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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■キリストの囚人/関根弘興

2016年01月11日 | Weblog
2016/1/11放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
 
 新約聖書のエペソ人への手紙はパウロという人が記したものですが、彼はその中で自分のことを「キリスト・イエスの囚人」と紹介しているんです。不思議な紹介ですねえ。実はこの手紙を書いてる時、彼は不当な逮捕に抗議し、ローマ皇帝に上訴していました。そのため、彼はローマに連れて来られ、裁判を待つ約2年間、囚人として軟禁生活に置かれていたんです。その間にエペソ人への手紙は書かれていったと言われるんですね。

 パウロは自分が投獄されている時には手紙の中で自分を囚人と名乗っているんですが、決して「ローマ政府の囚人」とは言いませんでした。「キリストの囚人なのだ」と書き送っているんですねえ。

 囚人とは捕らわれている人のことですね。キリストの囚人なのですからキリストに捕えられキリストの中に閉じ込められている者だということですよね。人はいろいろなものの囚人になっていると思いませんか? ある人は自分の願いを満たすための欲望の囚人になっています。ある人は自分の感情を抑えることができず、怒りや憎しみ妬みの囚人になっています。ある人は金銭の囚人のようになっているかもしません。またいろんな宗教的な束縛の中で身動きが取れなくなっている人もいるでしょう。

 だいぶ前ですが、ある人が宗教団体からもらったペンダントのようなものをもって私の所に来ました。「このペンダントを処分できないで困っています。だから先生に処分してもらいたいんです。」と言われたんです。「どうして自分で処分できないのですか?」と聞くと、「勝手に処分したら何か悪いことが起こるのではないかと思って怖いからできないんです。」と言われました。ああ、人は小さなことでもいろいろなことに囚われ束縛され不自由にされてしまうんですねえ。

 人生が何によってまた誰によって捕えられているかは大問題です。それによって人生は大きく変わるからです。パウロはローマ政府の囚人として不自由を強いられていました。しかしその状態に確かに肉体は拘束されていましたが、彼は「キリストの中に捉えられているキリストの囚人なんだ!」と言ったんですね。さあ、私たちはどうでしょう。キリストが私たちを捉えてくださるとは強制労働させたり不自由にするためではありません。キリストは恵みと真実に満ちたお方です。ですからこの方によって捕えられた生涯は、平和と愛と赦しが与えられる生涯なんです。キリストに捉えられるキリストの囚人とされることが一番の安心ですね。

 (PBA制作「世の光」2016.1.11放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■人口調査とレビ人/羽鳥頼和

2016年01月09日 | Weblog
2016/1/9放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 今日は旧約聖書・民数記に記されているイスラエルの人口調査とレビ人についてお話しします。モーセによってイスラエルの人々はエジプトを脱出しました。そしてシナイ山のふもとで神からの教えである律法を授けられることになります。まず行われたのが人口調査でした。イスラエルの十二部族が部族ごとに数えられました。その時レビ族つまりレビ人だけはまだ数えられていませんでした。11部族の人口調査が行われた後で特別にレビ人たちの人数だけが数えられました。それから神はイスラエル人の長男を数えて登録するように命じました。そして彼らの代りに同じ数のレビ人を神に仕えさせるように命じたのです。その時神は、「レビ人はわたしのものでなければならない」と言われました。レビ人がイスラエルの代表として神の所有とされ、神のものとして神に仕えることになりました。彼らは礼拝のために奉仕する者となったのです。「主のものとなる」というのはこのレビ人のように神に仕え、神を礼拝する者となるということなのです。

 旧約聖書の詩篇100篇3節ではこのように言われています。
 「主こそ神。主が、私たちを造られた。
  私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。


 創造者である神が人を造られたので、私たちは主のものなのです。人は主のものであり神の羊でもある、と教えています。神は自分のものである私たちを自分の所有物としてではなく羊と見てくださるのです。ですから神は羊飼いのように私たちを守り、導き、養い育ててくれるのです。

 神様は言われます。
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書 43章4節 )

 それで神はどんなに犠牲を払ってでも私たちを幸せにしようとされるのです。実際に神が犠牲にしたのは自分の長男であるキリストでした。人を救うためにキリストを身代わりとして十字架につけられたのです。そのような神が「あなたはわたしのものだ」と言われているのです。ですから私たちは神に仕え、神を礼拝すべきなのです。

 明日は日曜日です。神に礼拝をささげるために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.1.9放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■心を柔らかくして…/岩井基雄

2016年01月08日 | Weblog
2016/1/8放送


 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日は旧約聖書の詩篇95から、「心を柔らかくして」と題して神様の前を歩む人生の幸いを共に考えてみましょう。

