メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

カステルッチの「神曲」

2010-08-14 17:10:04 | 舞台

ダンテ「神曲」 演出・舞台美術・照明・衣装:ロメオ・カステルッチ、音楽:スコット・ギボンズ
「地獄篇」「煉獄篇」 2008年7月アビニヨン演劇祭 アビニヨン法王庁広場
「天国篇」 2008年11月 チェザーナ(伊)サン・スピリット教会
2010年3月12日NHK教育TV「芸術劇場」で放送されたもの(2時間15分)
 
「神曲」ということで気楽には見られないだろうと録画したまま放っておいたのだが、見てみたら予想とは違って、一気にひきこまれるものであった。もっともフルに収録されているのは「天国篇」だけで、「煉獄篇」はダイジェスト、「天国篇」は演劇ではなくインスタレーションで、その模様が数分紹介されるだけである。
それでもカステルッチの「神曲」がなんであるかをうかがうのには充分だ。
 
カステルッチ(1960~)の神曲はほとんどセリフがないもので、登場する多くの役者が様式化された動きを繰り返したり、また一人が法王庁の壁をよじ登ったり、子供を象徴的に使ったり、というもので、観客に自由に想像させることを意図しているようだ。
 
最初にカステルッチ自身が登場して名乗りをあげる。神曲は読んでいないが、原作でも冒頭でやはりダンテがやっているのと同じらしい。そして吠える犬がたくさん登場し、なんとカステルッチ自身が防護服をつけて犬に噛みつかれるという場面がしばらく続く。警察犬の訓練と同じものだが、あっと驚く。しかし人間以外のものから、ひどい仕打ちを受けるというのはこれだけで、そのあとはカステルッチがインタビューで言っているとおり、人間の多くのペアが抱きついたり(愛し合ったり?和解したり?)、後ろから優雅に寄り添って首を切ったり、高いところで十字の形をし後ろに投身したり、そいう場面で進んでいく。
 
カステルッチが語るには、ダンテが描く地獄も多くは、何か怖いものに苦しめられるというより、人間の中にあるものに苦しむ、人と人との間で苦しむことのようだ。
 
一つ一つは様式化され、同じポーズ、動きの繰り返しで演者ごとに個性はあえて出さないようになっている。ファッション・ショーの動きのよう。
確かにこうして同じ動きを、まだ続くのというくらい繰り返し見ていると、こちらでも自然になにか頭に浮かんでくる。
1時間半と少し、こうして見ていると、湧き出てくるのは人間へのいとおしさ、というと陳腐だが、ほんとうに漠然とそうしたものが定着してくる。カステルッチの罠にうまくはまったということだろうか。
 
一人一人違う群衆、その「衣装」がうまい。基本的にいくつかの単純なパターンで、違いはなく、模様もなく色だけが演者を分けるのだが、多彩な色をアースカラー調に穏やかにした、その色たちのアンサンブルがいい。
 
「煉獄篇」は一転して、家庭内の母と息子、そして父親、の何か成長過程の問題を思わせる劇で、音楽がもう一つの主人公の扱いになっている。後半の展開で、息子が突然長身になり苦悶している父親との逆転が示される。「地獄篇」の最後で燃やされたピアノが舞台におかれ、息子はピアノを習っているようだ。これも何かの象徴だろう。
 
「天国篇」は教会の穴を、観客は一人ずつくぐり、その中の暗黒に目が慣れてそのあと、という過程を体験させるというもののようだ。これは演劇の本質でもあるということらしい。そういえば金沢21世紀美術館でいくつか体験したインスタレーションにも通じるものがある。
 
やはり「地獄篇」に焦点があたるは自然で、これはながく記憶に残るだろう。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする