goo blog サービス終了のお知らせ 

メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

虫めづる姫君 堤中納言物語

2020-11-26 17:29:06 | 本と雑誌
虫めづる姫君 堤中納言物語
作者未詳 蜂飼耳 訳  光文社古典新訳文庫
 
堤中納言物語はこの本の本書のタイトルにもなっている「虫めづる姫君」をはじめとする十編のタイトルと一編の断章からなる物語集で、平安後期から鎌倉にかけて書かれた短編をあつめたものである。それぞれの作者もよくわかっていないし、この時代の物語にあるように、写本で伝わったことから、本書も流布本をもとにしているが、これも近世に定着したものらしい。
それはともかく、これらの物語は男女の間柄を時にはおもしろく、時にはペーソスを交えながら、今の読者も入っていけるなかなか面白いものとなっている。
 
多くは貴族の男が、女を見初める、評判をききつける、ちょっと興味をいだく、見定める、そういったところから、この時代の物語によくあるように、和歌に想いを託してやりとりする。
近世以降、少し前に携帯電話・メールが普及するまでの間、互いに声をかけるのが難しかったのに比べれば、ずいぶん素直で容易なようにも見え、日本は意外にこういう感じの時期が長かったのだなあと思う。
 
同じ訳者の「方丈記」を読んだばかりだが、本書も現代人の私として、不自然なく読め、物語の世界にはいっていける。方丈記のようには原典がついていないけれど、登場人物が交わす会話の多くをしめる和歌は原文と訳をこの中に続けて入れてあるから、その場の気分にひたることができる。
 
「虫めづる姫君」は、この時代にもいた、自分の眼で見、頭で考える娘が印象的だ。また「花を手折る人」や「思いがけない一夜」などは、西欧中世のドンファンならどうしただろうと楽しく想像してしまった。

鴨長明 「方丈記」

2020-11-06 13:44:30 | 本と雑誌
方丈記:鴨長明  現代語訳:蜂飼耳 光文社古典新訳文庫
 
鴨長明(1155-1216)がしるした「方丈記」(1212)は、「枕草子」、「徒然草」、「平家物語」などと並んで、高校の古文でよく使われていた。記憶では少なくとも前半は読んだように思う。そう長いものではないから教室の外で後半も読んだかもしれない。
 
今回、蜂飼耳による現代語訳の存在を知り、これはぜひということで読んでみた。原典も掲載されているが、せっかくなので、それはいずれかなり後にしようと思う。
 
あらためて読んでみると、この変化が多かった、荒れた時代に対する見方、身の処し方、そしてこれは記憶にないのでやはりこの部分は読んでいなかったのかなと思う彼の来歴にかかわる部分など、多彩であり、一人の人間の一生のいろいろな側面を考えさせられた。
個々については、一方的な解釈になりがちだから、ここには書かない。
 
さて訳についてだが、これは古典を正確に解釈、解説するためだけでなく、文章としてすぐれた流れ、リズムが感じ取れるものである。そうでなければこの詩人が訳した意味がない。
 
読んでいて、平明さ、読点の入れ方など、おそらく詩作にも通じるような仕事であって、その結果だろうか気持ちよく流れる。
 
原典添付の他、長明作の和歌(新古今和歌集所収)、「発心集」もあり、訳者の解説もあって、これらにより、長明という人間について、いくつかの側面を知ることができた。
 
訳者による「エッセイ」は通常の解説以上のもの。またこの時代の災害を知るための地図、また方丈の図版などもあり、コンパクトでありながら充実した一冊となっている。
 
ところで、この本にはおもしろいでかたちでたどりついた。
少し前に書いた「旅のつばくろ」(沢木耕太郎)で鎌倉に行った時の記述に、鶴岡八幡宮の階段の左手にある銀杏の大木が出てくる。ここで源実朝が暗殺された。銀杏はしばらく前に強風で倒れてしまい根元だけになっていて、私もこの1月に参拝した時に見た。
 
