今の政治家の魅力がないのは、言葉を大事にしないからであり、大義がないからではないか。野田佳彦首相のように、役人の言いなりになってまで、政治家であろうとするのは、あまりにも卑しくはないか。恥というのものを感じないのだから、付き合いきれない種族なのである。「聖書にこれあり。赦さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し。間違いをした事がないといふ自信を持っていゐる奴に限って薄情だといふ事さ。罪多き者は、その愛深し」(『春の枯葉』)と太宰治は書いているが、木で鼻をくくったような話しかできない連中には、太宰の思いは理解できないに違いない。神の前に頭を垂れて、赦しを請うのが人間なのであり、弱さをさらけ出せるからこそ、他人に優しくできるのである。かつて映画監督の大島渚が、梶山清六の渋みを絶賛していたのが思い出されてならない。和服でも着せれば、役者として通用する貫禄があったからだ。一見悪役に徹しているかのようであっても、恥ずかしそうに、苦笑いをする瞬間があった。野田内閣の閣僚には、そうしたスターは見当たらない。ドジョウと居直られては話にならないが、国民に希望と目標を与えてくれるかどうかは、リーダーの資質にかかっており、やっぱり政治家はチャーミングでなければ。
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