廻船業と製塩業で栄え数多くの古い商家が軒を連ねている町があ格子の坂越でした。瀬戸内地方は天ヶ少ない気候を利用して、古くから製塩業が栄え、塩の付く地名も多く残っています。今回は、それらの中から、同じ兵庫県の塩屋を紹介します。塩屋の製塩業は古墳時代にまでさかのぼり、鉢伏山の頂上南面に6世紀の古墳がありますが、この古墳の主はこちらで塩を作っていた人々のものであろうと推定されています。現在の塩屋は、製塩の名残は全く見られず、山が海に迫る地形に旧異人館が残る町になっています。
神戸市の西にある、須磨駅の西には鉢伏山塊が海に迫って、海との間の狭いところにJR、山陽電鉄それに国道2号線が折り重なるように走っています。渋滞のために車で通り抜けるのに難所の一つになっています。この山塊が少し後退するあたりが塩屋で、山塊が緩やかな丘として垂水あたりまで続いています。義経の一の谷伝説は鉢伏山塊の南斜面で、志木皇子が「岩ばしる垂水の上のさわらびの・・・」と詠んだ場所も塩屋と垂水の間にある山陽電鉄の滝の茶屋駅近くだったと言われています。交通の難所は裏返せば、景色の良い場所で、その景色の良さから塩屋から垂水にかけての山の手に異人館建てられました。神戸の異人街と言えば、北野町が有名で、仕事場の居留地から坂を上るだけという地理上の有利さから、数も多くの異人館が建てられました。一方、塩屋の丘陵地帯は、居留地からは遠いというハンディはありますが、目の前に海が広がり、その向こうには淡路島を望め、別荘的な位置づけだったのかもしれません。


塩屋の異人館の元祖的な存在が旧ジェームス邸で、塩屋と滝の茶屋の間の高台にあって、一帯はジェームス山と地名にまでなっています。昭和初期にイギリスの貿易商が私邸とイギリス人のための住宅地を開発したものです。その後、私邸は、電機メーカの創始者の所有を経てメーカの所有となり、現在は、結婚式場とレストランとして使われています。芝生の庭の向こうに明石海峡そしてその向こうに淡路島が望める絶好の眺めが楽しめるようです。このために、望淡閣の名前が付けられています。一方の宅地は、現在も外国人向けの高級住宅街で、一帯が私有地の外国人専用居住区として、立ち入り禁止になっています。
旧ジェームス邸が海岸から遠い高台の異人館とすれば、旧ジョネス邸は、国道の海寄りで塩屋駅の近くの海岸のそばに建っていました。大正時代に英国人の貿易商によって建てられ、昭和38年に国鉄の複々線化工事のために、西に500mほど移築されました。ところが、2013年に、地域住民の保存運動もむなしく、解体され、跡地にはマンションが建っています。木造鉄筋コンクリート2階建て和洋折衷様式で、取り壊し前の写真によると、ステンドグラスなど洋風の部屋の混じって和室もあったようです。



異人館の中で、唯一無料で公開されているのが、旧グッゲンハイム邸で、塩屋駅のすぐ山側にあります。毎月第三木曜日に内部が見学でき、その他の時間は、各種の教室などに貸し出されています。明治末期にドイツ人の貿易商の指定として建てられたコロニアル様式の木造2階建てで、グッゲンハイムは3年ほど住んだだけで、その後は持ち主が点々とし、社員寮としても使われました。阪神大震災で被害を受け、取り壊しの恐れがありましたが、現在のオーナーが私財を投げうって購入・修復し現在のような運用形態で保存されることになりました。

