世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

日本最古の民間博物館の建物はなくなってしまいましたが、古い町並みは健在の三田です

2011-10-16 08:00:00 | 日本の町並み
 かつては日本で2番目の銀の産出量を誇った鉱山が生野でした。生野鉱山は1円電車で有名ですが、生野銀山近くの明鉱山で走っていたものが混同されたようです。同じ兵庫県の南部には、1円電車とは反対に、全国でも指折りの運賃の高い電車が走っています。今回は、その電車の一方の終着駅である三田(さんだ)を紹介します。

 三田は神戸市の北辺に隣接し、現在は人口11万人ほどですが、阪神間のベッドタウンとして一時期は全国一の人口増加率で膨張をした都市です。30年ほど前までは、神戸電鉄で結ばれていた神戸の衛星都市との位置づけでしたが、JR福知山線が複線電化された25年前から、人の流れが大阪にシフトしてしまったようです。三だから大阪までの距離は、神戸までの2倍ほどありますが、JRの快速に乗れば神戸の三宮までとほぼ同じ45分程度で着いてしまいます。料金は、3つの会社の初乗り運賃が加算される三宮までのほうが高く、2倍の距離のある大阪でも三宮への70%程度の料金行けるとあっては、人の流れが変わるのも無理のないことなのでしょう。

 江戸時代の三田は、鳥羽藩から移封された九鬼氏の城下町で、城跡は三田小学校の校庭となって跡形もありませんが、神戸電鉄の三田本町から城跡にかけて、城下町の風情を残しています。表通りを大名行列が通るので、見下ろしてはいけない!とのことから2階の開口部の小さな背丈の低い家並みが続きます。出格子や虫籠窓の開けられた塗り込めの壁など、保存の良い古民家が残されています。壁が黒漆喰で塗られているためか、やや地味な感じで、人通りの少ない通りとあいまって、町の顔をちょっと寂しくしているようにも思います。
 
 一方、少し西の小高い場所には三田カトリック教会があって、真っ白で軽やかな教会の建物は、好対照です。面白いことに、この教会の門には九鬼藩時代に建てられた屋敷門が残され使われています。

 
 古民家の町並みから城跡に向かう通りが五差路に突き当たったところには、九鬼家家老の末裔が明治初期に建てた旧九鬼家住宅が残されています。春夏冬の休みの期間の前後と、秋は11月いっぱい、1階部分が公開されています。1階が和風、2階が洋風の折衷建築で、2階にはバルコニーがあって洒落た感じが気になるところですが、年間に10日ほどしか公開されません。公開期間の長い1階部分は、資料館となっていて、昭和初期の頃と思しき生活用具が展示されていて、当時を知るものには懐かしく、若い人には使い道の分からない道具もあるようです。

 旧九鬼家住宅の城跡寄りにある駐車場のそばには、三田博物館と彫り込まれた大きな石碑が立っています。かつて、ここには日本初の民間による博物館があった名残なのだそうです。この博物館は、幕末に三田で生まれた後に、綾部藩の九鬼氏の養子となり、後に高級官僚となった九鬼隆一が、自身の収蔵品を展示する場として大正時代に旧有馬郡役所を改装して開設したものです。しかし、戦時色が濃くなってきた1941年には閉館となりましたが、建物だけは1960年代までは存在していたようです。しかしながら、市の施設を作る際に邪魔になるとの事で、あっさりと壊されてしまったことは残念です。石碑のそばのパネルによると、中央の2階にバルコニーを持った明治期の木造洋風建築だったようです。取り壊された時期は、古建築の価値に対する認識が少ない頃だったのでしょうか。

 三田と大阪とを結ぶ福知山線は、痛ましい事故で全国的に有名になってしまいました。事故を契機に、列車の異常速度を検出できるATS-Pや緊急列車停止装置が導入され、事故を未然に防ぐために停止させるシステムが揃いました。ところが、その後の報道では、せかっくの安全装置が取り外されたり、電源が切られたりしていたしていたことが明らかになりました。コンピュータを始め、システムには安全を守るため2重3重のガードを組み込むことが通例です。しかし、それを運用する人間の安全に対する意識が低く、セキュリティ機能を解除してしまうなどの行動をとることも多いように思います。