因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝公演『やさしい猫』

2024-02-09 | 舞台
開幕を寿ぐ
*中島京子原作『やさしい猫』(中央公論新社刊) 小池倫代脚本 丹野郁弓演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 11日終了 
 関係者に体調不良があり、3日の初日が8日に延長された。無事に開幕後は満席の盛況。劇場は舞台を待ちかねる観客の熱気に満ちていた。

 中島京子の『やさしい猫』は、シングルマザーの保育士ミユキとスリランカ人青年クマラの出会いから結婚を外国人の在留資格認定問題を軸に、ミユキの娘マヤの視点から語られた長編小説だ。読売新聞夕刊に連載ののち2021年刊行、多くの賞を受賞し、NHKでテレビドラマ化もされている(未見)。先が気になってどんどんページをめくりながら、読み進むのが怖くなるほど物語に引き込まれた。素晴らしい小説だ。しかしドラマに対して否定的な意見が少なくない。不法滞在、つまり犯罪を助長する内容を公共放送がドラマ化してよいのか等々、SNSにはほとんどヘイトスピーチに近い猛烈批判が溢れている。

 この件についてはウィシュマさん死亡事件(Wikipedia)が即座に想起され、またNHK・Eテレ「ねほりんぱほりん」2023年12月8日放送の「在留資格がないまま育った人」、NHK「首都圏情報 ネタドリ!」2月2日放送の「埼玉・川口市がクルド人めぐり国に異例の訴え なぜ?現場で何が?」 など、『やさしい猫』の主人公への同情、対する入国管理局(以下入国)側への批判という簡単な図式では捉えられないと思われる。

 原作は、ミユキの娘マヤが「キミ」と呼ぶ誰かに対して書き記しておくという形式で進行する。手紙というより親しみやすい語りのような文体だ。そしてタイトルの「やさしい猫」とは、クマラの故郷スリランカの民話で、ねずみの夫婦を食べてしまった猫が、両親を失った子ねずみたちの悲しみと窮状を知って深く後悔し、「ねずみの赤ちゃんたち、うちにも三匹の赤ちゃんがいるよ。わたしがみんな一緒に育ててあげるよ」という物語である。肝心なのは猫側が相手に対して無意識であったということだ。相手の心を知ることにより、考え方や行動が変わったのである。これは、外国人不法滞在者のことを知らずにいる多くの日本人、わたしたちを指すと言ってよい。わたしたちは果たして「やさしい猫」になれるのかという問いを投げかけているのである。前記のように、原作には読み進むのが楽しみな反面、ほんとうにこの家族は幸せになれるのか、もしだめだったら…と胸が締め付けられるような緊迫感がある。しかしそんな読者の不安を包み込むような終幕と、マヤが「キミ」と呼んでいたのが誰であるかがわかったときの幸福感といったら!

 舞台は短いシーンと暗転を繰り返しながらテンポよく進む。ミユキの森田咲子、クマラの橋本潤、ミユキの母マツコの船坂博子はじめ、適材適所の好配役だ。

 原作の舞台化にはさまざまなハードルがあることだろう。しかしそれは逆に「旨み」でもあり、原作のどこをどのように活かすか、あるいは描かないかが見どころとなる。

 マヤは舞台の進行役にはならず、小説の語り口が活かされたのは終幕のみであった。舞台を構成する上で賢明であったかもしれない。ただ残念だったのは、入管職員としてミユキたちに極めて事務的に対応し、希望を拒絶しながら、救い主とも言える恵弁護士を紹介した上原という人物の扱いである。物語に陰影と奥行をもたらし、非常に重要な役割を果たすのだが、舞台の上原は恵弁護士の職員(記憶あいまい)となっていた点だ。入管=悪という単純な図式ではなく、相手もまた血の通った同じ人間であること、歩み寄る可能性があることが舞台でどう描かれるのか、ぜひ見たかったのだが。

 原作を読んだゆえの疑問や残念な気持ちが決定的な躓きにならなかったのは、俳優の誠実な演技である。特に裁判の終盤で、クマラが泣きながら「妻と娘を愛しています」としか言えなくなる場面である。通訳(望月ゆかり)は「繰り返しですが、訳します」と、それまで淡々と訳していた人が、自身の心の昂りを必死で抑えながら、おそらくある決意を以て繰り返し訳するところであった。相手の言葉を正しく適切に訳し、伝えることが通訳の第一の義務である。今、この通訳はそこからはみ出そうとしている。職務に誠実に取り組むがゆえの激しい動揺や小さな決意が、思わず表出してしまった。クマラ以上に通訳の存在が劇的効果をもたらしており、胸を打たれた。
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