「雨のしのび逢い」(Moderato Cantabile、1960仏、105分)
監督:ピーター・ブルック、原作:マルグルット・デュラス、脚本:マルグルット・デュラス、ジェラール・ジャルロ
ジャンヌ・モロー、ジャン=ポール・ベルモンド
タイトルには記憶があるけれども、見るのは初めて。
原作者の名前を見ると、この倦怠感はもっともっともなのかもしれない。
フランスの地方都市、製鉄会社若い社長夫人(ジャンヌ・モロー)とその工場に勤めている彼女より若い男(ジャン=ポール・ベルモンド)が、夫人が幼い息子を連れてピアノを習わせているところの近くで起きた情痴(?)殺人事件現場で出会ったことから少しずつ知り合い、最初は男の方から誘うが、そののち女のほうが夢中になり、男は逃げ腰にななる。
それだけならありそうな話だけれども、女は夫の地位からくる生活形態に倦怠感を持っており、情事への思い入れとでもいうのだろうか、次第にのめりこんでいく。
しかし映画としては、そのドラマを鮮烈に描くのではなく、部分部分、場面場面をきわめて丁寧に描いていく。もっとも展開はそんなに多くはないのだが。
やはりジャンヌ・モロー、このときまだ30過ぎくらいなのだが、このときから何か目覚めてしまった女のありようを演じて、大げさでなく、それでもきわめてセクシー。なにしろほとんどオーバー・コートを着ていて、、、ほかに誰がいるだろうか。
そこへいくと、ジャン=ポール・ベルモンドは、年齢相応なら男のほうが幼いことはともかく、このころはまだまだという感がある。
マルグリット・デュラスの原作ということから連想出来るほどデュラスを知らないが、おそらくこの映画から受け取る雰囲気が、原作にもあるのだろう。
夫人の息子がピアノを習う場面がいい。ソナチネで作曲はディアべり、この映画の音楽のクレジットもディアべり、そうベートーヴェン「ディアべり変奏曲」のディアべりである。もっともサティも何か所かにあったようだが。
話をもとにもどすと、この息子、ピアノの先生の前でディアべりのソナチネ、指定のモデラート・カンタービレではなかなか弾けない。先生は、モデラートつまり普段の生活のように、カンタービレつまり歌うように、となんどもしつこく教える。こういう場面は繰り返し出てくる。
そうして見る者はわかってくる。女(母親)が潜在的に求め気づいてくるのも、このModerato Cantabile つまり普段の生活のなかにいて情念への、情事への欲望、これに次第に気づいていくということ。つまり作者のいわんとするところは、、、
最後に、カフェに捜しに来た夫の顔が出てこないのは、優れた演出。
海べりの散歩道などいたることろに出てくる樹が何かを象徴しているようだが、何だろう。タモ、トネリコに似ているけれども、枝が湾曲しながら上に勢いよく伸びているようだ。
さてこの邦題、映画で「雨」はないのだけれど、それでもあえてこうしたのは、映画ファンの注意を引くためもあるだろうが、だまされたとわかってもまあいいかと思ってくれると自信があったのだろう。そうであれば許す。