チャイコフスキー:歌劇「スペードの女王」
指揮:マリス・ヤンソンス、演出:ハンス・ノイエンフェルス、美術:クリスティアン・シュミット、衣装:ラインハルト・フォン・デア・タンネン
ブランドン・ジョヴァノヴィッチ(ゲルマン)、イゴール・ゴロヴァテンコ(エレツキー公爵)、エフゲニア・ムラヴィエヴァ(リーザ)、ハンナ・シュヴァルツ(伯爵夫人)、オクサナ・ヴォルコワ(ポリーナ)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団、ザルツブルク音楽祭および劇場児童合唱団
2018年8月2・10・13日 ザルツブルク祝祭大劇場
2018年11月NHK BS-Pre
タイトルだけしか知らない、見るのははじめてのオペラだが、まだまだ発見は残っているものである。作品、演奏、演出、ここしばらくの間見たものの中で一番といっていい。
エカテリナ女王の時代、服装からして軍人くずれ?のゲルマンが貴族の娘リーザに一目惚れになるが、リーザはエレツキー公爵との結婚が決まっている。ゲルマンの仲間たちの話ではリーザの祖母の伯爵夫人は、パリで美人でならしていた若いころ、カード賭博で必勝する方法「3枚のカード」を会得するが、年老いた今までに二人にその方法を求めて言い寄られた。次の三度目に言い寄られたら、それは彼女の死を意味するらしい。
リーザはさんざん言い寄られても逃げ回っていたが、ついにゲルマンを受け入れ、伯爵夫人にも近づけてしまう。さてその顛末は、特に最後の賭場でゲルマンが引いた1枚目、2枚目、やはり行ってしまう3枚目、開いてみれば、、、そうそれはタイトルの、、、
二人の男女のやりとりはドラマとしては単純なのだが、そこは出ずっぱりのゲルマンの歌そ中心に、リーザの歌も強さをましてきて、チャイコフスキーの音楽、特にオーケストラは疲れを知らない。
男と女、背景に見える貧困と軍隊、そういうどうにもならない運命、だからこそやはり思い通りにはならないのだがシンプルな「運」を信じるというかその結果に納得するというか、賭博というものがこういうところに本質的に入ってくるのか、と思えてくる。特にロシア文学では。この作品のもとになったのはプーシキンの小説。
ドラマも激しさをともなう音楽も20世紀のオペラと並べてもおかしくない。初演は1890年というから交響曲でいえば第5と第6(悲愴)の間になる。概していえば、激しいダイナミクスは第5を、憂鬱なメロディーは第6を思わせる。
歌手たちだが、まず主役の二人、ゲルマンはちょっと乱暴者の感じ、リーザは一見おとなしすぎる感じ、しかし歌唱が進んで来れば、説得される。伯爵夫人を除けばほとんどロシア系の歌手たちで、言語の問題もあるのだろうが、今の時代ロシア出身の歌手たちなしにメトロポリタンその他成り立たないから、これは自然か。
そしてハンナ・シュヴァルツ、この人75歳らしいが当たり役、この雰囲気ほかの人では出せないだろうなと思う。ずいぶん前からワーグナーなどの脇役で活躍していたとおもうけれど、これはまさに「芸」、こういう生き方もいいなと思う。
演出はこの前にアップした「ばらの騎士」とは正反対で、背景はほとんど暗い壁しかないか、あるいはこれは有効な仕掛けだったが同じ暗い色の太い柱が回転装置とともに回っていったりしていて、時代背景はほんの少数の貴族、軍人以外は無視され、特に衣装はその人、その場の何かを象徴するような、いわゆる現代のデザインである。
暗い背景の中心に最小限の家具、特に最後は賭博のテーブルだけというのは、見る方として集中できた。
そしてヤンソンス指揮のウィーン・フィル、響き、フレージング、長丁場でも疲れを知らない持続力、申し分ない。かねてからウィーン・フィルの人たちは本当にチャイコフスキーが好きだなあ、と思っていた。ドイツ音楽はうまくても当たり前だが、こっちは好きだから。この上演がザルツブルクでよかった。
ヤンソンスさん、はるか以前、何度も来日して日本のオーケストラを振ってくれた父君を思い出す。
