世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

足の便の悪い所に、かつての銀山で潤った残り香の町並みが残る生野です

2011-10-02 08:00:00 | 日本の町並み
 ジャングルが島全体を覆う自然豊かな島が西表島でしたが、この西表島にもかつては炭鉱があったのだそうです。最盛期の1930年代には年間13万トンを掘り出していたようですが、石炭の層が薄いことから1960年に休止となったそうです。一方、日本を代表する銀山は、世界遺産に登録された石見銀山と生野銀山でしたが、どちらも産出量が減って、現在では操業を停止しています。石見銀山はすでに紹介しましたから、今回は石見銀山の大森の町並みと同様に、興味ある町並みの残る生野を紹介します。

 生野は兵庫県の北部の朝来市の一部で、生野銀山の鉱山町の跡は生野町口銀谷(くちがなや)の銀山まち回廊と呼ばれる地区で、かつての鉱山関連の家並みなどが残されています。最大の古民家は、まちづくり工房として公開されている井筒屋です。筆者が訪問した時は、たまたま休館日の月曜日で内部は見ることが出来ませんでしたが、生野銀山の採掘権を持っていた吉川家の本邸の跡で、兵庫県の景観形成重要建造物にも指定されている堂々たる民家です。
 旧吉川家を南に、東西に流れる市川にかかる橋に出ると、かつて生野駅と銀山の本部を結んでいたトロッコ軌道のレールの跡が、一段低いところの川沿いに残されているのを見ることが出来ます。生野の鉄道というと、かつて一円電車を思い浮かべる方もおられるかもしれません。しかし、この一円電車は、生野銀山と同じ朝来市にあった明延鉱山で走っていたもので、鉱石を運ぶ鉄道が一円の運賃で乗客も運んだようです。
 まちづくり工房を東に行くと、生野銀山を操業していた三菱マテリアルの迎賓館として使われていた生野クラブの建物があります。この建物も、明治初期に当時採掘権を持っていた松本家の邸宅として建てられたものです。






 これらの豪邸の跡とは対照的に、さらに東に行くと、官営の鉱山で働く官吏のため明治初期に建てられた赤い生野瓦で葺かれた官舎の一部も残されています。ただ、この官舎跡は、豪邸とは言えないかもしれませんが、現代の狭い住居に住んでいる庶民の感覚からは、ずいぶんと贅沢な作りのような気もします。




 
 官舎跡から、表道路の北側に斜めに入る通りを西に戻ると寺町が続きます。但陽信用金庫会館の裏まで8つの寺が、丘の麓に連なっており、高山の東山地区などとも似たような景色です。一方、但陽信用金庫会館は、生野が発祥の地である但陽信用金庫が、建てた文化施設です。70周年を記念して美術館の新館を増築した建物は、音楽ホールとして使われる旧来の洋館と併せて、こんな山奥に、こんな洋館が!とちょっとびっくりします。

 
 但陽信用金庫会館のところから、まちづくり工房に戻る途中の生野小学校の校庭の角には生野代官所跡のかなり大きな石碑が建っています。江戸時代に銀山の管理のための拠点として設けられたものですが、代官所の前身は、やはり銀山の管理のための平城があり、徳川幕府の時代に天守を壊して代官所としたようです。

 小学校の東の町並みにも、古い町家が残されています。出格子のある家や、板張りの大きな妻面を持つ家があったり、おそらく銀山に何らかの関連があったのであろうと思われる堂々とした家が残っています。

 銀は洋食器などの宝飾性が目立つ金属ですが、最も電気抵抗の小さな金属なのです。通常使われる銅の送電線の代わりに、同じ太さの銀を使えば、途中で熱となって失われる電気エナルギーが10%ほど減る勘定です。もちろん、銀では価格が高くって、とても使うのは無理でしょうが。ちなみに、接点などに使われる金の電気抵抗は銀の1.4倍くらいなのですが、金の錆びにくさを利用したものです。