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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■いつまでも残るもの-愛 / 関根弘興

2012年08月20日 | Weblog
2012/8/20放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。新約聖書の第一コリント13章13節 
 「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。

 聖書は、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛、この三つだと紹介しているんですね。今日は愛ということについて考えたいんです。

 どうでしょうか私達はどれほど神様の大きな愛の中に生かされてるかということ、時々忘れてしまうことはありませんか? 神様は悪い人に対しても良い人に対しても太陽を昇らせ、雨を降らせくださる方だと書かれています(マタイ 5章45節参照)。私たちはこの恵みの中に生かされてことを忘れてしまい、時々出て来ることばは「当たり前」、すべてが当たり前、毎日こうして生きてるのも当たり前、空気を吸ってるのも当たり前、食事をして当たり前、何かをしてもらって当たり前、何でもかんでも当たり前というふうにしか見えない人生、でもこれはちょっと寂しいですよね。

 何でもかんでも当たり前というふうにしか考えられない人生には決して生まれないものがあるんです。それは感謝です。感謝を表すことばは何でしょうね。日本語で感謝を表すことばは「ありがとう」です。ありがとうということばを漢字で書くと「有ることが難しい」と書きます。つまり本来なら無くて当たり前なのにそこにあるからこそありがとうなんです。

 聖書の書き出しは「初めに、神が天と地を創造した。」と書かれています。そして次にはこのように書かれています。「地は形なく空しく闇が縁の表にあり、神の霊が水の表を覆っていた。」 この世界の最初は空しく闇だったというのですねえ。しかし神の霊がそれらを覆っていたというんです。神様は愛なる方です。ですから神の愛が闇を虚しさを覆っていたと言っても過言ではありません。この世界がこうして生まれたということは神様の愛に覆われたからこそこの世界は生み出されたと言ってもいいと思うんですね。そして神様は私たち一人ひとりをあなたはこの世界に有りなさい、この世界に存在しなさい、と産み出してくださったんです。

 ですから私たちがここでこうして生きている、存在していること自体奇跡なんですねえ。決して当たり前ではないんです。時々、私なんていてもいなくてもいいと考える人がいます。決してそうではありません。神様は愛なる方だからこそあなたはここにありなさい、存在しなさいと命を与えてくださったんです。

 神様の愛は決して変わることがありません。神様の愛、それはあなたを生かす愛です。だから私たちは神様に心からのありがとうを捧げていくことが最も相応しい人生のあり方なんですね。
 
 (PBA制作「世の光」2012.8.20放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

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http://yonohikari.biblica.info 

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■光の子となるためにわたしを信じなさい / 羽鳥頼和

2012年08月18日 | Weblog
2012/8/18放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。

 イエス・キリストは人々に神の国の福音を語りながら病人を癒すなど様々な奇跡を行いました。ユダヤ人の指導者たちはそんなイエスのことを疎ましく思い、イエスを殺す計画を立てるようになりました。そんな危険の中でイエス様は自分が神から遣わされた救い主であることをはっきりと語られました。
それだけではありません。イエス様はご自分が間もなく死ぬことを人々に語ったのです。人々もその事に気づき始めました。

 そんな時、イエス様は人々に言われました。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。・・・あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(ヨハネ 12章35節、36節)

 光とはイエス・キリストのことです。人を照らすまことの光であるイエス様が、わたしがいる間にわたしを信じなさい、と語りかけたのです。光の子とはイエス様のように神を愛し人を愛することができる人のことです。イエス様は人々に神を愛し人を愛するものとなるためにわたしを信じなさいと勧めたのです。

 そしてイエス様はこう言われました。「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たのです。」(ヨハネ 12章47節参照)と。確かにイエス様は救い主として人を救うためにこの世に来られました。十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえられたのです。このキリストの十字架と復活が私たちに救いをもたらしたのです。

 しかしもう一つ忘れてはならないことがあります。それはイエス・キリストの再臨です。イエス様はよみがえられた後、弟子たちに現れ励ましを与えられた後に天に昇られました。天に戻られたイエス様はもう一度再びこの世に来られるのです。神様はこの世を救うためにイエス・キリストを遣わされました。再びイエス様が遣わされときは、さばき主として来られるのです。これを最後の審判と言います。

