メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ブルバキとグロタンディーク

2008-05-05 21:29:48 | 本と雑誌
「ブルバキとグロタンディーク」(アミール・D・アクゼル著 水谷淳訳 日経BP社)
Amir D.Aczel   The Artist and the Mathematician : The Story of Nicolas Bourbaki, the Genius Mathematician Who Never Existed
 
20世紀中頃、数学界を席巻した集団ブルバキとそれにかかわりつつそれを超えた世界を作り出し、忽然と姿を消したグロディークの物語である。
 
数学者くずれであるが、であるからこそ?、もう30年近く数学に関する本は硬軟含めて読んでない。本格的な数学書もそうだし、ポアンカレ予想、フェルマーの定理などに関する啓蒙書も読んでいない。
しかし、この本の題名を見たときに、何故か読みたいと思ったのである。あの60年代の、数学者、学生達の間で語られていた世界へのノスタルジーに過ぎないといえばそれまでであるが。
 
そう、あの当時、構造主義が紹介され始め、ブルバキの「数学言論」(翻訳は東京図書株式会社)という公理から厳密に積み上げられていく体系、教科書が存在感を放ち、その最初の集合論は、初等数学においても流行であって、とにかく覗いてみないと話にならなかった。
 
今回読んでみて、本質的なところ、すなわちヤコブソンの言語学から始まり、ブルバキそしてレヴィ・ストロース、ピアジェといった流れがよりよく理解できたわけではない。けれども、多くの人の関係について、そのエピソードについて、大変面白い話が満載である。
まるで芸能週刊誌を読むごとくである。
 
どうしてだろう。ここに出てくる人たちの業績を、論文を、本当に知っていたわけではないのに、この分野は誰、あの分野は誰と、出てくるあまたの、多くはフランス人の数学者の名前をほとんど知っているというのは、そして今でも憶えているというのは。
 
グロタンディークはまさに70年前後、数学の学生達のヒーローだった。その後、筆を折り、ピレネーの中に隠遁していったということは知らなかったが。
 
この本でよくわかったことがいくつかある。
何故ブルバキの本は読み進められなかったか、それはあまりに公理から、厳密に進められ、抽象的で事例に乏しかったから。
だが、それでもグロタンディークはそれを超えて、さらに豊かな世界を作り出したようだ。
 
私も当時は誤解していたようで、こういう世界に普通の学生が入っていけると考えていたのだが、しばらく後、やはり整数論や解析学の事例豊富な世界を知らないでは、何も出来なかったのである。
 
書評や訳者あとがきにあるように、ブルバキの中心メンバーであるアンドレ・ヴェイユとアレクサンドル・グロタンディークの二人について、著者はヴェイユが好きでないようだ。その出自、世渡りなど、それは理解できる。ヴェイユが人生を楽しむ術に長けていたということだとしても、今グロタンディークという人にむしろ興味をひかれるのである。それはアンドレ・ヴェイユの妹シモーヌのラディカル過ぎる生き方とはまた別であって、もっと自分の仕事の対象の本質に引き込まれてしまった人の人生に見えてしかたがない。
 
本質的でないエピソード
クロード・レヴィ・ストロースが戦争を逃れてアメリカに来たとき、人から名前を少し変えないと有名ジーンズメーカー(リーヴァイス)一族と間違われますよと言われたとか。以前から同じ綴りだと思っていたので、納得。

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