そこで沢木が書いていることには、ここを訪れる数日前にこの現代語訳を読み、鴨長明は実朝の和歌の教師になるべく京都から鎌倉を訪れていたが、果たせず、不運をなげいた、ということを知り、もしそうなっていれば「方丈記」という名作は書けなかったかもしれない。
なんという縁だろうか、これは読んでみようという気になるというものである。
 
数年前、知人から蜂飼耳による絵本を教えられ、それを絵本読み聞かせで使ってみることになり、その間に詩壇評など日経で時々文章、名前を見るようになって、詩集(現代詩文庫)も読んでみた。沢木耕太郎はよく読んでいたとはいえ、「旅のつばくろ」はたまたまなんとなく手に取ってみたわけで、こういういくつかの要素がつながって「方丈記」というわけである。
それに今年はいろいろあって「方丈記」はなるほど思わせる出会い、再会である。

ディケンズ 「クリスマス・キャロル」

2020-10-04 14:21:12 | 本と雑誌
クリスマス・キャロル:チャールズ・ディケンズ 著 池央耿 訳 光文社古典新訳文庫
ディケンズの作品、一つも読んだことがない。まだその季節ではないけれど、有名だがかなりの長編をいきなり読むよりいいかと思った。
 
イギリスの18世紀前半の、特に女性作家による小説は中高年になってから、若いころのようにこだわらず読んでみて、その甲斐があった。その一方、ディケンズ(1812-1870)の作品は、ヴィクトリア朝の産業発展の反面で庶民の問題が特に庶民にとっては絶えなかった時代のもので、大衆的にもうけたらしいのだが、手に取ってみようとはいかなかった。

だだ、気がついてみたら現代でも話の中で引用されることもよくあるようで、最近では映画「アバウト・タイム」で父親の語りの中に出てくるのが印象的だった。
 
英語圏ではもう一つのキャラクターとして知られているらしいスクルージは、法には触れないがとにかく金もうけ第一でやってきて、妻子はなく、相棒のマーリーはすでに亡くなっている。クリスマスが近くなって、是非ご寄付をときた紳士には彼なりの理屈で断り帰宅したが、そこにマーリーの亡霊が現れ、これから精霊が三人、順に現れると告げる。
 
現れた精霊はスクルージを街に連れていき、庶民の集まり、ある家族の祝いの準備などの場面をみせていく。その中には彼の甥の一家もいる。そこには様々な苦労、不幸があるが、それでもクリスマスをひかえ、皆明るく、陽気にふるまい、人生を楽しむ風をみせている。そのうちスクルージも次第に変わってきて、これら庶民と気持ちを共有するようになっていく。精霊はスクルージの過去、現在、未来に対応していて、三番目の精霊は声を出さないというのも、暗示的でうまい設定である。
 
しかし、一番うまいのは進行する場面場面の描写であって、舞台、映画にしたら、ビジュアルとして魅力、迫力があるだろう。
 
一年に一度、こういう話、場面を浮かべるのもいいかと思う。そういう意図も作者にはあったに違いない。日本の作品では、最近いくつか読んだ山本周五郎のものに通じるかもしれない。
 
ディケンズの作品、映画化したものとしては「大いなる遺産」を見ている。この映画の色調、「クリスマス・キャロル」にも通じると思う。前者に出ていたヘレナ・ボナム・カーターはどこかに使いたい。ロンドンの貧民街などには、ジョニー・デップもいいかなと思う。




ヴァン・ダイン 「僧正殺人事件」

2020-09-27 10:35:37 | 本と雑誌
僧正殺人事件 : S・S・ヴァン・ダイン 著 日暮雅道 訳 創元推理文庫
 
作者(1888ー1939)の名前は知っていたが、読んだのは初めてである。原題は「The Bishop Murder Case」、1929年の作品。
 
ニューヨークの著名な数学者、姪と養子の数学者と一緒に住んでいる。大きな家で、アーチェリーの練習場を持っている。近所に科学者が住んでいて行き来があり、またチェスの名手も出入りしていて、皆チェスには知識は持っている。
 
こういうところで、まずアーチェリーの選手が殺され、そのあと「だあれが殺したコック・ロビン?「それは私」とスズメが言った」という手紙が入り、新聞も知るところとなり、大騒ぎになる。手紙にあるサインは「僧正」でこれはチェスのビショップである。
 
