家の片付けをしていると、古い手帳が出てきました。表紙には、「女子青年団手牒」「加東郡社町女子青年団 支部」と印刷してありました。持ち主は、母の姉でした。略歴欄には、昭和4年(1929)入団と記されており、大正3年(1914)生まれの叔母ですから、15歳で女子青年団員となったことがわかります。
女子青年団は、その綱領に「聖訓ニ基ツキ人格ヲ高メ健全ナル国民タルノ資質ヲ養ヒ女子ノ本分ヲ全ウスルニアリ」と修養機関としての目的が書かれており、手牒には、教育勅語をはじめとして、戊申詔書、令旨などが載せられています。そして、精神の保ち方の話や皇国運動という名の体操、君が代、青年団歌などの頁が続き、後半は修養の出欠欄、白紙のメモ欄となっています。全部で50頁の薄い手牒で、印刷所は多可郡西脇町(現西脇市)の来住印刷所となっていました。手牒には、略歴蘭以外、何も書かれていませんでした。
戦前の社町社区(現加東市社)の文書綴には、この女子青年団の通知文が綴じられており、この歴史ブログでも紹介したことがありますが、社小学校で会合などが開かれていたことがわかります。
叔母も母も今は大正時代に生まれ、昭和前期の戦争の時代に娘時代を過ごし、戦後の復興の時代を生きた世代でした。母は70代半ばで、叔母は100歳を超えて長寿を全うしました。手牒がなぜ我が家にあるのかわかりませんが、ふと元気な頃の叔母の顔が浮かびました。
女子青年団は、その綱領に「聖訓ニ基ツキ人格ヲ高メ健全ナル国民タルノ資質ヲ養ヒ女子ノ本分ヲ全ウスルニアリ」と修養機関としての目的が書かれており、手牒には、教育勅語をはじめとして、戊申詔書、令旨などが載せられています。そして、精神の保ち方の話や皇国運動という名の体操、君が代、青年団歌などの頁が続き、後半は修養の出欠欄、白紙のメモ欄となっています。全部で50頁の薄い手牒で、印刷所は多可郡西脇町(現西脇市)の来住印刷所となっていました。手牒には、略歴蘭以外、何も書かれていませんでした。
戦前の社町社区(現加東市社)の文書綴には、この女子青年団の通知文が綴じられており、この歴史ブログでも紹介したことがありますが、社小学校で会合などが開かれていたことがわかります。
叔母も母も今は大正時代に生まれ、昭和前期の戦争の時代に娘時代を過ごし、戦後の復興の時代を生きた世代でした。母は70代半ばで、叔母は100歳を超えて長寿を全うしました。手牒がなぜ我が家にあるのかわかりませんが、ふと元気な頃の叔母の顔が浮かびました。