通機関を使って、だいたい一時間前後掛けて、地方の都市部に勤めに出ている者が多い。主婦は、市街地の商業施設や、近隣の中小企業の集まった工業団地などで、パートや非正規で働いている者が多い。

 深夜、様々な家々の明かりは、まだ燈っている。通りには、長い間隔をおいてところどころに街路灯が立つが、街全体はやはりかなり暗い。ときどきだが、マイカー通勤の帰宅者だろう、通りを自動車が走る。このひと塊りの住宅地の出口近くを、とぼとぼと歩いていたハチが、急に止まって首を上げた。前方に大きな黒い影。巨人の影が聳え立っていた。

 ハチが、もう少し近付いた。黒い影は、それ程は巨大でもなかった。上背がせいぜい二メートルくらいだろうか。それでも大男だ。がっしりして背筋が伸び、筋肉質の体格の良い男は、禿げ頭で老人の顔をしていた。腰のところにだけ布を着け、全身裸で立っている。ハチが呼んだ。

 「じじごろうさん!」

 禿げ頭の、裸の老人が応える。

 「ちょっと気になったんでな。来てみたんじゃ」

 「じじごろうさん、こんな住宅地の中を、うろうろ歩いていていいの? いくら夜中だからって、ふんどし一枚の大きな裸の人が歩き回ってると、目立つよ」

 犬のハチは、じじごろうの頭の中に直接、話し掛けている。

 「あん? ワシか‥。ワシは大丈夫じゃ。ワシの周りの空間を、少しだけ曲げておる。人間の目には見えん」

 「じじごろうさんは、大きくて目立つから不便だね。僕なんて普通に犬だから、別に気にされないし、追っ掛けて来るのは保健所くらいだ。それも、逃げれば済むことだし‥」

 遠くで、犬の吠える鳴き声がした。

 「人間の目は誤魔化せても、動物の感覚は誤魔化せんわい」

 大きな老人と一匹の犬は、住宅地の出口へと向かった。

 「で、どうじゃった?」

 「うん。一階から感じた‥」

 「そうか。ワシも、あの家族が公園の森へ来たとき、微かに感じたんじゃが。やっぱりな‥」

 「けっこう強く感じたから、もう間に合わないのかも‥」

 「そうか。もう少し様子を見るしかないな」

 「うん‥」

 じじごろうとハチは、住宅地から大通りへと出て、その内、深夜の闇の中に溶け込むように消えて行った。

   ※ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ編(Ⅰ~12) 終了

    ※ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1) へ続く。 ・・ 次回より新章!

◆(2012-01/01)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(1)
◆(2012-01/19)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(2)
◆(2012-01/26)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(3)
◆(2012-02/06)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(4)
◆(2012-02/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(5)
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