世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

北陸地方に多い本願寺派の寺院に加えて北前船の残照も残る伏木

2008-10-12 16:14:25 | 日本の町並み
 伊勢地方の一向宗の本拠地は一身田の専修寺ですが、一向宗というと北陸地方での勢いが強く、その中でも越中の瑞泉寺と勝興寺とは一向一揆の中心勢力でした。今回は、そのうちの勝興寺の寺内町を擁し、古代において越中国の国府が置かれ、後には海運で栄えた伏木を紹介します。

 伏木は、富山県高岡市の北辺の富山湾に面した町で、JRの氷見線の伏木が最寄り駅となります。この氷見線には、忍者ハットリくんのキャラクタが車体の内外に描かれたディーゼルカーが走っています。

作者の藤子不二雄A氏が氷見の出身であることにちなんでいるようです。ちなみに、コンビを組んでいた藤子不二雄F氏は高岡の出身で、小学校の頃の藤子不二雄A氏の高岡への引っ越しが2人のコンビの始まりだったようです。氷見線は高岡からの支線で、通勤、通学時を除いては1時間半に1本ほどのローカル線ですが、藤子ファンの中には、この列車に乗るために来訪する方も居るのではないでしょうか。

 勝興寺は、伏木駅から西に向かうだらだら坂を上った正面に小ぶりな総門と唐門をくぐった先に巨大な本堂があります。訪問したときには本堂以外は解体修理中で本坊などは鉄骨造りの素屋根に覆われて、その姿を見ることはできませんでしたが、七不思議の一つといわれる本堂の屋根を支える猿の姿はなんとなく確認できました。この猿、実は天邪鬼で、法隆寺の五重塔でも軒を支えていますが、真宗寺院にあるのが珍しいとか。

 この勝興寺に上る坂の途中に、消防署の望楼のような塔を持つ建物があります。入ってみると、伏木気象資料館との表示があり、日本で最初の私立の測候所とのことで、現在も無人で観測データを送り続けている現役とのことです。

このため、富山の気象情報のうち高岡の部分の地名が伏木になっています。私立の測候所が生まれた背景には、伏木港の存在があり、船の航行に重要な気象データを得ることが目的でした。遠く、万葉の頃からの良港は、江戸時代には北前船の中継港として、町の発展に寄与してきたようです。

 この北前船で富を得た豪商の館跡が北前船資料館で、勝興寺の手前を右に入ってしばらく北北東に行ったところ、高台の崖の端のような場所に建っています。こちらの家にも望楼のような当夜があって、純和風の家屋の屋根の上ににょっきりと突き出しています。

ここから、入港する船を監視していたようで、狭くて急な階段を上ると、崖の下の町並みの向こうに伏木港がよく見えます。崖の下の町並みの中にも、格子のある家並みなどが残っていて、北前船で繁栄した頃の余韻を感じます。

 この町並みの先に、小矢部川を渡る如意の渡しがあります。ほんの200m余りの距離の渡しで、小さな船で5分くらいで対岸に着いてしまいますが、義経伝説にも登場する由緒ある渡しです。義経と弁慶が奥州に逃げ延びるときに、この如意の渡しに差し掛かり、乗船というときに渡守に義経であることを見破られてしまったそうです。弁解が持っていた扇で義経を打ち据えるという機転で無事に船に乗れたということですが、この話に似た逸話を聞いたことがありませんか。舞台は石川県の安宅の関で、関守とのやり取りがそっくりです。実は、この安宅の話は、如意の私の事件を元に、能や歌舞伎の勧進帳で脚色されたものなのだそうです。

 如意の渡しで義経だと見抜いた渡し守は、どのような情報を基にしていたのでしょうか。もちろん写真などは無い頃ですし、似顔絵といってもその手配書的な紙媒体を全国に配布するのも大変だったのではないでしょうか。曖昧な情報を元に判断するのは、人間の第六感が大いに働いたのではないかと思います。通信手段の発達した現在の手配書は、鮮明な写真入のものが、短時間のうちに全国津々浦々に伝送されて、現代の義経一向は逃げるのがもっと難し駆ったかもしれません。ただ、最近の犯罪の検挙率は下がり続けているようにも思います。大都会に逃げ込めば探すのが難しいとも言われています。過度の情報の氾濫などで、人間の感も鈍ってきているのでしょうか。


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