 このさばきから逃れる方法はただ一つ、イエスを救い主と信じることです。イエス様は必ずもう一度来られます。私たちはその再臨の前にイエス様を信じていなければなりません。いつイエス様が再臨されるか分りません。ですからイエス様はあなたにも、今わたしを信じなさい、と語っておられます。イエス様はあなたを罪から救い、永遠のいのちを与え、神を愛し人を愛することができるようにしてくださいます。今イエス様を信じてください。

( PBA制作「世の光」2012.8.18放送でのお話より )

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が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***

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  郵便振替 00890-3-111071 東海福音放送協力会   まで

  お問い合わせは、
  電話 052-762-2196 (自由ケ丘キリスト教会内)  東海福音放送協力会 へ
            

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■福音とは / 岩井基雄

2012年08月17日 | Weblog
2012/8/17放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 キリスト教会で使われている用語には分るようで分りにくいことばがありますよね。今日もちょっと分りにくいキリスト教用語を学んでみましょう。今日は「福音」についてです。

 福音とは幸福の福に音と書きますから「ふくおん」と呼び間違ってしまう方は少なくありません。福音(ふくいん)は良き訪れという意味を持ち、英語で言うとグッド・ニュース good newsあるいはゴスペルgospel となりますね。

 では私たち人間にとってのグッド・ニュース、良き音信(おとずれ)とは何でしょうか。

 新約聖書に次のようなことばがあります。

 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」 新約聖書 ローマ人への手紙4章25節

 キリスト教会で語られる福音の中心は、神の子であるイエス・キリストが私たちのために肉体を取ってこの地上に来てくださり、私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに十字架上で死んでくださったこと、そして死に打ち勝って三日目によみがえり、私たちが義と認められ救われる道を開いてくださった勝利の事実にあります。これはそのことが起こる数百年前、更に1000数百年前から旧約聖書で予言されており、これがイエスの生涯の中でその通り成就したのですね。

 この聖書の証し・福音は私たちの心に喜びと希望を与えます。そしてこの良き音信(おとずれ)を多くの伝道者たちは文字どおり命を懸けて伝えました。

 伝道者パウロはこう語っています。

 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」 新約聖書ローマ人への手紙1章16節

 パウロは最初、十字架に架けられたイエスを救い主だと信じることができず、クリスチャンたちを迫害していましたが、この福音の確かさと神の愛を知ったとき、先程のことばを語りました。

 この素晴らしい福音はあなたにも届けられています。あなたが神の前に自分の罪を認め、自分の罪の身代わりに十字架で死んでよみがえってくださったイエス・キリストを自分の救い主として信じるとき、福音はあなたにとっても救いを得させる神の力となるのです。あなたもこの歴史的な事実に基づく福音を信じて赦しと平安と勝利の道を歩み始めませんか?
 
 (PBA制作「世の光」2012.8.17放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■永遠のいのちを得るためには / 福井 誠

2012年08月16日 | Weblog
2012/8/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。

 今日のバイブル・メッセージは「永遠のいのちを得るためには」です。それではマタイの福音書19章16節から読んでみましょう。

 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

 聖書を持っている人はあとでゆっくりとマタイの19章の16節から26節を読んでみて頂きたいと思います。というのはこの箇所で鍵となる単語が三つ出てきます。「永遠のいのちを得る」、「天の御国に入る」そして「救われる」です。この三つは実は交換可能な同じ意味で使われているのですねえ。

 ま、一人の青年がイエスに質問して言いました。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。

 「永遠のいのち」ということばを使っていますね。それに対してイエスは「金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。」(マタイ19章23節)と答えています。つまり永遠のいのちを得るということと、天の御国に入るということは同じ事として語られているのです。

 更に弟子たちがそのイエスの答えに驚いて、「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」(マタイ19章25節)と「救い」ということばを用いています。こうして「永遠のいのちを得る」「天の御国に入る」「救われる」というのはみな同じことを意味しているのだということがよく理解できますねえ。

 やがて私たちは死んだら天国に行って永遠のいのちを得る、それが救われることであるというのはよく理解できることだと思います。しかし、何か随分先のあの世のお話をしているように思われる方もいるかもしれませんね。それはまあ永遠のいのちを長いいのちと考えてしまうからそう思われるわけですねえ。

