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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

『細雪』とその時代( 川本三郎)

2021-04-14 15:31:41 | 本と雑誌
『細雪』とその時代
 川本三郎 著 中央公論新社(2020)
 
ある程度の年齢になってから、日本の近代文学では谷崎潤一郎の小説を好むようになってきた。なかでも「細雪」は読む前の予想とことなり、その味わい、独特の充実感は格別だった。
 
本書はその「細雪」の舞台である阪神すなわち大阪の船場から芦屋、神戸にわたる舞台について、作品、登場人物に沿いながら、詳述していく。時代は昭和10年代前半、日中戦争は始まるが、米国との開戦前である。
 
谷崎は関東大震災(大正12年、1923年)の後、東京から阪神間に移住している。著者によると、震災で東京が打撃を受けた分、関西の経済が発展したが、昭和10年あたりになると、栄華を誇った名家も傾いてくる。主人公四姉妹の蒔岡家も例外ではなく、それがこの小説全体のトーンになっている。もちろんそのいわばほろびの美しさの描写は谷崎ならではである。
 
本書ではそういう細部、登場人物、舞台となった様々な場所、またそれらが谷崎自身と関係者のどういう部分を反映しているのか、そしてそれは時代のうつりかわりとどのように交錯するか。詳しい資料と解釈で書かれており、面白く読めた。
 
映画も二つくらい見ているけれども、思い出しながらなるほどと納得した場面もいくつかあった。
著者は三女の雪子がにがてだという。物語はもう年頃を過ぎようとしている雪子の見合い話の連続ともいえるが、まだるっこしくもあり、私も同様である。それに比べると末娘(こいさん)の妙子はいわばモダンガールで、仕事、恋愛について自立してゆくが、そのたひどい目にもあう。著者は妙子を評価し、この滅びゆく美の物語の中での、その意味を説く。
 
さて、「細雪」はこのようにすぐれた風俗小説なのだが、著者も書いているように二女幸子の眼を通して描かれている。そして幸子の夫のモデルが谷崎らしい。私の感想だが、それは夫の外面であって、幸子こそ作者谷崎だと考える。軍の忌譚に触れ途中で掲載続行できなくなったのは、、それが察せられたのであろうが、作者が女性の内面というのは、処分をそこまでにするという谷崎の巧妙な策ではなかったか。
本書では著述の主たる内容とバランスから、そういう文学論までは踏み込んでいないが、いたしかたないだろう。
 
実は著者とははるか昔に面識がある。川本氏は私の中学高校の2年先輩で、図書室の委員会で何度か話をうかがった記憶がある。氏は委員長で、先輩とはいえ、聞いたこともない作家の名前がいくつも出てきた。その一方で落ち着いた、どこか老成したところもある話し方だった。それはこの本のトーンにも感じられ、プラスにはたらいている。
本書では当時の服飾、美容などかなり詳しいが、それは亡くなった恵子夫人(著名なファッション・ライター)の影響もあるのだろうか。



フィルボッツ 「だれがコマドリを殺したのか?」

2021-03-18 09:21:48 | 本と雑誌
イーデン・フィルボッツ 「だれがコマドリを殺したのか?」
 武藤崇恵 訳  創元推理文庫
 
昨年はじめてイーデン・フィルボッツの作品を読んだ。その「赤毛のレドメイン家」(1922)と並んで有名であるらしい本作は原題「Who KilledCock Robin?」(1924)、ただこれは「僧正殺人事件」(ヴァン・ダイン)のようにマザー・グースの世界に特に関連付けられたものではなく、登場する女性の愛称というだけである。
 
かなり人気のあるミステリなのだが、「赤毛のレドメイン家」と比べると、終盤のジェットコースター的謎解きを除けば、ただの男女の愛憎劇といえなくもなく、肩透かしをくった感がある。
 
若い医師ノートンが友人の探偵ニコルとリゾートで魅力的な姉妹と出会い、知り合いになって、その妹ダイアナが好きになり結婚する。姉マイラとダイアナにはそれぞれミソサザイ、コマドリという愛称がある。
 
