世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

伊豆松崎の近郊には明治の学舎や天然と人工の洞窟など見どころいっぱいです

2017-11-12 08:00:00 | 日本の町並み
 小海線の中込や雲仙市の神代には木造の校舎が残されていて、かつて学校は未来を担う子供たちへの投資として重要であったことを思わせます。これらの学舎は、かなりの数が全国に残されていて、有名なところでは松本の旧開智学校は重文にも指定されています。重文の学舎がどの程度残されているかを調べると、意外と多いのに驚きます。今回はこれらの中から西伊豆にある岩科学校と、岩科学校のある松崎の郊外を紹介します。

 松崎町は、伊豆半島西海岸の南寄り、鉄道は無く、路線バスで、修善寺から土肥経由で西海岸を南下するか、下田から山越えで西に向かうなど足の便が悪い町の一つです。そのためか、町全体にはのんびりした雰囲気があります。

 
 
 岩科学校は、松崎の中心街から南南東3kmほど、路線バスで10分ほどの距離にあります。岩科学校は明治10年代に建てられた疑似洋館で、建設費の40%余りが住民の寄付で賄われたそうです。それだけ、学校に期待するところが大きかったのでしょう。校長室であった部屋には、校長さんが、教室であった部屋には戦士と生徒の人形が置かれていて、一瞬ハッとします。

 
 
 
 
 建物は、お風呂屋を思わせる唐破風の下にしゃれたバルコニーがあり、なまこ壁の上にはアーチ状の窓があるという和洋折衷のデザインが、それなりの調和を見せています。折衷と言えば、木の床張りの教室の他に畳敷きの和室があり、床の間と違い棚があります。この和室の欄間には、伊豆の長八の作品の鶴の群像の鏝絵があり、破風の上部にあって現在は和室に飾られている鶴も長八作品と言われています。岩科学校からさらに東南東へ2kmほどの永禅寺への道筋は、田んぼが広がるのどかな道に石仏があったり、なまこ壁の古民家があったりで気持ちの良い散歩道です。

 
 
 松崎の郊外には、もう一つ明治の初期に建てられた大沢学舎が残っています。依田佐二平が私財で自邸内に建てた公立校で、現在は道の駅の花の三聖苑に移築されています。三聖苑は市街地の東5kmほど、下田に向かい路線バスで12~13分くらいの場所です。道の駅には温泉があり、この大沢学舎と松崎が生んだ三人の聖人を紹介する三聖会堂などが建っています。大沢学舎は、2階建てですが岩科学校に比べてずっと小ぶりで、上下に一部屋ずつですが、二階にはバルコニーもあって、しゃれた建物です。



 
 これらの学舎は、観光的にさほど有名ではありませんが、松崎付近で鏝絵と並んで有名なな場所が堂ヶ島かもしれません。堂ヶ島があるのは、松崎町ではなく西伊豆町になりますが、松崎からは路線バスで北に10分ほどで、松崎の観光エリアといった感じです。海蝕断崖と洞窟それに三四郎島などがあり伊豆の松島と呼ばれるようですが、ちょっと島の数が少ないようです。海蝕洞窟は、上部から覗いたり船で入ることができますが、よほど凪でないとダメなようです。

 
 一方、南西に3kmほど行くと、室岩洞があります。こちらは、天然の洞窟ではなく、採石場の跡で、江戸時代から60年ほど前まで凝灰岩の伊豆石を切り出していた場所です。洞窟内は2千㎡ほどあり、道路に近い場所の出入り口から、かつて切り出した石を海岸まで運び出した出入口の付近までに電灯が点けられて見学ができます。透明な水をたたえた池などもありますが、かなりマイナーで人影が無く、内部で迷わないか、ちょっと心配になります。

 明治時代の学舎は、趣があって、こんな校舎に通えたらいいなと思います。岡山の吹屋小学校では、ごく最近まで明治の校舎が使われていたようですが、使う立場からは、かなり傷んでいて使いづらい面もあったそうです。このような校舎で、明治時代に、どんな授業が行われたかと思いますが、少なくともタブレット端末などは無かったでしょう。授業にパソコンやタブレットが導入されて、数多くの資料を簡単に見られるようになったのはメリットだと思います。しかし、それらはあくまでイメージ情報で、現代っ子は岐津物に触れる機会が減っているように思います。現場を見ないで、あれやこれやと言う政治家やジャーナリストが多いのも、この流れでしょうか。