絵本の読み聞かせをある保育園で四年前から月一回やっている。
年少組、年中組、年長組それぞれだいたい15分で3冊。組をまたがっているものもたいていあって、反応のちがいなど観察している。
以下、今月のプログラムである。ここで年少組はその年度の4月に1歳、年中組は2歳、年長組は3歳以上、したがって1月になるともう1歳近く成長していることになる。
年少
おんなじ おんなじ(多田ヒロシ)
わたしの(三浦太郎)
ぎゅ ぎゅ ぎゅー(駒形克己)
年中
おんなじ おんなじ
でんしゃでいこう(間瀬なおかた)
もりのおふろ(西村敏雄)
年長
でんしゃでいこう
もりのおふろ
ゆきがふる(蜂飼耳 牧野千穂)
絵本の内容には季節性もあるから毎年同じ月でよく似たものになる傾向はある。それでも子供たちは知ってるものを何度も聴きたがるし、その間成長もあるからむしろいいかなと考えている。
さて今回、年少では「ぎゅ ぎゅ ぎゅー」が大人にはなかなか理解しがたい食いつきがあって、やってよかったという気持ちになる。これは作者駒形克己の展覧会で知ったことであるが、自身の娘さんに胎児の時のイメージを聴取して作成に活かしたものらしい。そんなことができるのかとも思うけれど、読んでみて今回もどうしてここでこういう風にうけるのかな、という箇所(色とかたちとうごき)がいくつもある。そういう時間ができるということは貴重である。
「おんなじ おんなじ」ではふたりがぶつかっていたいいたいという箇所で、子供たちから何か貼ってあげる、食べ物あげて(なぐさめる?)など勝手な発言がいくつも飛んできた、みんないいなあ。
「もりのおふろ」だけれど、ライオン、ぞう、ワニ、ぶたとつぎからつぎへともりのおふろにやってきて、背中をあらってくれないかとたのみ、最後に来たうさぎを先頭のライオンが洗うことになって大きな輪ができる、それだけのことだが、絵がへたうまといってもちがうかな、よくわからないがいくつも細部を指摘してわらいころげもりあがる。子供の絵本の世界、なぞである。
「ゆきがふる」の対象年齢は小学生以上かもしれない。みんな静かに聴いている。内容はシュールというかそういうところもあるけれど、予想しない側面で感じているところがあるかもしれない。少し経って思い出してくれるといい。
詩人蜂飼耳の発想と展開、オリジナリティーというだけでは言い表せない。
牧野千穂(絵)の素晴らしい雪と登場者の世界、大人は「悲しみの美しさ」というだろうが、理屈はどうでもいい。
年少組、年中組、年長組それぞれだいたい15分で3冊。組をまたがっているものもたいていあって、反応のちがいなど観察している。
以下、今月のプログラムである。ここで年少組はその年度の4月に1歳、年中組は2歳、年長組は3歳以上、したがって1月になるともう1歳近く成長していることになる。
年少
おんなじ おんなじ(多田ヒロシ)
わたしの(三浦太郎)
ぎゅ ぎゅ ぎゅー(駒形克己)
年中
おんなじ おんなじ
でんしゃでいこう(間瀬なおかた)
もりのおふろ(西村敏雄)
年長
でんしゃでいこう
もりのおふろ
ゆきがふる(蜂飼耳 牧野千穂)
絵本の内容には季節性もあるから毎年同じ月でよく似たものになる傾向はある。それでも子供たちは知ってるものを何度も聴きたがるし、その間成長もあるからむしろいいかなと考えている。
さて今回、年少では「ぎゅ ぎゅ ぎゅー」が大人にはなかなか理解しがたい食いつきがあって、やってよかったという気持ちになる。これは作者駒形克己の展覧会で知ったことであるが、自身の娘さんに胎児の時のイメージを聴取して作成に活かしたものらしい。そんなことができるのかとも思うけれど、読んでみて今回もどうしてここでこういう風にうけるのかな、という箇所(色とかたちとうごき)がいくつもある。そういう時間ができるということは貴重である。
「おんなじ おんなじ」ではふたりがぶつかっていたいいたいという箇所で、子供たちから何か貼ってあげる、食べ物あげて(なぐさめる?)など勝手な発言がいくつも飛んできた、みんないいなあ。
「もりのおふろ」だけれど、ライオン、ぞう、ワニ、ぶたとつぎからつぎへともりのおふろにやってきて、背中をあらってくれないかとたのみ、最後に来たうさぎを先頭のライオンが洗うことになって大きな輪ができる、それだけのことだが、絵がへたうまといってもちがうかな、よくわからないがいくつも細部を指摘してわらいころげもりあがる。子供の絵本の世界、なぞである。
「ゆきがふる」の対象年齢は小学生以上かもしれない。みんな静かに聴いている。内容はシュールというかそういうところもあるけれど、予想しない側面で感じているところがあるかもしれない。少し経って思い出してくれるといい。
詩人蜂飼耳の発想と展開、オリジナリティーというだけでは言い表せない。
牧野千穂(絵)の素晴らしい雪と登場者の世界、大人は「悲しみの美しさ」というだろうが、理屈はどうでもいい。