世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

野ッ原に復元された建物が並ぶだけの三内丸山遺跡化と思っていましたが、資料館のおびただしい出土品を見るとその歴史の厚みに圧倒されます(日本)

2021-08-08 08:00:00 | 世界遺産
 前回は中止になった2020年の世界遺産会議で登録のはずであったわが国で5件目の自然遺産を紹介しました。今回は、2021年分として登録された文化遺産の北海道・北東北の縄文遺跡群の中から、登録前から知名度が高かった青森県の三内丸山遺跡を紹介します。

 
 
 今回登録されたのは北海道、青森、岩手、秋田に散在する17か所の縄文遺跡群で、ほとんどの遺跡がアクセスに不便で、車が運転できない筆者にとって、唯一公共輸送機関を使って手軽の訪問できる遺跡が三内丸山遺跡でした。青森駅や新青森駅から、市内も観光ポイントをぐるりと回るんぶたんバスで、青森駅からは県営バスで簡単に行くことができます。ねぶたんバスはかわいいいマイクロバスで、効率的に市内のポイントを回ってくれますが、夏場以外は本数が半分になります。また、青森駅起点だと、寄り道の多いねぶたんバスより直行する検疫バスの方が早く着きます。入場ゲートから新幹線が見える、新青森駅の南1kmちょっとくらいの市街地間近にありますが、周りは緑豊かな丘陵地帯です。

 
 訪問するまでは、原っぱに復元された小屋が立ち並ぶだけの遺跡と思っていましたが、ボランティアガイドの方の巧みな話術にはまってしまいました。三内丸山遺跡を訪問される時は、1時間のガイデッドツアーへの参加をお勧めします。三内丸山遺跡は縄文時代前期から中期まで、紀元前4千年から2千年頃まで人々が暮らした大規模集落で、江戸時代からその存在が知られていたそうです。本格的な調査は、1992年に新しい県営野球場が作られることになり、自演調査によって、大規模集落の姿が明らかになり、1994年にはこの遺跡の象徴的な直径1mもある栗の木の柱が発見され、野球場の造営は中止され移籍の保存が決まったそうです。

 
 
 
 
 遺跡跡の公演には多くの復元家屋が建てられ、多くは内部にも入ることができます。6本柱の物御台風の構造物のそばには最大級の大型竪穴柱建物があり、内部は広く屋根までも随分と高く意外なほど広い空間が広がっています。そうかと思えば入り口も内部も狭く数人が入ればいっぱいの建物もあります。ただ、これらの建物はあくまで推定の域を出ず、残されているのは柱を立てた穴の後と、一部に残る柱の残骸だけです。


 見学では、見栄えのする復元建物に目が姥ざれてしまいますが、地味なかまぼこ兵舎風の建物に覆われた場所の方が重要なんです。これらは出土した遺跡を風雨から守るため、少々見栄えの悪い銀色の覆いで保護したもので、北盛土や南盛土と呼ばれるものです。これらの覆いの中には、発掘当時の状態がそのまま保存され、層状に堆積した土器や石器、あるいは子供の墓などが実物として保存されています。復元ではなく、縄文時代の人が残した本物が見られるのです。

 
 
 
 
 出土した遺物は、膨大で、一部が縄文時遊感と呼ばれる資料館に展示されています。出土した柱の一部、土偶、ヒスイの大珠、矢じり、そして土器類です。展示室から地下に下るとさらに圧倒されます、一つは縄文ビッグウォールと名付けられた5,000を越える縄文土器が埋まった地層を6mの高さで切り取ってきたもの、もう一つは高さ4mの棚に所狭しと並べられた土器です。2千年の長きにわたって人々が暮らした歴史の厚さを展示するのは簡単ではないように思えます。復元された建物を見て回るだけなら30分もあれば事足りそうですが、縄文時代人の生活ぶりを垣間見るには、もう少し時間をかけた方がよさそうです。

 筆者が日本史で習った縄文時代はもっと短くて、縄文時代の前に新石器時代があったように思います。現在は、諸説はありますが、わが国では新石器時代といった区切りは無くなり旧石器時代なら縄文時代に移行するようです。このために現在では縄文時代は14,000年ほども続いたものとされています。これらの年代を推定する技術は、いろいろあるようですが、木などの生物体の遺物の場合は放射性同位体炭素14を利用するものです。自然界に存在する炭素14が生物の取り込まれた後の半減期を利用するものですが、生物にしか利用できないという欠点があります。もっと限定的な推定方法が言語年代学で、人類にした適用できません。言語の類似性などを利用するようですが、20世紀初頭に提唱されたようですが、現在のコンピュータによる解析技術を利用すれば、もっと精度が上がるかもしれません。