 しかしイエスがここで語っている永遠のいのちを得るというのは神のいのちに与ることです。神のいのちに与って私たちの今の人生が変えられていくこと、新しくされていくこと、そして神の支配の中に従って生きていくということなんですね。

 そうすると永遠のいのちに与るために必要なことは何か良いことをするというよりも、何ごとかを為してくれる神の力を信じることに他なりません。神を信じ神のいのちに与りましょう。

  (PBA制作「世の光」2012.8.16放送でのお話より )

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■淫乱と好色の町 /  板倉邦雄

2012年08月15日 | Weblog

2012/8/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「淫乱と好色の町」という題でお話ししましょう。ソドムの町は淫乱と好色の町だったのです。

 さて、アブラハムのもてなしを受けた三人の旅人の内の二人は夕暮れにソドムの町に着きました。19章の1節では二人の旅人は二人の御使いと言われています。その時アブラハムの兄弟の息子ロト、ま、甥にあたりますがソドムの町の門に座っていました。町の様々な問題やトラブルを処理したり裁判してあげるためでした。ロトが公義の人だったということが分ります。

 ロトは二人の旅人を見ると立ち上がり迎え、地に伏して言いました。
 「我が神、主よ。どうぞしもべの家に立ち寄って足を洗い、お泊まりください。そして朝早くお立ちください。」

 「いやいや私たちは広場で夜を過ごします。」

 「いいえ、夜は危険ですからどうぞ我家に泊まってください。」

 二人の旅人は強いて勧められたのでロトの家に泊まることになりました。

 ところが旅人が寝ようとするとソドムの町の人々が若い人も老人も四方八方からやってきてロトの家を取り囲みました。そして門を叩いて叫びました。「今夜お前の所に来た旅人たちはどこにいるんだ。彼らを表に出せ。俺たちが彼らをかわいがってやるから。」 

 ロトは出て行って言いました。
 「兄弟たちよ、どうか悪いことをしないでくれ。客人には何もしないでくれ。」 

 「黙れ。引っ込んでろ。お前はよそもののくせに俺たちの裁判官になろうとする。お前から先に害を加えてやろうか。」

 そう言うとソドムの人々はロトに激しく迫り、家の戸を破ろうとしたので二人の旅人は手を伸ばしてロトを家の中に引き入れたのです。

 ソドムの町は昔もそして今もこの世界にあります。ですから聖書はこう警告しているのです。

 「神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。・・・すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。

 ローマ人への手紙1章の24節、26節から27節

 ( PBA制作「世の光」2012.8.15放送でのお話より )

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■生き方の再確認  /  山中直義

2012年08月14日 | Weblog
2012/8/14放送

 世の光です。いかがお過ごしでしょうか、山中直義です。私たちの人生には時に思いがけない嵐が訪れます。しかしその嵐は私たちに生き方の再確認を迫る大切な機会なのかもしれません。旧約聖書ヨナ書のお話の続きです。

 預言者ヨナは神様の語りかけに耳を閉ざし神様から遠く離れようと船に乗って逃げ出したと言います。しかし神様はそんなヨナを見捨てることも諦めることもなく嵐を送ってヨナと関わろうとしたと言います。今日はヨナ書1章8節9節のことばをお読みします。

 (嵐の中で) 彼らはヨナに言った。「だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か。」。ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を恐れています。」

 「私は主を恐れています。私は神を信じています。」 ヨナは確かにそう告白しました。ところがヨナの実際の生き方は決してそのような生き方ではなかったと聖書は言います。自分が告白していることと自分の生き方が違っている。そんなヨナに神様は嵐を与え、その嵐の中で彼の生き方に再確認を迫られた。何とかして生き方を変えさせようと関わられた。聖書はそう教えています。

 私たちはどうでしょうか。神を信じている、あるいは神を信じて生きるべきだと考えながら実際の生き方はそうではないということはないでしょうか。時に人生に訪れる嵐、それは私たちに生き方の再確認を迫る大切な機会なのかもしれません。

 もしあなたが神を信じて生きるべきだと本当に考えておられるなら、どうかそのように生きてください。今度の日曜日またそれがかなわなければその次の日曜日、どうかお近くのキリスト教会へお越しください。そしてそこで聖書を開き神の語りかけに耳を傾けてください。神を信じるという考えがあなたの生き方そのものになりますように。

