民主党政権やマスコミは口をつぐんでいるが、私たち日本人は、放射性物質によるゆるやかな死を受け入れるしかないのだろう。福島第一原発事故は、取り返しがつかない禍をもたらした。依然として事態は収束しておらず、2、3年もしないうちに、子供たちの健康被害が出ることが危惧されている。ユダヤ人であった妻ゲルトルードがナチスに殺された場合のことを考えて、自殺すらも肯定したのがヤスパースであった。「ゲルトルードを暴力から守ってやることができない場合には、私も死なねばならない」(『運命と意志』・林田新二訳)と書いたのは、嘘偽りではなかった。最愛の者がいなくなれば、それにともなう喪失感も深刻である。しかし、ナチスのように、私たちが収容所に送られて、ガス室に叩き込まれるわけではない。目の前に死がぶら下がっていることに気づく人は、滅多にいないから、原発事故に対しての抗議の声も、それほど大きくならない。ヤスパースの良き理解者であった武藤光朗は、他者を必要とする根源的な欲求について、「死の孤独の影の深みへの沈潜にもとづく他人との交わりへの意志」(『革命思想と実存哲学』)という言葉で表現している。武装したナチの軍隊が私たちを取り巻いているのではないが、平和な世界は表面上だけで、かけがいのない他者との愛を引き裂かんとして、死が私たちを包囲しつつある。今こそ私たち日本人は、緩やかな死を待つのではなく、生きるための手立てをつくすべきだろう。残された時間は後少ししかないとしても。
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