メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(メトロポリタン)

2016-09-17 17:52:49 | 音楽一般
ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
指揮:ジェウムズ・レヴァイン、演出:オットー・シェンク
ミヒャエル・フォレ(ハンス・ザックス)、ヨハン・ボータ(ヴァルター)、マネッテ・ダッシュ(エファ)、ヨハネス・マルティン・クレンツレ(ベックメッサー)、ポール・アップルビー(ダフィト)、カレン・カーギル(マグダレーネ)、ハンス=ペーター・ケーニヒ(ポ-クナー)
2014年12月13日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2016年4月 WOWOW
 
マイスタージンガーを映像で見るのはずいぶん久しぶりだ。この前に見たのはおそらく1988年ミュンヘンオペラが来日したときに放送されたものだろう。指揮はサヴァリッシュ、演出はエヴァディング。
詳しいことは覚えていないが、気持ちよく見ることができたように思う。
 
さて今回、やはりメトロポリタンの舞台と合唱、そしてレヴァインの指揮、これらが組み合わさって、この壮大な作品が見事な舞台になった。オットー・シェンクの舞台は、嘗てカルロス・クライバーの指揮でやはりミュンヘンオペラの来日公演「バラの騎士」で見たように、意識して現代ではなく、時代にあった舞台ではあるがすっきりしたもので心地よく進行を追うことができる。
 
迫力ある見どころは最期の歌合戦の場面だが、前夜の大騒ぎになるところ(ここでも合唱は威力を発揮する)、それが終わって夜警が一人という変化の妙、そしてザックスの部屋で、徒弟、ヴァルター、ベックメッサーが交錯して職人、詩人そして音楽について主にザックスによる議論が展開されるところ。それにここでザックスが決してものわかりのいい聖人ではなく、慕ってくるエファへの思いを断ち切れがたい男やもめ、このあたりが見どころ、聴きどころで、フォレの歌唱、演技は見事。未練ある「おとこ」だから、このくらい若い声でいい。
 
ヴァルターのボータ、歌唱はいいけれど、姿が、、、横幅が大きすぎ。エファのダッシュは地味だけれど、この役はこれでいいのだろう。クレンツレのベックメッサー、風貌などちょっといい人風にも見えてしまうのが残念。でも作者は脚本でもっと強い敵役にしてもよかったと思うのだが。
 
レヴァインは復帰後そう経ってないと思うのだが、この長丁場で指揮はよどみなく、快適に楽しむことができた。気がついてみるとあの第一幕への前奏曲の好きなところは、フィナーレの歌合戦でバックに流れる部分でもあり、あの「実は、ほらね」というようにゆったりと変わっていくところは、メトのオケ、レヴァインの指揮も見事。これまで聴いた演奏で、カラヤン:シュターツ・カペレ・ドレスデンに次ぐ(並ぶに近いか?)もの。それにしてもカラヤンとドレスデン、この一度だけのの組み合わせはかのバルビローリの都合が悪くなって実現したというのだが、本当だろうか。
 
こうして作品も演奏もよかったのだが、そこでちょっと立ち止まると、いろんなことを考えてしまう。
最後のザックスの歌にもあるように、マイスター(職人)を尊び、同時に詩と音楽が必須であって、それをドイツの誇りをもって守り進めていこう、ということは、立派だし文句がないように思える。しかしこの中に、ドイツに対する脅威がせまり云々とあり、それはこの作品が生まれた1868年の直後、それから数十年、まさにそのとおりであった。
 
ワーグナーがドイツに与えた陰のもの、と言えば「指輪」の特に「神々の黄昏」あたりのニヒリズムが言われる。私も「ワルキューレ」は好きだが、「黄昏」は嫌いである。そしてこの「マイスタージンガー」も、その陽の面が、他国から見れば何か不気味なものとなってくるのではないだろうか。特にこの今、それは感じてしまうのである。



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