警察、検察の捜査に加わったのがファイロ・ヴァンスというアマチュア探偵で、彼を中心に捜査が進んでいく。
そんな中、数学の学生が殺され、またも手紙が送りつけられる。ヴァンスはこれらはマザー・グースにあるもので、犯人はその世界をもてあそんでいると考え、それが推理の一つの側面となっていく。
 
そんな中、また殺人事件が続いていくが、どれにもマザー・グースや何らかの文学的な背景が読み取れる。
事件をいめぐる登場人物たちもヴァンスも大変な教養の持ち主というか、スノッブというか、細かい訳注もあるけれど、辟易するところはある。
 
こういう豪華絢爛な世界が魅力的に感じられたところは、当時あったのだろう。ただ、推理小説としては、どうも動機が読んでいて迫ってくるものではないところが、もの足りない。確かに動機というのは謎が解明されるまではあまり明らかには出来ないのであろうが、それにしてもである。
このあたりは、書かれた時代がある程度重なるフィルボッツ、クリスティーにも言えるところである。
 
小説の書き方からすると、この作品はヴァンスのサポートをしている「私」の叙述ということになっている。「私」はなんとヴァン・ダインという名前が一部入った法律事務所の弁護士を以前やっていたということで、作者の目の前で進行しているということなのだろう。
 
これはクリスティーがポアロを最初に登場させた「スタイルズ荘の怪事件」(1920)が、後にポアロのパートナーを続けるヘイスティングスの叙述として書かれていることを思い起こさせる。この時代には他にもかなりあるのだろうか。
 
また件のフィルボッツ代表作の一つに「だれがコマドリを殺したのか?」(1924)があり、マザー・グースの世界はこの分野にインスピレーションを与えているのかもしれない。

沢木耕太郎 「旅のつばくろ」

2020-09-11 10:00:46 | 本と雑誌
旅のつばくろ:沢木耕太郎 著  新潮社(2020)
旅のシーンを素材にして、そこから過去の何かを思い起こしたり、思い浮かぶことに頭を巡らせながら書いたエッセーで、JR東日本の社内誌に連載されたもの。私も東北新幹線、北陸新幹線の中で少し読んだ記憶がある。こういう一見軽い短いものはあまり多くないと思う。
 
著者は私と同世代で、初期からかなり多くの作品を読んできた。対象との距離の取り方、フットワーク、押しつけがましくないが鋭い考察と指摘、このあたりが長く読んできたわけとでもいうものだろう。
 
本書の中には、旅のつれづれに、十代の私などからすれば無謀な旅行、大学を出るときのこと、入社から退社そしてライターへと、そのあたりのことが少しずつ出てくる。多くはすでに知っていることだけれど、こういう流れで出てくると、読むほうにも、そういう風に思い出されることはあるよね、という感がある。
 
今回集められたものには東北が多いけれど、奥入瀬、金沢、鎌倉など、それなりによく知っているところもある。頷けるところ、ああそうなのかというところ、楽しい。
 
また、太宰治を掘り下げていること、酒は相当強いということ、他にも思いがけない人とのつながり、その人への言及など、これから何を読もうかという時に役に立ちそうなことがいくつかあった。
 
著者を知ったのは、ある深夜放送で最初の単行本「若き実力者たち」(1973)が紹介され、その場に沢木も登場していた時で、取り上げた人物たちと著者の姿勢が記憶に残った。
しかしこれを読んだのは少し後で、最初に買って読んだのは「敗れざる者たち」(1976)、これは頂点と下降を経たスポーツ選手(競走馬もいるが)の、著者が見たそれでも敗れざる一面を書いた秀逸なもので、私が最も好きな作品の一つである。

その後、「テロルの決算」、「一瞬の夏」など長いものであっと言わせたが、なんといっても「深夜特急」(1986)は旅を志す若者のバイブルになった。それでもその後もぶれずに、時々私が読みたくなるものを書いてくれている。
今後、軽いものでもいい、健在でいてほしい。