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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

名前は恐ろしい九鬼ですが、曲がりくねった道の先に見える入り江はゆったりしていました

2010-04-11 08:00:00 | 日本の町並み
 渋い色の赤がわらの上に1対のライオンをかたどったシーサーが乗っている町並みが沖縄の壷屋でしたが、海に向かってライオンが吼えているような岩があるのが熊野の獅子岩です。この獅子岩の近くに鬼ヶ城という海食洞があり、七里御浜という砂浜をはさんで鬼と獅子が対峙しているという構図です。今回はこの熊野といきたいところですが、20kmほど北東に寄った九匹の鬼という地名の九鬼を紹介します。鬼ヶ城の鬼たちのふるさとは九鬼だった、ということはないでしょうが。

 九鬼は三重県の南部の尾鷲市の一部で、JR紀勢線で名古屋方面から行くと尾鷲から2駅乗車した無人駅が最寄駅となります。リアス式海岸の入り江の奥にある漁村ですが、明治のころには大阪と名古屋を結ぶ定期航路の途中寄港地だったのだそうです。湾名が深く、天然の良港だったからかもしれません。
 
JRの九鬼駅は、湾の最深部にありますが、九鬼集落は、湾口に向かう行き止まりの道を1kmあまり行ったところにあり、岬の崖に重なるように家並みが上に伸びています。ただ、付近の地形は平地が少ないようにも思いますが、九鬼集落のあたりだけはかなりの平地もあって、海と崖下の間を甍の波が埋めています。
 
訪れた時はあいにくの雨で、かさを差して坂を上ったり下ったりするのは、少々難儀をしましたが、高台から見ると屋根瓦が雨にぬれて光っているのが印象的でした。

 明治期には定期航路の寄港地だったということですが、江戸時代には風待ちの港として栄えていたようです。漁村には珍しく、町並みの中に残る土蔵や格子のある家はこのころの繁栄の名残のようです。
 
さらに江戸時代より以前の室町期には、水軍の根拠地でもあったようで、現在は眠ったような町ですが、歴史的には活気のある町だったのです。JRの駅からの道路が行き止まりとなるアクセスの悪さが、かえって水軍の基地には好都合だったのかもしれません。かつては、陸路の道路はなく船でしかアクセスできなかった時代が長かったそうです。

 ところで、九鬼という怖い地名の由来ですが、この土地に九匹の鬼がいたというわけではなさそうです。鬼というのは鬼道とも言われる修験道に由来していて、その九番目の拠点道場があった場所という説が有力です。熊野信仰の修験道は、三重県から奈良県にかけて、大峰山や熊野三山など多くの霊場を持っています。鎌倉から室町時代にかけて、新宮から始まって九番目の修験道場が九鬼に作られたことが地名になり、やがてここを拠点とする豪族の九鬼氏を生んだようです。

 九鬼の町並みは、駅からの道路に沿った細長い平地とその終点付近の平地に加えて、その背後の山に伸び上がる傾斜地で構成されています。まっすぐな道路はなく、どの道も微妙に曲がりくねっていて、進む方向を見失ってしまいます。傾斜地に作られた階段も、行き止まりや、上ったと思ったらいったん下らないと更なる高みには上れない道など、町全体が迷路状態です。この迷路状態が、この先に何があるのだろうとの期待感を持たせてくれます。
 

曲がりくねった路地には、手入れのよい草花の鉢なども並べられていましたが、雨のせいもあってかほとんど人通りがありませんでした。筆者の子供のころには、このような路地で遊んだものですが、九鬼には子供じたいがいるのでしょうか。

 和歌山県や三重県の山岳地帯や沖縄などの離島では、通常の携帯電話が使えない地域も多いようです。携帯電話会社が、通話できる地域のカバー率を99%以上などと宣伝をしていますが、この数値は面積の比率ではありません。人口カバー率といって、利用できる人の人口が、全人口の何%かという数値です。山の中にはほとんど人が住んでいませんから、そこが圏外であっても数値にはほとんど影響しないのです。おそらく、面積率で計算すると和歌山県などは2/3程度ではないかと思います。山で遭難して、携帯電話で救助を求めた、ということが報道されることがありますが、たまたま電波が飛んだに過ぎず、衛星携帯でない限り、山岳地帯では携帯は役に立たないと考えたほうが無難です。日常的に使うコミュニケーションツールなので、何処に居ても使えると思いがちですが、携帯依存症の人が、不感地帯に行ってしまうと、気が変になってしまうのでしょうか。


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