♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■目は体のあかり / 板倉邦雄

2016年01月20日 | Weblog
2016/1/20放送

 板倉邦雄です。 今日はですね「目は体のあかり」という題でお話ししましょう。私の妻は昨年、両目を白内障のために手術しました。白内障は目の水晶体--レンズ--が濁ってきて、やがて見えなくなるのです。イエス様が「あなたの目は体の明かりである」と言われた意味が少し分ります。

 ではここでルカの福音書11章の33節から36節を読んでいただきましょう。
 「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう。」(口語訳聖書)

 ここでイエス様が言いたい事は何でしょうか。「体の目が澄んでいれば全身も明るいが、目が悪くなれば体全体が暗くなって不自由になるでしょう。だからあなたがたの心の目も悪くならないように注意しましょう。心の目が濁ってきますと心の内が暗く沈んできて全身が不自由になるからです。」

 このイエス様のことばからしますと、私たち人間には二つの体が存在するようです。一つは目に見える肉体の体です。もう一つは目に見えない霊的な体です。私たち人間は他の動物や植物とは異なり、肉体と霊そして魂という三つの構造によって成り立っているようです。ですから体の健全さと霊と魂すなわち心の健全さの両方が必要なのです。

 では霊魂・心の目が濁って来たらどうしたらいいのでしょうか。心という体全体が暗くなったらどうしたらいいのでしょうか。心を構成すると考えられる理性や感情そして意志が暗くならないようにしたいものです。心が暗くなるのは、私たちの罪の性質から来るようです。ですから汚(けが)れた罪を取り除くことが必要ではないでしょうか。

 自分ではできません。汚れた罪を取り除くことができるのは魂の医者でありますイエス・キリストだけです。イエス様は私たちの罪の汚れを取り除くために神の小羊としてこの世に来てくださいました。

 次にこの霊魂の医者であるイエス・キリストを信じて委ねることが必要ではないでしょうか。イエスは言われました。丈夫な人には医者は要らない。要るのは病人である。わたしが来たのは義人を招くためではなく罪人を招くためである。マルコの福音書2章17節

 (PBA制作「さわやか世の光」2016.1.20放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■鷲の翼に載せて/板倉邦雄

2016年01月20日 | Weblog
2016/1/20放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「鷲の翼に載せて」という題でお話ししましょう。

 私が中学生だった頃、スーパーマンというテレビドラマが流行していました。それを見ていた私は、空を飛んでみたいなあ、と願ったものです。ところが聖書を通して、神様は私たちを鷲の翼に載せて運んでくださると言うのです。

 さてイスラエルの人々はエジプトの地を脱出して3ヶ月目にシナイ半島の荒野に入りました。そしてついにシナイ山のふもとに到着します。その山の前で宿営することにしました。ちなみにシナイ山はシナイ半島の先端にあり、海抜2,273メートルの荒々しい岩だらけの山です。「モーセの山」(※ジェベル・ムーサ「モーセの山」)とか「神の山」(出エジプト記 3:1、4:27、18:5 、24:13 他)とも呼ばれています。

 さてモーセは久しぶりに神の山へ登って行きました。すると主なる神様は山からモーセを呼んで言われました。
 「いいですか。次のようにヤコブの家すなわちイスラエルの人々に言いなさい。『あなたがたはわたしがエジプト人にしたこととあなたがたをわしの翼に載せてわたしの所に来させたことを見ました。それでもしあなたがたがまことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民族に優ってわたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる国民となるであろう。』」(出エジプト記19章3節~6節)

 これはシナイ山で主なる神様がイスラエルの人々と結ばれた約束ですのでシナイ契約と呼ばれています。この契約の前提は主なる神様の一方的な恵みでした。奴隷だったエジプト脱出も一方的な神様の働きでしたね。脱出した目的は荒野で心から神様を礼拝するためでした。そして神様が鷲のような大きな翼の上に載せてイスラエルの人々を神の山・シナイ山まで運んできたのです。この主なる神様の一方的な恵みに感謝し、へりくだって主なる神様の声を聞き、信頼して従うならばイスラエルの人々と共にまた私たちも神の宝となるのです。そして神様の宝である神の民となった人々は全地の人々のお役に立つ民族となり、国となってゆくのです。祭司の国民となると言うことは、神様と人々の間に立って執り成しの祈りをする、聖なる区別された神のためにお役に立つ人となる、と言うことです。

 (PBA制作「世の光」2016.1.20放送でのお話より )