ノートンの唯一の近親は伯父だが、そのたいそうな遺産はお気に入りの秘書ネリーとノートンが結婚するときに限って遺贈すると決めている。このことをノートンはダイアナに隠しているわけだが、それがわかってきて二人の仲が悪くなり、ダイアナは病気で衰えていく。ノートンが毒を盛っていると言い出して、結果ダイアナは死んでしまうが、これはノートンが? あるいは濡れ衣か?という進行になり、探偵ニコルの出番となる。
 
二人の愛憎の愛の方があまりよく描けていない感じがある。
 
ところで、作者はこのドラマを三人称形式で書いている。それは普通といえば普通なのだが、今回気がついたことだけれど、各登場人物の描写に差があるとこの人は犯人か犯人じゃないかをある程度想像してしまう。特に感情を描写してしまうと、最後にあれは実はと言われても、ということである。
 
そう考えると、ミステリ小説でハード・ボイルド、つまりヘミングウェイ的に言えば形容詞を極力省くということは、その点で意味があるのではないだろうか。
 
フィルボッツはミステリ以外の作品が多く、そこでも評価されていたから、とも考えるが、どうなのか。




谷川俊太郎 「ベージュ」

2021-02-27 15:44:43 | 本と雑誌
ベージュ: 谷川俊太郎  新潮社(2020)
詩集をはじめから終わりまで順に続けてよむことはきわめて少ない。詩人の方も、一つ一つの詩をそういう想定で作ることはほとんどないだろうが、そうであっても読む人は読む。私の場合、この詩人の詩はどういうものなのだろうか、という興味が、一つ一つの作品を読みながらも継続していく、ということなのだろう。
谷川俊太郎も、詩集とか、初出の媒体などで読むよりは、なんらかの形で目に入ってきて、いくつかはなかなかだなと思った程度であった。
 
今回、この詩集は、昨年末に日本経済新聞で各分野の回顧の一つとして、蜂飼耳(詩人)が1年の成果の一つとして挙げたのを見て、初めて知った次第である。
 
蜂飼は「川の音楽」という詩の中の三行「川が秘めている聞こえない音楽を聞いていると/生まれる前から死んだ後までの私が/自分を忘れながら今の私を見つめていると思う」を挙げているが、谷川の他の詩集がどうなのかわからないが、たしかに今頭の中を巡りあるいている自分と、いつの間にか解き放たれている私、つまり私がうたっているというだけでない、なにかそういう世界を感じているという詩が、ほかにもいくつかあった。
 
あとがきにあったことだが、ひらがな回帰ということは、なるほどそうかと思う。何も考えずに漢字を使うことは日常よくあるが、頭の中で思い浮かべ流れていくことのはのながれはひらがなにふさわしいかもしれない。最近和歌を見直しているから、なおさらなのだろう。
 
谷川には社会の動きに敏感に、強くかかわるという感じはないように思っていたが、この詩集には少し政治の季節の中といったものもある。茨木のり子の詩ほどではないから、受け取り方は難しいが、たしかこの二人はそういうところについてお互いコメントしたことがあったように、どこかに書かれていた記憶がある。
 
実は谷川の詩をよく目にしてきたのは絵本やそれに近い分野であって、「ホットケーキ」(きりなしうた)とか海外の名作絵本の翻訳(レオ・レオニの「スイミー」など)だけれど、なんといってもナンバーワンは「もこもこもこ」(絵は元永定正)で、これ三歳前後の子供たちの前で読み聞かせをすると、最初から最後まで声をあげ笑いっぱなしで。抽象的な絵柄とオノマトペだけなのだが。どうやって発想できたのか、これが私にとっての、この詩人の「不思議」である。
 
前記の蜂飼耳を知ったのも彼女が作った絵本が最初のきっかけだから、面白いものだ。
さて、谷川は1931年生まれで、あとがきには米寿になった、ベージュという色は嫌いではない、とあった。年齢がある程度いくと、なんとなくわかる。

エマニュエル・トッドの思考地図

2021-02-14 15:49:17 | 本と雑誌
エマニュエル・トッドの思考地図
エマニュエル・トッド 著 大野舞 訳 筑摩書房
 
この本、完全日本語オリジナルとある。おそらく日本で最初に(日本でのみ?)出版する前提で書かれたものだろう。このコロナの時期にいかにもという気もしたが、トッド・ファンとしてはまず読んでみるということになった。読んでみると、そうキャッチ―なものではなく、むしろトッドはどうして今のような学者になったか、ものを書くひとになったか、ということを、かなりくどく語っている。
 