 私たちの心はささいな出来事で頑なになることがありますね。柔らかな心、砕かれた謙遜な心になりたいと願うのですが、それは簡単なことではありません。神の民イスラエルも例外ではありませんでした。詩篇95篇6節から聖書をお読みします。
 「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」 詩篇95篇6節から8節

 このメリバやマサというのは場所の名前です。それは神の民イスラエルが奴隷状態であったエジプトからモーセを通して解放され、荒野を旅しているときに不平や不満を爆発させ、神様に怒りを表した場所でした。またこの時、モーセもまた民の姿に怒りを覚え、神様の命じられた方法に従えなかった場所でもあったのです。どんな人でも不平や不満や怒りを露わにする失敗を犯すことはあるのですねえ。イスラエルの王ダビデもまた同じでした。彼は自分の大切な部下の妻を奪い、子どもができたことが分ると、それをごまかす策略を巡らし、遂にはその部下を殺害させるという罪を犯したです。その罪はダビデの頑なな高慢の心から生まれました。しかしダビデは神様から自分の罪を示された時、心からその罪を認め、悔い改め、柔らかな砕かれた心に変えられたのです。どんな人も傲慢な思いや不平不満から来る怒りから自由になることはできません。しかしその罪を認め、悔い改めるときに、神様はその罪を赦し、あなたの心を和らげ、他の人に対しても柔和な祝福の器としてくださるのです。

 聖書のことば
 「 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。
」 聖書 詩篇51篇17節

 あなたも神様の前に心を静め、自らの頑なさや罪を認め、神様から祝福される人生の祝福、祝福の人生を歩み出しませんか? 神様はあなたを愛してくださるのです。

(PBA制作「世の光」2016.1.8放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神がしんがりとなられる / 福井 誠

2016年01月07日 | Weblog
2016/1/7放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「神がしんがりとなられる」です。
 それではイザヤ書52章12節から読んでみましょう。
 「あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。

 聖書には読み方があると思いますね。やはり歴史書や預言書はその背景をよく理解することが大切です。預言者のイザヤの頭には先のように語った時、イスラエルが戦争に敗れ捕虜として連れ去られた具体的なイメージがあったのでしょう。エルサレムがバビロンに攻められて焼野原となり、ユダヤ人はその惨劇にただ悲しみへたりこむしかありませんでした。しかも悲しみに沈む余裕もなく急きたてられるように、更に捕虜として遠い異国の地に連れ去られていくのです。戦争に負けたが故に彼らは何の値踏みもされずにただの奴隷としてひったてられていく惨めさを味わいました。

 しかしたとえそんな出来事が起こったとしても、神との絆は断たれることはなく、神はもう一度彼らを救い出してくださる、と語っているのですね。そして「エルサレムの廃墟がやがてもう一度再建され、イスラエルが喜びの声を上げる時が来る。そのようにイスラエルを導きイスラエルが解放されるために神がしんがりとなって守られる時が来る。」と預言するのです。

 この預言はやがて歴史的な事実となり、エルサレムは一度バビロンという国に滅ぼされますが、ペルシャの時代に祖国を再建することになります。なぜ神様はそのようにされるのか、それは神が救いの神であることを知るためである、とイザヤは続けて言います。神を認めず神に従わなかったイスラエルは、自業自得で自らの滅びを刈り取る歴史を歩みましたが、それでも神を認め神に叫び求めた時に彼らは奴隷の苦しみから救い出されました。それは苦難にある私たちに対する希望を与えるためのメッセージです。私たちは自分の愚かさのゆえに人生に失敗したと思うことがあるものですが、そこで悔い改めて神を呼び求めるならば、神は私たちを救う神となってくださることを決して忘れてはならないのです。

(PBA制作「世の光」2016.1.7放送でのお話より )

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■モーセのしゅうとエテロ (その1) / 板倉邦雄

2016年01月06日 | Weblog
2016/1/6放送


世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「モーセのしゅうとエテロ その1」ということでお話ししましょう。

モーセの義理の父はミデヤン地方の祭司エテロでしたねえ。エテロは故郷(ふるさと)において神がモーセとイスラエル国民になさったすべてのことを聞きました。すなわち主という名の神がイスラエルの人々を奴隷の地エジプトから導き出されたことを聞いたのです。そこでモーセのしゅうとエテロは、先に送り返されていましたモーセの妻チッポラと二人の孫ゲルショムとエリエゼルを連れて故郷(ふるさと)を旅立ちました。

 そしてモーセのしゅうとエテロはモーセの妻子を伴って荒野に行き、神の山シナイ山に宿営しているモーセの所にやってきたのです。

 それにしても実の娘と二人の孫を連れてミデヤンの地から何と200キロメートル以上離れたシナイ半島のシナイ山のふもとまで旅をしてきたしゅうとエテロさんの気持ち、私は少し分ります。私も五人の孫を与えられ、孫や義理の娘のために何でもしてやろうという思いがあるからです。孫は私たちの人生の最後に於いて天の神様からの喜びですよ、ということばが老エテロの口から聞こえて来るようです。