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■主の祈り - 46 / 大嶋重徳

2016年01月19日 | Weblog
2016/1/19放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。

 聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった主の祈りという祈りがあります。主の祈りは「我らを試みにあわせず悪より救い出だし給え」と祈ります。

 試みにあわないように助けてください、と祈りるようにイエス様はおっしゃいました。この祈りは、私は弱くてだめですから、と神様の懐に逃げ込むことができる祈りです。事実そのように助けていただかなければならない弱さを私たちは持っています。しかし私たちはなかなか試みにあうと弱くてだめだと認めることができません。

 なぜ弱さを認めることができないのでしょうか。自分は神様抜きで生きていける、そう言う強い人間なのだと言いたい弱さを持っているからです。この祈りは自分の弱さを神様に知っていただく祈りなのです。

 「悪より救い出だし給え」ということばは直訳すると、「悪しき者から助けてください」という意味です。この場合の悪とは抽象的な悪全般ではありません。具体的なあの悪、この悪という悪の持つ一つ一つです。私たちはイエス様が再びいらっしゃって、すべての悪から完全に勝利してくださるまで世界に満ちている悪意に傷つけられてしまうことがあります。

 更に世界に満ちる悪だけではありません。自分の内側の中の悪の問題も深刻です。私たちは自分の人生を振り返るとどうしてあんな馬鹿なことをやってしまったんだろうと後悔することがあるのではないでしょうか。悪しき者にぐらりと足元をすくわれてきた歩みをもっていると思います。思いがけないひどいことばを口にしたり、やってはいけないと思うことに手を出してしまったりする。ほんの気晴らし程度に始めたことがもう取り返しのつかない悪習慣になってしまっている。そんなつもりではなく口にした小さな陰口がある人の人生を取り返しのつかない状況に追い込んでしまったことがある。私たちの弱さは悪の力の虜になってしまっているのです。この自分の弱さをきちんと認めることからのみ始めることが祈りの姿勢の中には必要なのです。この祈りは自分の中にある悪に目を背けずに、「助けてください」と祈る悔い改めから生まれる祈りです。ここに自分の悪を認め、神に助けを求めるへりくだった祈りの扉が開くのです。

  ( PBA制作「世の光」2016.1.19放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■今のわたしに/関根弘興

2016年01月18日 | Weblog
2016/1/18放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。

 新約聖書のエペソ人への手紙はパウロが記しました。彼はその手紙の中で、自分のことを「キリスト・イエスの囚人」と紹介したんですね。このことは前回お話しましたね。そしてパウロは自分自身のことを「すべての聖徒たちの内で一番小さな私」というふうにも自らを記しているんです。つまり自分はすべてのクリスチャンの中で最も小さい者だと言っているんですね。で、このことばは「最も小さい者よりも更に小さい私」と訳せることばなんです。こういうことばを読むと、パウロ先生、何とご謙遜な、と思いますよね。

 私たちは時々必要以上に自分を卑下することばを使うことがあります。けれども本心は違うことが多いんですよね。「いやあ私など無に等しく、取るに足りない者です。」と言う人に「本当にそうですねえ。」って言ったら怒って帰ってしまった、なんてこともあるわけですよね。謙遜であることと、謙遜そうに見せることでは大分違います。パウロはどうだったのでしょう。

 パウロは「すべての聖徒の内で一番小さな私」と語りましたが、自らうなずきながら記していったんです。また他の手紙の中では私は「罪人の頭です」と語っているほどです。
 実はパウロには自分の過去に大きな負い目がありました。それは若い時、クリスチャンを迫害していたからです。彼は最高の教育を受け、律法を厳格に守る生活を送り、世間の評判も高く、自分に自信をもって生きていました。彼はイエス・キリストの福音を知らず、クリスチャンを撲滅することが正しいと信じ、激しく教会を迫害していったんです。

 しかし彼はクリスチャンを捕らえるためにダマスコという所に向かう途中、まばゆい光の中でキリストに出会い、キリストに捉えられ、その後人生が180度変わっていくんですねえ。彼はそれまでは、「人は律法・戒めを守ることによって、神の前で義とされる」と語っていました。しかし今は「人はただ神の恵みによりキリストを信じることによって救われるのだ」と語るようになったのです。神様の敵であったようなパウロでした。そんな彼がイエス様に出会い、自信をもって「神の恵みによって私は今の私になりました」と語る者となっていきました。