(PBA制作「世の光」2012.8.14放送でのお話しより )

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■いつまでも残るもの-希望 / 関根弘興

2012年08月13日 | Weblog
2012/8/13放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか関根弘興です。今日は聖書から「いつまでも残るものとは何か」ということをご一緒に考えて行きましょう。

 新約聖書 第一コリント13章13節
 「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。

 聖書はいつまでも残るものは信仰と希望と愛この三つだと語っているんですね。前回はいつまでも残るものはそれは信仰だというお話をいたしました。イエス・キリストは「この天地は滅びます。しかし私のことばは決して滅びことがありません」と言われました。決して滅びることのないことばを信頼し生きるのですから、その信仰の歩みは決して失われる事はありません。そして決して滅びることのないイエス・キリストのことばはそれは私たちへの救いの約束でもあるんです。

 それではイエス・キリストの与える救いとは一体何でしょう。それは失われることのない命を与えるという約束です。イエス・キリストはこう言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ 11章25節) キリストが約束されたことは死んでも生きるといういのち、決して失われることのないいのちを与えると約束されたのです。

 日本語のいのちとは「息の内」の省略されたことばだというふうに言われ。つまり、息をしている内が人生だ、死ねば終わりだという、ま、いたって合理的なことばだと言われます。でも息の内を超えた命を与えるとイエス・キリストは約束されたんですね。そしてイエス・キリスト御自身が「わたしはいのちです」と言われたのです。

 聖書ははっきりと、こう記しています。それは、「イエス・キリストは何の罪もない方なのに私たち一人ひとりの罪を背負って十字架につけられました。そして死なれたのです。しかし三日目に復活されたのだ。」と記しているんですねえ。

 もし私たちのこの息の内だけが命のすべてだと考えるなら、人は永遠の希望を得ることは不可能です。しかしもし死というものを打ち破りよみがえられた方がいるなら、その方の与える命は永遠に続くとは思いませんか。そしてイエス・キリストは死から復活されたということは、イエス・キリストが語られた約束のすべてに太鼓判が押されているということなんです。

 ですから私たちは将来を見るとき確かにいろんな困難もありますけれども、最終的にはいつまでも残る失われることのない希望、キリストのいのちを持って生きることができる。このように聖書は約束しています。

 (PBA制作「世の光」2012.8.13放送でのお話しより)

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■死で終わるのではない / 羽鳥頼和

2012年08月11日 | Weblog
2012/8/11放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。

 イエス様はエルサレムから少し離れたヨルダン側の向こう岸の町にいました。そこにベタニヤという町から使いがやって来ました。彼はここまで丸一日かかってやって来ました。「イエス様、あなたが愛しているあのラザロが病気で死にそうです。」 彼はイエス様に告げました。イエス様はこれを聞いて言われました。ヨハネの福音書11章4節です。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。

 この病気は死で終わるだけのものではない。つまりラザロは死ぬ。しかしそれで終わるのではないというのです。実際に使いがやって来ていた時すでにラザロはなくなっていました。もう手遅れだったのです。しかしイエス様はラザロの死はそれで終わりではないというのです。そしてイエス様は、ラザロの死はそれで終わりではない、ラザロの死は神の栄光を現す、と言われたのです。

 ここでの神の栄光とは何でしょうか。それはラザロがよみがえることを指しています。この後ラザロが死んで葬られた墓の前でイエス様は大声で「ラザロよ。出て来なさい。」(ヨハネ 11章43節)と言われました。すると死後四日も経っていたラザロがよみがえって出てきたのです。イエス様は、ラザロがよみがえったのは神様がわたしの願いを聞いてくださったからだ、と言いました。そうです。神様が死んだらラザロをよみがえらせたのです。これが神の栄光です。死んだ人をよみがえせることができる神様のすばらしさがはっきりと現わされたのです。

 11章の4節のイエス様のことばにはもう一つのことばがありました。イエス様は、ラザロは死ぬしかしそれで終わるのではないと言ってから、神の子である私も栄光を受けると言ったのです。ここでの栄光とはイエスの十字架の死と三日後のイエスのよみがえりのことです。イエス・キリストは私たちを救うために私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださいました。そんなイエス・キリストを神様はよみがえらせました。十字架と復活はイエス・キリストの栄光であり、私たちの救いです。