 さて、その時ある人がモーセに伝えました。「ご覧なさい。あなたのしゅうとエテロさんはあなたの妻と二人の子を連れてあなたの所に来られます。そこでモーセはしゅうとを出迎えて身をかがめ、彼に口づけして互いに安否を問い、共に天幕に入りました。

 そしてモーセは、主なる神様がイスラエルのためにパロ王様とエジプト人とになされたすべてのこと、旅の途中で出会ったすべての苦しみ、また主なる神様が自分たちを救われたことをしゅうとに語り聞かせました。エテロは主なる神様がイスラエルをエジプト人の手から救い出して、様々な恵みを賜ったことを心から喜んだのでした。

 ところでモーセのしゅうとエテロの立派さが浮き彫りになってきましたねえ。一つは、苦労したモーセの物語を聞いてあげたことです。人は話を聞いてもらうだけでも90%は問題が解決するということです。もう一つは、主なる神様にすべての栄光と喜びを表したということではないでしょうか。

 聖書のことばです。
 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
  詩篇103篇2節

 (PBA制作「世の光」2016.1.6放送でのお話より )

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■主の祈り-44  /  大嶋重徳

2016年01月05日 | Weblog
2016/1/5放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった主の祈りという祈りがあります。主の祈りは「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」ということばで祈ります。

 ではこの祈りは何を祈っているのでしょうか。それは、「神様。試みや試練にあわせないでください。悪からお助けください。」という意味です。助けてください!という悲鳴にも似た叫びを祈りとしなさいと教えられているのです。私たちは祈りにおいて悲鳴をあげて良いのです。助けてください!という祈りは自分の弱さを認めると言うことです。誘惑に遭う時、試練に遭う時、弱くて自分では立てませんと認めることです。もしかするとそのような祈りをいつも私はしていますという方がおられるかもしれません。

 しかし一方で、もしかすると私たちは祈りにおいても自分の弱さを本気で認めたがらないということがあるのではないでしょうか。昔からキリスト者はいろんな非難の声を聞いてきました。信仰を持つなど弱い者がすることだ、そんな声を聞くと私たちは、「いや信仰とは逃げ場所じゃないんです、信仰とはむしろ弱さから打って出るように力強いものです。」と言います。確かにこれも正しい言い方かもしれませんが、信仰に逃げこむ弱さを一所懸命に打ち消し、弱いと思われることを嫌だと思っている面もあるのかもしれません。

 しかしこの祈りは私たちは弱さをきちんと認めて、助けてください!と祈るようにと命じているのです。私がある時、疲れ切って教会の祈祷会に行きました。牧師に、「大嶋さん、疲れてますねえ。」と言われました。「はい。いろいろと大変な問題があって。」 すると牧師が、「もう少し神様を信頼したらどうですか?」と言ったのです。助けてくださいと祈らない自分がそこにいました。私たちが祈らない領域を持っているなら、そこにこそ自分の力を信じたい領域があり、そこにこそ祈りの声をあげなさいと神様がお語りになっているのです。皆さんが神様に、助けてください!と自分で祈らない領域とはどのような領域でしょうか。家族のことでしょうか、仕事のことでしょうか、あるいは将来のことでしょうか。私たちは「試みにあわせないでください」と祈りながら大胆にすべてのことを祈りたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2016.1.5放送でのお話しより )

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■未来を見つめて / 関根弘興

2016年01月04日 | Weblog
2016/1/4放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
 
 人生には二つの見方があると言われます。一つは過去を基準にして今を見るという見方です。過去を振り返って、昔は良かった、昔は悪かった、だから今の人生はこうだああだという、こういう見方ですね。もう一つは未来というものを見ながら今を見るという見方です。これは新約聖書の多くの手紙を書いたパウロという人の見方でもありました。彼はエペソ人への手紙の中で、イエス・キリストにある者はみなキリストと共に生かされ、よみがえらされ、天の所に座す者とされたのだ、と記しています。(※) つまりパウロは、永遠のの将来の約束をしっかりと見つめて、その約束に根差して今という毎日をキリストと共に生きてことができるのだ、それがクリスチャンとしての生涯なんだと記しているんですねえ。

 人生にはいろんなことが起こってきます。楽しいこともあれば苦しいこともありますよね。多くの人は、ちょっと悪いことが起こると、過去を振り返って、あああの時あんな事をしたからバチが当たったんじゃないかとか、私の熱心さや信仰が足りなかったからこのことが起こったのかもしれない、などと否定的に考えることがあります。しかし聖書は神様を愛し生きる一人ひとりのためには悲しみや困難さえもすべてを働かせ益としてくださるのだと約束しているのです。そういう聖書の約束に支えられて私たちは未来を見つめ今を生きることができるんですね。