 いかがでしょうか。私たちも小さい者ですけれど、「神の恵みによって今の私になりました」と自信をもっているそんな生涯とされていきたいですね。

 (PBA制作「世の光」2016.1.18放送でのお話しより)

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■人の族長のささげ物/羽鳥頼和

2016年01月16日 | Weblog
2016/1/16放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 エジプトを脱出したイスラエルの民は神に命じられた通りに、神を礼拝する幕家を完成しました。完成したのはエジプトを脱出して2年目の1月1日でした。旧約聖書の民数記7章には、幕家とその中の聖なる器具、祭壇などの聖なる備品を聖別して神に捧げる奉献式のことが記されています。

 その時12人の族長が捧げものをしました。聖書にはその事が丁寧に記されています。ここで一人の族長が捧げたものを挙げてみましょう。

 まず、銀の皿二つ(※銀の皿と銀の鉢)と穀物の捧げ物。皿は1.5kg と800グラムのもの。穀物の捧げ物は小麦粉とそれに少しの油を混ぜたもの。これらを二つの皿一杯に入れました。次に、110グラムほどの金の柄杓とそれに一杯の香料。それから全焼のいけにえとして若い雄牛一頭、子羊一頭、一歳の雄の子羊一頭。そして罪のためのいけにえとして雄山羊一頭。さらに、和解のいけにえとして雄牛二頭、雄羊五頭、雄山羊五頭、一歳の雄の子羊五頭。12人が全く同じものを毎日12日間かけて捧げました。

 民数記7章ではその様子を12名の族長ごとに捧げたことが繰り返し同じように語られています。つまり捧げられた日にちと族長の名前が違う他は全く同じ文章が12回繰り返されているのです。聖書はこのように丁寧に語ることによって族長たち一人ひとりが信仰を持って厳粛な思いで捧げたことを教えています。

 このことからイスラエルの人々が気付いたことがあります。それは二年前は奴隷であったイスラエルがエジプト脱出する時、既に非常に多くの家畜が一緒であったということです。神に捧げるものも、あらかじめ神によって与えられていたのです。

 神は今も多くの恵みを私たちにも与えてくださっています。ですから私たちもイスラエルのように捧げ物をしたいと思います。最もよい捧げ物は神への礼拝です。

 明日は日曜日です。神を礼拝するために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.1.16放送でのお話より )
 
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■謙遜さから学ぶ知恵と富 / 岩井基雄

2016年01月15日 | Weblog
2016/1/15放送


 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。今日も旧約聖書に登場するヤコブの人生について学んでみたいと思います。

 彼は神様によって内側から変えられた人でした。ヤコブはおじラバンによって騙され、14年を超える年月、このおじに仕えることになってしまいました。それまで人を押しのけて祝福を奪い続けてきたヤコブでしたから、誰かから騙されるという経験はこの自分の姿を客観的に見るそして知る機会となったのかもしれませんね。自分を騙したラバンに14年間も忠実に仕えたヤコブは任せられていた羊や山羊たちの世話をも誠実に続け、おじの家に富や祝福をもたらしました。誰かに痛みを与えられると、私たちはいつか仕返しをしたいと考えてしまいやすいですが、ヤコブは神様からの取扱いを受けていたのですね。

 甥のヤコブの忠実な奉仕を喜んだラバンはヤコブに「望む報酬は何か」と尋ねた時、ヤコブは当時弱い存在だとされていた種類の山羊や羊だけをまとめます。ヤコブは誰が見ても不利な条件を自分に課したのです。しかし神様はそのことをも祝福に変えてくださいました。神様はヤコブが山羊や羊の品種改良に成功するように導かれ、その弱いと言われていた羊を強くし、増やしてくださったのです。神様はヤコブを富ませ、彼の人生の歩みをも祝福してくださいました。

 聖書にはこう書かれています。
 「こうして弱いのはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった。それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」 旧約聖書 創世記 30章42節、43節

 神様は時に私たちに知恵を与え富をゆだねられます。しかし、どんなことも背後にあって働かれるのは全能者である神様です。そしてこのお方によって導かれるとき、私たちはどんな境遇や状況をも感謝を持って受け入れ、そのすべてを恵みと祝福に変えてくださる神様に信頼して歩み続けることができるのです。

 聖書のことば
 「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」 旧約聖書 詩篇37篇 3節から5節

 神様に依り頼み、どんな時にも誠実に歩むものとさせていただきましょう。

(PBA制作「世の光」2016.1.15放送でのお話しより)