このほかにも、旧グゲンハイム邸の窓からも見える旧後藤邸や竹内邸など、塩屋駅の近くに散在していますが、どちらも居住中で非公開です。その中で、塩屋駅の西北の高台の安養寺の裏手にある洋館の存在がミステリアスです。いろいろと、資料を探してみましたが、該当するものがありません。洋館の入り口は、安養寺川の坂の下と、駅からは裏手になる道路側にありますが、どちらも鎖で固定され、そばにはブルーシートなどのゴミと思しきものなどが打ち捨てられ、居住者が要る気配がありません。ところが、ある日、傷んだ感じの洋館が、ペンキの塗り直しなどの手が入ったのか綺麗になりましたが、やはり人の気配はありません、不思議です。
塩屋の東の源平の古戦場と言われる一の谷のあたりの3種類の交通路がひしめく場所は幅が40~50mほどしかありません。ここで、、奇襲を受ければ逃げ場所が無さそうと想像できますが、この古戦場の場所は2説あっていまだに論争のもとになっています。須磨の一の谷説に対して、兵庫区の鵯越説で、こちらも説でも義経は背後の山から奇襲をかけたようです。通信手段がほとんど無い時代では、不意打ちは効果的だったでしょうが、行ってみたら敵は居なかった!ってこともあったかもしれません。現代では、偵察衛星なども含めて、ありとあらゆる手段で、相手側の情報を収集して、世界中に居る味方に伝達できてしまいます。これらの情報を」基に、コンピュータシミュレーションで、勝ち負けを推定して、実戦をやらなければ無駄な破壊や人命の損失が無いでしょうに。
神戸市の西にある、須磨駅の西には鉢伏山塊が海に迫って、海との間の狭いところにJR、山陽電鉄それに国道2号線が折り重なるように走っています。渋滞のために車で通り抜けるのに難所の一つになっています。この山塊が少し後退するあたりが塩屋で、山塊が緩やかな丘として垂水あたりまで続いています。義経の一の谷伝説は鉢伏山塊の南斜面で、志木皇子が「岩ばしる垂水の上のさわらびの・・・」と詠んだ場所も塩屋と垂水の間にある山陽電鉄の滝の茶屋駅近くだったと言われています。交通の難所は裏返せば、景色の良い場所で、その景色の良さから塩屋から垂水にかけての山の手に異人館建てられました。神戸の異人街と言えば、北野町が有名で、仕事場の居留地から坂を上るだけという地理上の有利さから、数も多くの異人館が建てられました。一方、塩屋の丘陵地帯は、居留地からは遠いというハンディはありますが、目の前に海が広がり、その向こうには淡路島を望め、別荘的な位置づけだったのかもしれません。




塩屋の異人館の元祖的な存在が旧ジェームス邸で、塩屋と滝の茶屋の間の高台にあって、一帯はジェームス山と地名にまでなっています。昭和初期にイギリスの貿易商が私邸とイギリス人のための住宅地を開発したものです。その後、私邸は、電機メーカの創始者の所有を経てメーカの所有となり、現在は、結婚式場とレストランとして使われています。芝生の庭の向こうに明石海峡そしてその向こうに淡路島が望める絶好の眺めが楽しめるようです。このために、望淡閣の名前が付けられています。一方の宅地は、現在も外国人向けの高級住宅街で、一帯が私有地の外国人専用居住区として、立ち入り禁止になっています。
旧ジェームス邸が海岸から遠い高台の異人館とすれば、旧ジョネス邸は、国道の海寄りで塩屋駅の近くの海岸のそばに建っていました。大正時代に英国人の貿易商によって建てられ、昭和38年に国鉄の複々線化工事のために、西に500mほど移築されました。ところが、2013年に、地域住民の保存運動もむなしく、解体され、跡地にはマンションが建っています。木造鉄筋コンクリート2階建て和洋折衷様式で、取り壊し前の写真によると、ステンドグラスなど洋風の部屋の混じって和室もあったようです。






異人館の中で、唯一無料で公開されているのが、旧グッゲンハイム邸で、塩屋駅のすぐ山側にあります。毎月第三木曜日に内部が見学でき、その他の時間は、各種の教室などに貸し出されています。明治末期にドイツ人の貿易商の指定として建てられたコロニアル様式の木造2階建てで、グッゲンハイムは3年ほど住んだだけで、その後は持ち主が点々とし、社員寮としても使われました。阪神大震災で被害を受け、取り壊しの恐れがありましたが、現在のオーナーが私財を投げうって購入・修復し現在のような運用形態で保存されることになりました。


このほかにも、旧グゲンハイム邸の窓からも見える旧後藤邸や竹内邸など、塩屋駅の近くに散在していますが、どちらも居住中で非公開です。その中で、塩屋駅の西北の高台の安養寺の裏手にある洋館の存在がミステリアスです。いろいろと、資料を探してみましたが、該当するものがありません。洋館の入り口は、安養寺川の坂の下と、駅からは裏手になる道路側にありますが、どちらも鎖で固定され、そばにはブルーシートなどのゴミと思しきものなどが打ち捨てられ、居住者が要る気配がありません。ところが、ある日、傷んだ感じの洋館が、ペンキの塗り直しなどの手が入ったのか綺麗になりましたが、やはり人の気配はありません、不思議です。
塩屋の東の源平の古戦場と言われる一の谷のあたりの3種類の交通路がひしめく場所は幅が40~50mほどしかありません。ここで、、奇襲を受ければ逃げ場所が無さそうと想像できますが、この古戦場の場所は2説あっていまだに論争のもとになっています。須磨の一の谷説に対して、兵庫区の鵯越説で、こちらも説でも義経は背後の山から奇襲をかけたようです。通信手段がほとんど無い時代では、不意打ちは効果的だったでしょうが、行ってみたら敵は居なかった!ってこともあったかもしれません。現代では、偵察衛星なども含めて、ありとあらゆる手段で、相手側の情報を収集して、世界中に居る味方に伝達できてしまいます。これらの情報を」基に、コンピュータシミュレーションで、勝ち負けを推定して、実戦をやらなければ無駄な破壊や人命の損失が無いでしょうに。