父はジャーナリスト、祖父はポール・ニザン、ユダヤ系であり、元共産党員、一応高学歴だが、しろいろあって数学が得意だったこともあり、統計学を使った社会学特に人口学を専門とするようになる。
そうやって具体的な事象、数字を見ていく中で、乳幼児死亡率がらソ連の崩壊を予測するという有名な指摘が出てくる。
 
ケンブリッジで学び研究したころから、フランスの哲学重視よりイギリスの経験主義に傾いていったようで、このあたりかなりぐたぐた書いているが、納得できるところは多い。
 
そういうところを見れば、例の2015年の「シャルリ・エブド」襲撃事件を受けて、フランス国内に起こった「表現の自由」を標榜したデモを「イスラム差別」とした分析もより理解できる。今のマカロン政権に対しても非常に辛い評価である。

この後トッドは国内でかなりいろいろ言われたようで、本書でもちょっと被害妄想的なところもある。それでも昨今のいろんな事象にも共通することだが、シンプルなポリティカル・コレクトネスが第一になってしまい、各地域の家族構造や収入、ジェンダーなどの要素をベースにした議論がしにくくなっているというのは納得できる。
 
その一方で、人が生まれてどういう家庭、学校、付き合いで育ってきたか、その過程でどういう趣味を身につけたかが、かなり大きな影響を与えるというブルデューの主張については、あまりにも見えている議論と、いやみを再三言っている。共通するところは多少あると思うのだが、何かあるのだろう。
 
コロナについては、これより1980年代のエイズの方が人々に与えた恐怖感は大きいという。コロナで死ぬのはかなり高年層だから、これが地域の生産力、人口に長く影響することはないが、エイズはなにより若年層が感染、死亡するわけで、そう言われると、今の欧米の多少ゆるい対応にはこういう背景があるのかなと考える。

小説伊勢物語 業平(高樹のぶ子)

2021-01-24 14:58:57 | 本と雑誌
小説伊勢物語 業平:高樹のぶ子 著 日本経済新聞出版
 
日経新聞に連載されていたのは覚えていて、本になったら読んでみてもいいと思っていた。評判もよく、このところ日本古典の新訳に親しみ、「方丈記」、「堤中納言物語」と和歌がよく出てくるものが続き、しかも後者は恋物語ということから、自然に本書ということになった。
 
これは伊勢物語の現代語訳ではなく、小説化したもので、作者が推理したり想像したりしたものが入っているが、結果としてより在原業平の生涯が、そして業平が読んだ歌が、いきいきとしてくる。

和歌のつらなりで話が展開していくが、歌はもちろん原文どおり、それに解説相当の文章がついて、そのまま話が続いていくから、歌をあじわいながら読み進んでいくことができる。
 
在原業平(825-880)は皇族が故あって名字を持つ傍系の出で、少年のころから歌の才があり、多くの女性との間に交情があった。
物語に語られているように、この時代特に業平に関しては、その交わりは歌を介して展開するもので、男女双方とも優しさ、思いやり(忖度といってもいいが)、そして思いのほかの大胆さがあって、あとの時代に比べるとより自由であり、人間的といってもよいように思われる。
 
多くの女性の中で、作者によれば男としての業平にとってのファム・ファタルは藤原高子(たかいこ)、人間として長く寄り添い続けたのは斎宮の恬子(やすこ)で、この二人との間の描き方は、交わされたいくつもの歌とあいまって深く感ずるところがあった。
 
そしてならぬ恋の相手であった高子は宮中で歌のサロン振興に務めたようで、現在まで続く和歌の流れにとって業平とともに功が大きいといえるだろう。
 
この時代、もちろん男性にとって大切なのは漢学、漢詩であって、かの菅原道真も業平より一世代あとである。いかに業平がある意味で先をいっていたか、ということだろう。
 
つひに行く道とはかねて聞きしかど
   昨日今日とは思はざりしを
              (在原業平)
 
まだ健康ではあるが、このご時勢では身に染みる。