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こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■私たちはいやされた / 福井 誠

2016年01月14日 | Weblog
2016/1/14放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「私たちはいやされた」です。
 それではイザヤ書53章 5節から読んでみましょう。
 「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

前回もお話しましたが、先の52章からこの53章にかけてイザヤのメッセージの前提にはバビロン帝国によってイスラエルが滅ぼされる歴史的出来事があります。しかしこれは預言的なメッセージですから。イザヤのことばを直接聞いた当時の人々は、まだバビロン帝国によるエルサレム崩壊を体験していませんでした。誰もまともに自分たちの国が滅びるなどというメッセージを受けとめることのできる人は居なかったのです。確かに神はイスラエルを救ってくださった。エルサレムを再興してくださったと認め、歴史に働く神を認め、喜びを覚える事ができたのは後の時代のイスラエルの民であったのです。

 今の日本に住む私たちにとっては、そういう歴史的出来事があったのか、と読み過ごしてしまいそうなものですねえ。そしてこれは預言的なことばと言うよりも後の時代に創作された部分もあるのではないかと考える人も多いでしょう。

 しかしこれを預言として捉えて、神のみわざと理解する人には素晴らしい神の祝福のメッセージになります。というのも、ここには私たちに関わるもう一つ重要なメッセージが重ねられているからです。いつも、聖書の預言は二重預言で、当時の預言と同時に今の私たちに対する預言もある、と話している通りですが、ここには苦難のしもべ、つまりイエス・キリストの十字架も預言されています。このしもべは私たち一人ひとりのために身代わりとなって十字架の苦しみを受けるのです。「その打ち傷によって私たちは癒された」と言います。つまり、イエスが私たちの罪の罰を一身に受けてくださったことによって、私たちは罪赦され、神との平和を得、神の祝福に与るものとされるという預言ですね。ぜひ教会へ行って、このイザヤの語る救い、私たちは既に癒されているということについて更に理解を深め、この救いを自分のものにしていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2016.1.14放送でのお話より )

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■モーセのしゅうと (その2) / 板倉邦雄

2016年01月13日 | Weblog
2016/1/13放送

世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「モーセのしゅうとエテロ その2」をお話ししましょう。

 知恵のある人生の先輩がいるということは私たちにとって何と幸いなことでしょうか。

 さて、モーセのしゅうとエテロが妻と子どもたちを連れてきた明くる日でした。モーセは座って人々の問題に解決を与えていました。人々は朝から集まり、自分たちの番が来るのを待って、夕方までモーセの周りに立っていたのです。

 その様子を見ていたエテロはモーセに言いました。「あなたが人々にしていることは何ですか。」

 モーセはしゅうとに言いました。「人々が神様にお伺いを立てるために私の所に来るからです。私は相互の間をさばいて、神様の定めと判決を知らせるのです。」

 モーセのしゅうとはモーセに言いました。「あなたのしていることは良くないでしょう。あなたもあなたと一緒にいる人々も必ず疲れ果ててしまうでしょう。このことはあなたに重過ぎるから、一人でするのは無理です。そこで私はあなたに助言します。どうか神様があなたと共にいますように。あなたは人々のために神の前にいて問題や事件を神様に述べてください。そしてすべての国民の中から有能な人で神様を畏れ誠実で不義の利得を憎む人を選び、その人を国民の上に立たせて千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。普段は彼らに人々を裁かせ、大事件はすべてあなたの所に持ってこさせ、小さな事件は全て彼らに任せなさい。こうしてあなた自身を身軽にし、あなたと共にいる長たちに荷を負わせなさい。あなたがもしこのことを実行し、神様も良しとされるなら、あなたは耐える事ができ、この国民もまた皆安らかに家へ帰ることができるでしょう。」

 モーセはしゅうとの知恵深いことばに従い、言われたように実行しました。知恵は天の神様から来るものです。そして知恵深い人は主なる神様を畏れ敬う人に与えられるのではないでしょうか。

 聖書のことばです。
 「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 」ヤコブの手紙 1章 5節 口語訳聖書

 (PBA制作「世の光」2016.1.13放送でのお話より )

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■邪悪な時代のしるし/板倉邦雄

2016年01月13日 | Weblog
2016/1/13放送

 今日は「邪悪な時代のしるし」という題でお話ししましょう。

 「今の時代は邪悪な時代である。邪悪な時代はしるしを求める。」とイエス様はおっしゃいまして、ヨナのしるしを話してくれました。ルカの福音書の11章(29節)です。

 さて、ヨナのしるしとは当時のユダヤ人にはすぐに分りました。ヨナはアッシリヤ帝国の侵略から祖国を守った預言者でした。紀元前7世紀前半、ヨナは神様の命令を受けて遠いアッシリヤ帝国の都ニネベへ行くように神様から命じられました。