指揮:マリス・ヤンソンス、演出:ハンス・ノイエンフェルス、美術:クリスティアン・シュミット、衣装:ラインハルト・フォン・デア・タンネン
ブランドン・ジョヴァノヴィッチ(ゲルマン)、イゴール・ゴロヴァテンコ(エレツキー公爵)、エフゲニア・ムラヴィエヴァ(リーザ)、ハンナ・シュヴァルツ(伯爵夫人)、オクサナ・ヴォルコワ(ポリーナ)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団、ザルツブルク音楽祭および劇場児童合唱団
2018年8月2・10・13日 ザルツブルク祝祭大劇場
2018年11月NHK BS-Pre
タイトルだけしか知らない、見るのははじめてのオペラだが、まだまだ発見は残っているものである。作品、演奏、演出、ここしばらくの間見たものの中で一番といっていい。
エカテリナ女王の時代、服装からして軍人くずれ?のゲルマンが貴族の娘リーザに一目惚れになるが、リーザはエレツキー公爵との結婚が決まっている。ゲルマンの仲間たちの話ではリーザの祖母の伯爵夫人は、パリで美人でならしていた若いころ、カード賭博で必勝する方法「3枚のカード」を会得するが、年老いた今までに二人にその方法を求めて言い寄られた。次の三度目に言い寄られたら、それは彼女の死を意味するらしい。
リーザはさんざん言い寄られても逃げ回っていたが、ついにゲルマンを受け入れ、伯爵夫人にも近づけてしまう。さてその顛末は、特に最後の賭場でゲルマンが引いた1枚目、2枚目、やはり行ってしまう3枚目、開いてみれば、、、そうそれはタイトルの、、、
二人の男女のやりとりはドラマとしては単純なのだが、そこは出ずっぱりのゲルマンの歌そ中心に、リーザの歌も強さをましてきて、チャイコフスキーの音楽、特にオーケストラは疲れを知らない。
男と女、背景に見える貧困と軍隊、そういうどうにもならない運命、だからこそやはり思い通りにはならないのだがシンプルな「運」を信じるというかその結果に納得するというか、賭博というものがこういうところに本質的に入ってくるのか、と思えてくる。特にロシア文学では。この作品のもとになったのはプーシキンの小説。
ドラマも激しさをともなう音楽も20世紀のオペラと並べてもおかしくない。初演は1890年というから交響曲でいえば第5と第6(悲愴)の間になる。概していえば、激しいダイナミクスは第5を、憂鬱なメロディーは第6を思わせる。
歌手たちだが、まず主役の二人、ゲルマンはちょっと乱暴者の感じ、リーザは一見おとなしすぎる感じ、しかし歌唱が進んで来れば、説得される。伯爵夫人を除けばほとんどロシア系の歌手たちで、言語の問題もあるのだろうが、今の時代ロシア出身の歌手たちなしにメトロポリタンその他成り立たないから、これは自然か。
そしてハンナ・シュヴァルツ、この人75歳らしいが当たり役、この雰囲気ほかの人では出せないだろうなと思う。ずいぶん前からワーグナーなどの脇役で活躍していたとおもうけれど、これはまさに「芸」、こういう生き方もいいなと思う。
演出はこの前にアップした「ばらの騎士」とは正反対で、背景はほとんど暗い壁しかないか、あるいはこれは有効な仕掛けだったが同じ暗い色の太い柱が回転装置とともに回っていったりしていて、時代背景はほんの少数の貴族、軍人以外は無視され、特に衣装はその人、その場の何かを象徴するような、いわゆる現代のデザインである。
暗い背景の中心に最小限の家具、特に最後は賭博のテーブルだけというのは、見る方として集中できた。
そしてヤンソンス指揮のウィーン・フィル、響き、フレージング、長丁場でも疲れを知らない持続力、申し分ない。かねてからウィーン・フィルの人たちは本当にチャイコフスキーが好きだなあ、と思っていた。ドイツ音楽はうまくても当たり前だが、こっちは好きだから。この上演がザルツブルクでよかった。
ヤンソンスさん、はるか以前、何度も来日して日本のオーケストラを振ってくれた父君を思い出す。