ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

終戦記念日の忠魂碑

2012年08月15日 07時25分13秒 | Weblog
 8月15日の朝は曇りで空気は湿っていました。大東亜戦争が終わってから67年目の8月15日。いつもウォーキングで参拝している忠魂碑ですが、今朝は特別な思いで碑の前に立ちました。
 加東市社の市街地の南端に元加東郡公会堂、現在は明治館という名になっていますが、この敷地に忠魂碑があります。周囲は石の玉垣で囲まれ、その中に、大きな自然石で組んだ台石の上にさらに3本の石碑が聳えています。
 太く伸びた松の枝のために正面から見ると、碑が隠れてしまっていますが、中央には忠魂碑、大正15年3月(1926)建立、両側に英霊尊名碑、昭和28年(1953)建立が立っています。
 忠魂碑の揮毫は陸軍大将、川村景明。川村大将は薩摩出身の陸軍軍人で、日露戦争では鴨緑江軍司令官として奉天会戦などで活躍した人物です。日露戦争後は子爵となり、大正4年には元帥、その後在郷軍人会会長をつとめています。大正時代のはじめには、全国的に忠魂碑建設ブームが起こりましたが、川村大将は多くの忠魂碑の揮毫をしています。
 両側の英霊尊名碑には、明治10年の西南戦争から大東亜戦争まで、この故郷(旧社町、現社小学校区)から出征し、戦陣に散った英霊のご尊名が刻まれています。その数は、240柱余りにのぼっています。ちなみに、各戦役の数は以下の通りです。西南戦役(4)、日清戦争(5)、日露戦争(7)、日独戦役(第一次大戦・2)、満支事変(31)、大東亜戦争(195)。私の母方の叔父2人の名もあります。
 日本は大東亜戦争に負けました。そして連合軍の占領下には各地で忠魂碑を破壊されないように隠して守りました。占領が終わった後、再び忠魂碑を建てて英霊を御霊を鎮めたのです。祖国を、ふるさとを、そして家族を守るため、アジアを西欧白人支配から解放し、独立と繁栄を築くために故郷から出征して戦った英霊の尊い犠牲のおかげで今日の日本の平和と繁栄があることを忘れてはなりません。そして、感謝と同時に皇室の弥栄と、日本の真の独立と繁栄、アジアの平和と繁栄、郷土の繁栄と人々の幸福を実現することが今の私たちの誓いとしなければならないと思うのです。
 今朝もそんな思いを祈りとし、「海行かば」を歌ってきました。
コメント (2)
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