京都の南西の入り口にかつての長岡京の遺跡があって、旧西国街道沿いには古い商家が残されているのが向日市でした。西国街道は、京都を起点に下関まで伸びていて途中の50の宿場町がありましたが、参勤交代の時に大名が宿泊する本陣が残っているのは、たったの3か所で郡山宿、矢掛宿それに神辺宿です。今回は西国街道で本陣が残る最も西の旧神辺宿周辺を紹介します。
旧神辺宿は、広島県の福山と塩町とを結ぶ福塩線の途中駅で、、やはり本陣と脇本陣が残る矢掛を通る3セクの井原鉄道の分岐点です。兵庫県出身の筆者は、カンナベと聞くと兵庫県の数少ないスキー場の神鍋を思い出しますが、ナベの字が違います。福塩線の神辺駅は南北方向で旧西国街道は福塩線と交差するように東西内伸びています。本陣跡は、駅の北東方向500m程のところで、駅から北に400mほど、東に曲がって300mほど歩いた所です。ただ本陣内は土日祝日のみの公開でしたので見学はし損ねました。
旧本陣までの道々に古い町並みが広がっています。多くが1階は出格子がある茶色の連続で、京都でもあまり見かけなくなったばったり床几らしき移行も見られます。2階部分は土蔵造りのなまこ壁が連なります。これだけのボリュームで古い町家が連なる風景も感動ものです。このような町並みの中にレトロな洋館がぽつりぽつりとあって、アクセントを加えています。
本陣跡を通り越してさらに北東方向に進んでも同じような町家の景色が続き、天寶という銘柄の造り酒屋もあります。高屋川の手前まで行くと、特別史跡の廉塾跡があります。簾塾は神辺出身の菅茶山が京都で朱子学を学んだあと、当地で開いた塾の跡で、頼山陽も塾頭を務めたことがあるそうです。塾の遺構と菅茶山の旧宅跡が残されています。
この近くには、旧山陽道神辺宿跡の石碑があり、石碑の碑文には秀吉が朝鮮の役の帰りに立ち寄ったといわれる館の跡とも言われているようです。
廉塾跡からの戻り道は本陣跡の通りではなく、南に通り越しさらに国道を通り越した先には黄葉山をバックに天別豊姫神社があります。古代に神辺当たりがまだ瀬戸内海の入り江だったころからの歴史がある古いお社で、神辺の地名はこの神社に由来するのだそうです。鳥居だけでなく、手前にある灯ろうも威厳があるように感じます。
簾塾が開いた菅茶山が学んだ朱子学は12世紀に中国の朱熹が構築した儒教の一つで、仏教や道教に対抗する新たな学問の一つとされています。中国で発祥や発展した思想の経典は語録という形を取り、キリスト教や仏教とは異なる形態です。最も仏教らしい仏教と誤解されている禅宗も語録で成り立っていますが、ほとんど道教の思想に立脚していて、仏教の思想とは随分と違います。語録は教祖などが話した言葉を、そのまま記録したものでしょうから、弟子などによる脚色が無くオリジナルの考え方が保存されているのかもしれません。ただ、現在のように録音などの記録媒体は無くて手書きで記録したでしょうから、どこまで正確なのか・・・。ただ、正確な電子的な記録が普及した現在でも、記録内容は政治や宗教権力などによって簡単に改変されるでしょうが。
旧神辺宿は、広島県の福山と塩町とを結ぶ福塩線の途中駅で、、やはり本陣と脇本陣が残る矢掛を通る3セクの井原鉄道の分岐点です。兵庫県出身の筆者は、カンナベと聞くと兵庫県の数少ないスキー場の神鍋を思い出しますが、ナベの字が違います。福塩線の神辺駅は南北方向で旧西国街道は福塩線と交差するように東西内伸びています。本陣跡は、駅の北東方向500m程のところで、駅から北に400mほど、東に曲がって300mほど歩いた所です。ただ本陣内は土日祝日のみの公開でしたので見学はし損ねました。
旧本陣までの道々に古い町並みが広がっています。多くが1階は出格子がある茶色の連続で、京都でもあまり見かけなくなったばったり床几らしき移行も見られます。2階部分は土蔵造りのなまこ壁が連なります。これだけのボリュームで古い町家が連なる風景も感動ものです。このような町並みの中にレトロな洋館がぽつりぽつりとあって、アクセントを加えています。
本陣跡を通り越してさらに北東方向に進んでも同じような町家の景色が続き、天寶という銘柄の造り酒屋もあります。高屋川の手前まで行くと、特別史跡の廉塾跡があります。簾塾は神辺出身の菅茶山が京都で朱子学を学んだあと、当地で開いた塾の跡で、頼山陽も塾頭を務めたことがあるそうです。塾の遺構と菅茶山の旧宅跡が残されています。
この近くには、旧山陽道神辺宿跡の石碑があり、石碑の碑文には秀吉が朝鮮の役の帰りに立ち寄ったといわれる館の跡とも言われているようです。
廉塾跡からの戻り道は本陣跡の通りではなく、南に通り越しさらに国道を通り越した先には黄葉山をバックに天別豊姫神社があります。古代に神辺当たりがまだ瀬戸内海の入り江だったころからの歴史がある古いお社で、神辺の地名はこの神社に由来するのだそうです。鳥居だけでなく、手前にある灯ろうも威厳があるように感じます。
簾塾が開いた菅茶山が学んだ朱子学は12世紀に中国の朱熹が構築した儒教の一つで、仏教や道教に対抗する新たな学問の一つとされています。中国で発祥や発展した思想の経典は語録という形を取り、キリスト教や仏教とは異なる形態です。最も仏教らしい仏教と誤解されている禅宗も語録で成り立っていますが、ほとんど道教の思想に立脚していて、仏教の思想とは随分と違います。語録は教祖などが話した言葉を、そのまま記録したものでしょうから、弟子などによる脚色が無くオリジナルの考え方が保存されているのかもしれません。ただ、現在のように録音などの記録媒体は無くて手書きで記録したでしょうから、どこまで正確なのか・・・。ただ、正確な電子的な記録が普及した現在でも、記録内容は政治や宗教権力などによって簡単に改変されるでしょうが。