 聖書のことば

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」  ヨハネの福音書 11章25節


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■毎日が宴会? /  岩井基雄

2012年08月10日 | Weblog
2012/8/10放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。「宴会」と聞くと皆さんはどんなイメージがあるでしょうか。ストレスを溜めやすい私たちにとって楽しい宴会は人びととの親睦を深め、心を一つにし、ストレスを解消する一時となることがありますよね。でもこの宴会が苦手ですという方もいらっしゃるでしょうか。また宴会が終わった時の疲労や空虚さはどの時代も国も共通かもしれませんが、それでも共に集まり互いを喜ぶ宴会は恵みの時でもありますねえ。

 聖書の中に次のようなことばがあります。

 「心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」 旧約聖書 箴言15章15節

 聖書の中に「毎日が宴会」という表現があること自体に驚く方もいらっしゃるかもしれませんね。聖書の時代のこの宴会は非常に長くまた盛大なもので、家族や親族だけではなく地域の人々もしもべたちも招き、一緒に喜びを味わう素晴らしいひと時だったのです。確かに多くのクリスチャンはお酒を飲まなくてもその場を楽しみ互いを喜び合います。お酒の力を借りる必要はありません。それは心に楽しみがあるからです。

 先程の聖書の次の箇所にはこのように書いてあります。

 「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」 旧約聖書 箴言15章16節、17節 

 本当の宴会とは豪華さや贅沢さではなく、わずかなものでも感謝し、神様を正しく恐れ敬い、互いに愛し合うことではないでしょうか。そのような歩みこそがまさに毎日を喜びと輝きの日としてくださるのです。人間にとって本当の楽しみや喜びは何だろうかと問われますねえ。

どんなに多くのものを所有して高い地位にあったとしても、心豊かな愛に満ちた交わり・真の宴会には比べることができません。神に愛されていることを知り、神を愛し人を愛し、赦し合い、助け合う真実な交わりこそ本当に豊かで素晴らしい交わり・宴会となるのです。あなたも心に本当の喜びを受け続ける素晴らしい人生を歩み始めませんか

 それではまた聴いてください。



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■創造者は、初めから / 福井 誠

2012年08月09日 | Weblog
2012/8/9放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。
今日のバイブル・メッセージは「創造者は、初めから」です。
それではマタイの福音書19章4節、5節から読んでみましょう。

 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。」  (新改訳聖書 第二版)

 皆さんは離婚についてどう思われますか? 何となく悪いことなんじゃないかと考えている人、いや良い悪いとは関係なくそんなことはしたくないなあと思っている人、いろいろでしょうねえ。 けれども何を根拠にそのように考えるか、そこが大切ですね。

 聖書はイエス様がこの問題をどのように考えたのか明確に示しています。つまりイエス様は天地創造の神様はその初めから人を男と女に造られ、人をたった一人っきりにすることを好しとされなかった、という訳です。神様は人が必ずつがいになるように、つまり結婚というものがあるように造られたという訳です。

 そしてイエス様は結婚が神の結び合わせであることを明確に語られました。日本人もだいぶ恋愛結婚をするようになったと言われますが、今だに約70パーセントはお見合いや紹介による結婚であると言われています。しかしながら、恋愛にしろ紹介にしろ、結婚というのは神の結び合わせであるというのが聖書の考えですねえ。

 またイエス様は結婚は一身同体になっていくことだと語りました。将来確実に一つとなっていくようにどんな苦労も二人で乗り越えていくように結び合わされたのだという訳です。ここが大切なのかもしれませんね。幸せな結婚というのは、偶然の巡り合わせではないのです。むしろ献身と忍耐、愛情と助け合い、支えあいによって時間をかけながら築き上げられていくものなのですね。

 そうであればこそ、神が巡り合わせてくださったという信仰によって結婚関係の維持を諦めてはいけないという教えになる訳です。神がやがて一つとなるように結び合わせてくださった結婚というものを大事にし、信仰持って良い家庭を築き上げていきたいものですね。
 

  (PBA制作「世の光」2012.8.9放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



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