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カルタゴ遺跡は、遺跡の向こうに広がる地中海の青さも魅力的です(チュニジア)

2010-01-24 08:00:00 | 世界遺産
 先代の王のお墓を囲うようにして作られたお城がソウル南の華城でしたが、生贄にささげた子供のお墓の遺跡が残るのがカルタゴのトフェと呼ばれる共同墓地です。今回は、チュニス郊外に広がるカルタゴ関連の遺跡群について紹介します。

 カルタゴ遺跡は、北アフリカのチュニジアの首都チュニスの東10kmほどの海岸沿いにいろいろな種類の遺跡が散らばっています。チュニスからはTGMという郊外電車でチュニス湖の堰堤を通り抜け30分ほど乗ると、遺跡群の入り口になります。

 カルタゴは、ご存知のように紀元前8世紀ごろにフェニキア人によって作られた植民地とされ、強大な海軍力により、紀元前3世紀ごろまでに地中海沿岸の北アフリカやシチリア島などの島々、さらにイベリア半島の南部までを支配下に置いたようです。やがて、ローマと覇権を争うようになり紀元前2世紀前後に 100年に及ぶ3階のポエニ戦争でローマに敗れて国が消滅しました。カルタゴの遺跡は、カルタゴ消滅までのものは、あまり残っておらず、ローマの植民地の頃の遺跡が目立つようです。

 前述のトフェ遺跡は、チュニスに最も近い遺跡の一つで、フェニキア人が生贄にした子供たちのお墓群です。
 
2万個に及ぶ子供の骨が入った壷が発掘されているようですが、極めて地味遺跡で、気が付かないで通り過ぎそうな感じです。遺跡の中は、たくさんの墓石となる石柱が雑然と並んでいるだけで、2,000年以上も前の遺跡という実感は薄いのが正直なところです。ただ、この遺跡はローマ征服後のローマ文化による遺跡ではなく、カルタゴのネイティブな遺跡には間違いなさそうです。

 カルタゴ遺跡群で中心的な存在がビュルサの丘になります。駅を降りて、暑い中を登っていくのは大変ですが、頂上からの眺めはすばらしいものがあります。紺碧の地中海をバックに手前にはポエニ時代の遺跡、そして遠景には緑の中にカルタゴが港に使っていたという入り江も見えます。
 
ビュルサの丘はカルタゴの中心的な場所であったらしく、2,000年以上も前に、当時のフェニキア人もこのような景色を眺めていたのでしょうか。丘の頂上には博物館が建っていて、ローマ時代を中心としたモザイクなどが陳列されていますが、モザイク画のコレクションでは、チュニス市内にあるバルドー博物館のものが絶大で、モザイクに興味のある人はバルドー訪問をお奨めします。

 一方、残された遺跡の規模で大きなものは、アントニウスの共同浴場です。巨大な壁や天井の一部が残されていて、圧倒的な大きさをしています。ローマ人はよっぽどお風呂が好きだったんでしょうか、ローマの遺跡の中には風呂場の遺跡をあちこちで見かけます。ここからの地中海の眺めも美しくて、遺跡のそばのより眺めの良さそうな高台には大統領官邸が建っていました。

 この遺跡の近くには、ローマ劇場があります。トルコなどでもよく見かける、丘の斜面を利用し、半円形の階段状の観客席の底の部分に舞台のある劇場です。ここの劇場は、いまだ現役で、夏場にはオペラなども上演されるようです。いかつい音響機器が階段状の観客席の途中に設置されていました。

 カルタゴを作ったフェニキア人が発明した文字がフェニキア文字で、アジアやアフリカで使われている多くの言語の文字の起源と考えられています。聖書によれば、バベルの塔を建てようとした人間に怒った神が、世界の言葉を乱して、民族間で言葉が通じなくなったとされていますが、元々の共通語は、フェニキア語だったのでしょうか。インターネットの世界では、圧倒的に英語による情報が多く、英語圏の人間が圧倒的に有利になっています。これを救うために、web上で自動翻訳をしてくれるサイトも増えましたが、設計者が英語圏の方なのでしょうか、英語への翻訳は英語っぽく見えますが、日本語への翻訳はほとんど使い物になりません。神様を怒らせていなければ、ネット・サーフィンはもっと便利だったかもしれませんが、ウィルスに感染する機会も増えていたかもしれません。