 ニネベの都へ行って、「外国への侵略行為をやめるように。もしやめなければニネベの都は滅びる。」と述べ伝えるように言われました。

 ところがヨナはニネベに行くのを拒んだのです。彼は船に乗って逃げる途中、海に投げ込まれてしまいました。そして大きな魚に食べられ飲み込まれてしまったのです。ヨナは三日三晩、大きな魚のお腹の中にいました。ヨナはお祈りし、悔い改めてニネベに行くのです。魚の胃液で溶けた異様な顔や姿で神様のことばを述べ伝えました。するとニネベの人々は王様から下々に至るまでヨナの宣教によって悔い改め、外国への侵略を止めたのです。これをヨナのしるしあるいはヨナの奇蹟として人々の間で伝えられてきました。

 イエス様はこのヨナのしるしの出来事を話されたのは、今の時代は邪悪な時代であって邪悪な時代になればなるほど人々はしるしや奇跡を求めたがるものだと言われたのです。しかし今の邪悪な時代にあっても、ヨナのしるし、ヨナの示してくれるサインしか与えられていない、とイエス様は言われたのです。

 そのヨナの示してくれたサインとは、神のことばを聞いて悔い改めて信じて従うということの幸いでした。そしてイエス様はこう結論なさいました。「ヨナがニネベの人々に対してしるしになったように、人の子であるわたしもこの邪悪な時代に対してしるしとなるであろう。見よ、ヨナに勝る者がここにいる。」

 これはイエス・キリストがヨナのように、十字架で死なれて三日目によみがえるというサイン・しるしを言っているのです。

 さて、翻って、今の21世紀の時代も邪悪な時代です。しるしや奇跡を求める時代ではないでしょうか。私たちをアッと言わせるパフォーマンスが求られる時代です。しかしいつの時代においても大切なことは何でしょうか。それはしるしや奇跡ではありません。自分の罪と過ちを悔い改め、神の独り子であるイエス・キリストのことばを信じて従って生きることではないでしょうか。

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■主の祈り - 45 / 大嶋重徳

2016年01月12日 | Weblog
2016/1/12放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった主の祈りという祈りがあります。主の祈りは「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」と祈ります。
 
 私たちには祈りやすいことと祈りにくいことがあるのだと思います。沖縄での新婚旅行を私が間近に控えた時、早く旅行に生きたくてたまらなくなりました。もちろん新婚旅行が楽しみだったこともありますが、しかし沖縄に着くと、あれほど行きたかったのは何だったんだろうか、と思うほどの思いいになりました。旅行中、何故かなあと一人になって考え、気が付いたことは、自分はあの複雑な仕事から逃げ出したかったのだということです。私はその仕事のためにいろんな人間的な交渉をしましたし、考えられる手を打ってきました。そしてそのどれもがうまくいかず疲れ切っていたのです。しかしこの問題を解決するのに必要なことは、自分がいかに立ち回れるかと言うことではなく、この問題に「神様助けてください」とお祈りをすることだったのです。

 私は自分の説教準備のためにはいつも祈ります。また説教する前にも必死になって祈ります。教会の信徒の方のためにも祈ります。しかし、自分の抱えている仕事については神様の介入があると本気で信じていなかったのです。しかし主の祈りは私たちに起こってくる日常のありとあらゆる難しい課題、周囲の人間関係の悪の問題についてもすべてお祈りをしなさい、「わたしに祈り求めなさい」と語りかけるのです。

 主の祈りのシリーズのメッセージをしながら、幾つものおはがき・お便りをいただきました。明石市の福田さんはこんなお手紙をくださいました。
 「主の祈りの中で今日の糧を得る祈りをキリスト様がして良いと言われたのが安心しました。高尚な祈りはなかなか難しいですが、日常の祈りはすらすらとできます。毎日拝聴しております。ありがとうございます。」

 福田さんのように、高尚な祈りをしようと頑張るのではなくいつもの自分の生活の中にある日常の助けを求める祈りが私達には必要なのだと思います。祈りにくい場所を持つことなく私たち日常のすべての場所において神様に助けを求められる強さを私たちは持っていきたいと思います。

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