 また新約聖書のヤコブの手紙1章の2節(から4節)という所には、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」 こう記されています。私たちが経験する困難や試練は、あなたを落ち込ませ失望させるためにあるのではなく、私たちに忍耐を教え、私たちを謙遜な者へと成長させるためにあるのだと教えているんです。

 新約聖書の使徒の働きを読んでも、当時たくさんの困難や迫害がありました。どう見てもマイナスとしか見えないようなものが、次から次へとプラスに変えられて、結局多くの町に福音が伝えられていったのです。万事を働かせくださる神様を信頼し、歩んでいきましょう。

 ※ エペソ人への手紙 2章5節、6節 「 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 ----あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。---- キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」

 (PBA制作「世の光」2016.1.4放送でのお話しより)

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■神を住まいとする/羽鳥頼和

2016年01月02日 | Weblog
2016/1/2放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 明けましておめでとうございます。今日は2016年最初の土曜日です。今年もよろしくお願いします。今日は旧約聖書の詩篇91篇からお話しします。

 この詩篇は困難にあっても必ず神の救いがあるという確信を告白しています。エジプトで、バビロンで、イスラエルは囚われ奴隷となりました。しかしその時、神はイスラエルを救い出してくださいました。同じように困難の中にある人を神は必ず救い出してくださると確信しているのです。それで神のことを「わが避け所、・・・、私の信頼するわが神。」(2節)と呼んでいます。

 「避け所」とは避難する所、避難所のことです。そして神が避け所であることを神を親鳥にもたとえて、「神はご自分の羽で覆われる」(参照 4節)と言います。禍から逃れようとする人に神が自ら羽を広げて守ってくださるというのです。私たちはその翼の下に身を避けるのです。

 更に、避難する人は避け所である神を住まいとするので災いはもうその人には届かない、と言います(参照 5~9節)。「住まいとする」(9節)とはいつも守ってくださる神のそばにいるということです。

 そしてこの詩篇には、神を住まいとした者の三つの幸いが教えられています。

 第一に、神は「あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」(11節) 神はあなたをどんな危険からも守ってくれるのです。

 第二に、神は「苦しみの時にあなたと共にいてあなたに救いと誉を与えられる。」(参照 15節)  神はあなたと共にいてあなたをより良い者としてくださるのです。

 第三に、神は「あなたを長い生命で満ちたらせてくださる。」(参照 16節)  神はあなたに満ち足りた人生を与えてくださるのです。

 今年一年、良い年となることを願います。しかし困ることは必ずあります、ぜひ神を忘れないでください。そうすればいつも神は共にいてくださいます。神を住まいとすることができるのです。神を住まいとする人は困難な時にこそ神を信頼する人です。そしてその人は神を愛し神に祈り神を礼拝するのです。

 明日は日曜日です。キリスト教会では神を礼拝します。あなたもぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.1.2放送でのお話より )
 
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■人生の祝福と神への賛美/岩井基雄

2016年01月01日 | Weblog
2016/1/1放送

 世の光の時間です。明けましておめでとうございます。岩井基雄です。

 私たちは様々な夢や希望を抱いてこの新しい年を始められたんではないでしょうか。この新しい年も皆さんと一緒に、神様のことばである聖書に親しみ、少しずつでも学びを進めながら1年を送らせていただきたいと願っています。どうぞよろしくお願いします。

 私たちは何より幸いな人生を求めますね。しかし聖書が語る幸いな人生とは、自分の思いのままになる人生ということではなく、神様の祝福を受けた人生であり、自分だけではなく他の人にもその祝福が及んでいく人生なのだと語っています。そして神様はあなたを祝福しようと待っていらっしゃるのです。
 聖書はこう記しています。
 「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
            旧約聖書イザヤ書30章18節

 神様はこの年も様々な恵みと憐みをあなたに与えてくださいます。しかしそれは私たちの思い通りにすべてが行くということではありませんでしたね。私たちの思いや願いをはるかに超えて神様は素晴らしい恵みをあなたにお与えになり、そして神様の祝福は思いがけない出来事の中にさえあるからです。この愛と恵みの神様に期待し、どんな状況の中でも神様に信頼を置き、待ち望むならば、幸いはすべての人に注がれていくのです。

 またこうも記されています。
 「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。・・・地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。
            旧約聖書 創世記12章2節、3節

 これは神様を信頼し、従い続けたアブラハムという人に語られたことばですが、聖書が語る神様に信頼し従うすべての人もまた他の人々にその祝福を届けることのできる祝福の器とされるのです。この新しい年も天地万物すべてのものを造られた神様を信頼し心から賛美しほめ讃えていきましょう。そして神様に養われ導かれる祝福の人生を歩ませていただきたいと願います。

 聖書ことば
 「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。 」          旧約聖書 詩篇95篇6節、7節

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