赤いハンカチ

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2011年05月28日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2011.05.28 日比谷公園

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2 コメント

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何を言いたかったんですかね (泥炭)
2011-05-28 20:29:22
> 安心して暮らせる生活などという言い方があるけれど、そんなものは、もともとどこにもないのである・・・曽野綾子
 確かに、そんな風に感じる事が無いではありません。 しかし、この言葉はうっかり敷衍化すると、【平和運動】なんて意味ないって事に成りかねません。 【安らぎの場】を作り出そうとする努力をシニカルに冷笑する事にもなりかねません。 如何なる文脈の中で語られるかによって、全くその役割を異にする危険な言説の様にも感じられます。
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生きていることは多かれ少なかれ他者との戦いなのである (かもめ)
2011-05-30 05:04:55
わたしが挙げた曽野さんの一文は、それだけで明解なのであり、文脈は、関係ないでしょう。きわめて常識的なことですよ。似たような話で、恋に恋するという言い方があるが曽野さんは、その種の観念から発せられる言動は子供じみていると主張しているのです。泥炭さんが、持ち出してきた「平和運動」とか「安らぎの場」なんてのも、わたしには恋に恋するアンポンタンもどきにしか聞こえてきませんよ。平和運動など、あるはずがないではありませんか。無理をして考えてみるに、世界中の兵士から銃を奪ってしまう、または取り上げてしまう運動というなら、そりゃ平和運動と呼べるに違いないでしょうが、どこの馬鹿が、そんな運動をやってきたためしがあります。だが、それ以外に、平和運動と呼べるような、なんの運動が可能なのでしょう。「安らぎの場」にしても、同じことです。それは「死」を意味しているだけのことですよ。
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