久しぶりに加東市福田地区の第3グラウンドの東の角にある忠魂碑の前で車を止めました。
この忠魂碑は以前にもこの歴史ブログで紹介しましたが、明治二七八役、すなわち日清戦争の戦死病没者の忠魂碑として建てられたもので、後に郡制の廃止に伴って大正11年(1922)に福田村(主に現在の加東市福田地区)に移管されたものです。
大正時代には全国的に忠魂碑建立ブームが起こり、各町村等に忠魂碑が建てられていますが、百年以上前の明治33年(1900)の建立はその前で、知る限り加東市では最も古い忠魂碑なのではないかと思います。
土台石には、建設委員長には当時の山田加東郡郡長、委員には郡内各村(現在の加東市と小野市域)の村長の名前が刻まれています。郡制時代の歴史を伝える貴重な忠魂碑です。
この忠魂碑は以前にもこの歴史ブログで紹介しましたが、明治二七八役、すなわち日清戦争の戦死病没者の忠魂碑として建てられたもので、後に郡制の廃止に伴って大正11年(1922)に福田村(主に現在の加東市福田地区)に移管されたものです。
大正時代には全国的に忠魂碑建立ブームが起こり、各町村等に忠魂碑が建てられていますが、百年以上前の明治33年(1900)の建立はその前で、知る限り加東市では最も古い忠魂碑なのではないかと思います。
土台石には、建設委員長には当時の山田加東郡郡長、委員には郡内各村(現在の加東市と小野市域)の村長の名前が刻まれています。郡制時代の歴史を伝える貴重な忠魂碑です。